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でけえ声の女VS成績も運動もできない姉がカリスマの妹

僕自身、選挙というものにはトラウマがあり、その言葉を聞く度に正直なんとも言えないイヤな気持ちになります。

小学三年生の話です。そこはちょっと奇妙な教室でした。先生に褒められた生徒の名前が黒板に花丸で記され、先生から叱られた生徒の名前はバツ印で記されるというひどいルールがありました。

『衆院選2021「選挙に行こう」プロジェクト』に寄せた映画監督 岩井俊二氏のコメントだ。

GO VOTE!というわけじゃないけどこれを読んで自分も同じく嫌な記憶が掘り返された。

中学1年生の時。学級委員長になろうとしたことがある。

当時の担任が、姉のことも受け持っていた先生で「◯◯の妹なら、学級委員長になるよね?」という押し付けからであった。

当時の姉は運動部ではエースでキャプテン、先生とも男女問わず仲良くなるキャラクターで、学園ではカリスマ的な立ち位置だった。

比べてわたしは、まあ、絵が好きな隠キャだ。

姉みたいにならなくてはいけないという焦りがあった。しかし、立候補したのはわたしだけではなかった。スポーツができるののちゃんが立候補してきたのだ。彼女は決して勉強ができるわけではなかったし、スポーツも群を抜いていたわけではなかったが、先生、男女問わず馴れ馴れしさと大きい声で学園を席巻してきた。「番を張っている」なんて言われ方もしていた。

小学生の頃のののちゃんはは少し引っ込み思案だった。帰り道が途中まで一緒だったので、で彼女の家に遊びに行くくらい仲が良かった時もあった。
気がつくと彼女は変わっていたのだ。声がでけえ仕切り屋の女に。

声がでけえ女 VS 姉がカリスマだが勉強も運動もできない妹

選挙が始まった。

ののちゃんとわたし、2人で廊下に出る。我々、どちらが学級委員長にふさわしいか、投票する生徒を待つためだ。まるで永遠かのように長く感じた。

今ここにいるということは決して永遠ではなかったという証明だ。
おめでとう。

ののちゃんは「どっちになっても応援しようね」なんて口では言っていたが、「なんで成績も良くないし運動もできないし人脈もないお前が立候補するんだよ。落ちるに決まってんだろ」という表情が見え見えだった。そういう不器用なところも、嫌いではない。

テレビっ子のわたしは数々の逆転劇ドラマを見てきたせいで「面白くなってきたじゃなーい」と緊急取調室の天海祐希演じる真壁のように勝手にゾクゾクしていた。もちろん、キントリが始まる遥か前だが。

先生に呼ばれ、黒板を見ると、わたしとののちゃんの名前の下に正の字が書かれている。

圧倒的ののちゃんの勝利だった。

わたしは「そりゃそうだな」と思いながらかなり気まずい気持ちで席に戻る。この中のほとんどがわたしの存在を認めていない、針のむしろのように感じた。望み通りというか、予想どおり、ののちゃんは晴れて学級委員長に任命された。「少し不安だったけどやっぱりわたしに決まってるよね」そういう顔、見え見えだったが、ここまで見え見えだと逆に清々しかった。「みんな、ありがとう!これからよろしくね!」と、まるでドラマの主人公にでもなったかのようにでけえ声で言うののちゃん。まるで、ののちゃんを引き立たせるために立候補したわたし。なんだか、自分の存在そのものが恥ずかしく思えた。姉と違う生き物なのになんでこんなことしなきゃいけなかったのだろうとぼんやり考えていた。

先生がさりげなく寄ってきて、「あんたお姉ちゃんと全然違うねえ〜。なんでかねえ」と言った。

知るかよ。

岩井俊二さんの学校だったら、そもそもわたしみたいな人間は立候補すらさせてもらえなかったはずなので、そう考えると平等なのかもしれない。でもあの時のののちゃんの「わたしが選ばれて当たり前じゃん」という顔や、先生の期待はずれだな、こいつ。という顔は未だに忘れられない。でも、それも自分が望んでやったことだし、嫌な記憶ではあるけれど、後悔はしていない。

後々、そんなに仲良くないはず子から「わたしはさぐちゃんに投票したんだよ!本当に、そうなってほしかった」と言われた。

その言葉は、クラスの過半数以上のののちゃんの正の字よりも価値があるものだったと、今では思える。

それは、自分で意思表示をしなければ得られない経験だった。
その時の「姉のようにならなければ」という焦りに拍車をかけた教師も未だに許すことはできないが、学級委員長になろうがなるまいが、わたしはわたしだと言って欲しかったなあ。

ののちゃんは、今、何をしてるんだろう。そのでけえ声が何に役立ったのか、教えて欲しい。

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