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2024年を迎えて思ったこと

新年明けましておめでとうございます。新しい年が明けたことを喜べる状態がありがたい。お正月は時間にも心にも身体にも余裕がある状態なので今年の祈り的なものを書き出していく。

・なるべく目標を作らず心のままに過ごす
・適当に働き月10万づつNISAし、10~15年後働くことを辞めるということを念頭に働く
・プレゼントが上手くなるということについて実践して記録して積み上げる
・麻雀する

と書き出してみたが1つ目の書き出しが全てでそれ以外は1つ目の具体的な内容かもしれない。

面白い時間を過ごすという目的で始まった過去6年間の振り返りと総括を終えた。僕にとっての面白いとは心が動くことであり、そうするためには想定外の出来事が無作為に起きることだった。が、毎日の非日常は刺激を生むがそれを作るためにはお金がかかりすぎる、(お金をかけないと生み出すことが出来ないほど自分に足りないものが多いということ)生みだした刺激に慣れることで非日常は日常になりそれを超える刺激を求め続けなくては物足りないという気持ちになってしまった。そこから日常を非日常に変えるのではなく日常は非日常だと認識することを始めた。当たり前は当たり前ではない理由を見つけるために観察し調べる。裏付けがあると信仰しやすいからだ。

なんだかんだと考え自分なりに行動してきた結果、何がどうなろうと自分はどうにか出来るしどうにもならなくとも何も問題はなくやりたいならやればいいし、やらなくてもいいし、やれなくともよい。ほとんどのことはどうなってもよい。ただその中でこれはこうしたい、こうあるべきだというものがあったなら、それは大切にしていったほうが生きている間退屈を紛らわすのに役立つ。という考えになった。なりたい自分があったとしてなりたいならなったって良いし、なれなくても何も問題ではない。やりたいことがあればやればいいし、やれなくとも誰も責めないし、出来なくても何も悪くない。そこで心が動こうが動かなかろうが良い。特に何かを考える必要もなく、従ってもいいし、従わなくてもいい。

愛は自分から他者に対して向けた時、受け取ってくれた者がそれを愛だと感じた時に初めて愛となり、それまではエゴであると考えている。僕は他者に対して何かをしているように見えることだとしても自分のためになることをする利己主義な人間なので、自分の得になる範囲を増やすか、自分という認識を広げることで社会生活をやりやすくことが出来る。相手のためにすることも全ては自分のためにすることだと考えているが、相手が喜んでくれることはとってもありがたいことで嬉しい。その感覚をまた得たくなってやってみるが、そうならないこともある。かえって傷つけてしまうことがある。僕は傷つけたくない人を傷つけないようにするためにコミュニケーションの方法を勉強したり想像力を働かせられるよう自分に余裕を持ったりする。それは傷つけたくない人を傷つけてしまった時自分が傷つくのを防ぐためである。そんなことを何度も繰り返している間に傷つかない方法として他者との距離をとったり、傷ついていることを認識しないようにしたりする。なるべく傷つかないように、他者に受け取ってもらいやすくする為に色んな工夫を凝らして届ける。この世のありとあらゆるやり取りがそういうものなのかもしれないと思った。そしてそれはとってもエネルギーの効率が悪いことだと思った。

僕はいつからか人をお祝いすることが面倒だと思うようになった。もしかしたら面談じゃないと思ったことがなかったかもしれない。
今のパートナーと出会ってその人に対してはそう思わなくなった。そのお祝いを考え実行することはとても良い時間だった。
僕は誕生日は自分が欲しいものを貰える日だと思っていた。普段食べることが少ない美味しいものや高価なものを食べることが出来る日だ。ケーキにお誕生日おめでとうと書いてあったり、ハッピーバースデーを言われたりしたけどそれが本当はどういう意味なのかさっぱり分からなかった。誕生日は自分が生まれてきたことを感謝される日で自分でも生まれてきて良かったと思える日だった。それは自分自身で祝うことも出来るし他者から祝われることが出来る。でも、祝うということを僕は面談なことだと思っている。祝うとは人を喜ばせるということだからだ。そのためにはその人が好きなものや嫌いなものや今何を求めているか、何を求めていないか、どういう時期でどんなことがあったのかを知っていた方が出来ることだが僕にはそれが難しかったし、振り返るとそうされたことがなかった。形式的なお祝いは人並みにされてきたし、当時を振り返ると嬉しかった感情はあったと思うが、それは生まれてきたことを喜んでいたのではなく美味しいや欲しいものが貰えてうれしいだったのではないか?と思ってしまう。ここで、愛は受け取ってくれた者が愛だと認識した時に愛になるという考え方からすると僕は過去の祝いをそう受け取ることが出来なかったのだろうと感じる。祝うことを面倒に思うようになった理由は、祝われた時に祝った側の気持ち(自分が祝った時の気持ち)を思い出しやりたくなくなるからだ。そして本気で祝ったとしても相手が本当に喜んでくれるかどうかは分からないからだ。祝われた時はたとえそう出なかったとしても喜ぶのが社会生活を円滑にする方法の一つだと僕は思ってしまっている。嫌なものは嫌だと言っても良いかもしれないが、心が動かないものに対しても動いたように振る舞うことをしなくてはいけないと思うと祝われたくないと思うようになったのかもしれない。そうなった時、自分の気持ちは置いておいて相手が喜んでくれたらいいし、喜んでくれなくても自分が相手にそれを求めないというスタンスが軋轢を産まずに祝うことが出来る方法であり、それが愛だと思われやすいのではと僕は思っている(いわゆる無償の愛)のだが、それはあまりしたくない。なぜなら僕は利己主義者だから。無償の愛をする人として利益があるのも確かだけどそうではないやり方で祝いたいし、愛したい。その方がエネルギーの効率もいいし、何より自分の欲を満たすことが出来る。誕生日は生まれてきたことを祝われる日にしたいし、そう祝いたい。何よりそういうことをする相手とそういう関係性を築きたい。ということで僕はプレゼントが上手くなりたいと考えていた。贈与やプレゼントという言葉や行為にはプレゼントをした後お返しを求めているという意味が込められてしまっているという文章をどこかの本で読んであまり好きではないと思った。僕はテイク前提のギブがこの世で一番嫌いだからだ。そんなギブはされたくない。そしてしたくもない。だからビジネスは好きじゃない。ギブアンドテイクの関係性を持ちたくない。win-winか1番はlose-loseが良い。僕は何かを求められた時に返せないことが嫌だし、返したくないのに返さないといけないという状態が嫌だ。返したかったら返す。返されることを当たり前だと思っている人と関わりたくない。僕の矢印は相互だけではない。もっと色んな方向にある。

ということも上手くいっても良いし上手くいかなくとも良い。傷つきたくない失敗したくないだけなのかもしれない。それでも別に良い。そうしたくなった考えずともそうするようになっている。やりたいことは気づいたらやっている。やりたくてもやれないなんていうのは僕の中では存在しない。やれない理由はやりたくない理由があるからで、本当にやりたかったらその理由を解消するために動いてしまうものだと僕の中では決まっているからだ。

この決まっていることも本当は決まっていない。この瞬間から変わったって良い。言ってることとやってることが違う人は信用出来ないし信頼出来ないが、言ってることとやってることが変わらない人も同じように信用出来ないし信頼出来ない。変わるし変わったことを伝えあって訂正し続けていることが僕は信用出来るし信頼出来る。

心のままに。
出来るだけ悪いことや悲しいことが起きて欲しくないし、わざと起こす必要はないが起きてしまった時に立ち直れるよう。
良いことはいくら起きても良いが、それが悲しみに繋がったとしても、その後の良いことに繋がっているよう。
良い死とは?について納得がいく考えを思いつきますよう。それが出来ると途中で何が起きても何も問題無くなるスーパースター状態になる。今のところそれは劇的なものでもなく突然でもあり、全然来ないものでもあって出来るだけ待ち望むくらい生に飽ききるほど生きることが良い死だと思っている。それは時期や成し遂げたことや長さなどには関わらず。自分でそう思ったらで良いと考えているが、そうなることなどないくらいこの世は面白すぎるので難しいと思っている。

マハロ



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