遺言#8

無意味な仕事はしたくない。意味のない仕事なんてないなんて嘘だと思っている。少なくとも僕が価値を見いだせない仕事はある。だからそういう仕事を僕はやらない。やらない方が良い効果がある。僕がみいだせない仕事を無理にやるより、そこに見いだせている人がやった方がいい。

僕は最近見い出せそうな仕事は子供の誕生日を祝うことをサポートする仕事、もしくは祝う能力を高める仕事だ。僕だけかもしれないが誕生日は僕が欲しい物が買ってもらえてケーキや普段食べられないご馳走が食べられる日だ。誕生日おめでとうと言われるが、その嬉しさよりも物と食に喜びを感じた。物心着いた時からだ。だから祝う方になったとして、そういう祝い方しかなかなか思いつかない。職場でスタッフの誕生日を毎回お祝いしようと率先して指揮を取る人がいる。僕は正直お祝いしたいという気持ちがないのに、お祝いをしなくてはいけないことがめんどくさい。お祝いした方がいいことは分かっているが、その気持ちが全くない。高校の時イツメンの中にも率先して誕生日パーティを開くヤツがいた。それによって仲が良くなったり楽しい時間を過ごせたことがあった。でも、いつもパーティを開くヤツの誕生日パーティを
開く音頭をとるやつは表れなかった。仕方なくそいつは自分で音頭を取って開催した。僕を含めて友達同士で俺たち薄情なやつだなと苦笑いをしたことを覚えている。

祝う気持ちというのはどういうものなのか。
誕生日はその人が生まれてきてくれたことに感謝したり、その人が生まれてきてよかったなあと思える日にしたい。でも、そのために準備したり考えたりするのがめんどくさい。
大切な人ではあるがどうやったらいいか分からない。本当は大切に思ってなんかいないんじゃないかと自己嫌悪する。でもきっとそうじゃない。祝い方を知らないからできないだけだ。僕は見ず知らずの人から祝われても嬉しくない。祝われたい人から祝われたい。自分が喜べる祝ってくれる対象は限られていると思っている。誕生日の祝い方をアップデートしたい。物とケーキ、毎年変わらない。しまいには祝うということが無くなる。そして変に祝われると無邪気に喜べなくなる。あぁ無理させてごめんねと。そうなってしまったのはなぜなのか?そうじゃない方がなんかいい気がする。祈りの本質については本があった。祝いについての本質を知りたい。

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