機動戦士ガンダムSEEDにおける「愛」と「存在の肯定」について

2か月前に機動戦士ガンダムSEED FREEDOMについての記事を投稿しました。
劇場版で受けた衝撃のまま、インタビューの追っかけもTVシリーズの振り返りも出来ていない頃に書いているので、今読み返すとやはりだいぶ浅いところがあるのですが、当たらずとも遠からずの部分もあり。
勢いで書いてしまった自戒も込めて手は入れないまま載せておこうと思います。当時の疑問に対しては、舞台挨拶等の発言で既にアンサーが出ているものも多くありますね。

先の記事では、「愛」とはなんたるかを掘り下げないままに「愛」の側面を書いてしまったので片手落ちであり。
なんとか考えを深めたいと、とりあえず思い付いたことを書き溜めて、小説下巻が発売されて拝読したらまとめようと思っていたのですが……
  次々に出て来る今と昔のインタビュー!
  実家から掘り起こされる20年前の遺産!
  再生出来た20年前のDVD! etc……
頭の中で過去と昔がぐちゃぐちゃになりどんどん発散していく思考。 書き溜めたことは沢山あるのですが、まとめる取っ掛かりがなくなってしまっていました。

そんな中で、TVシリーズで描かれた人間関係について人と話をする機会があり、自分でも改めて振り返ってみると、劇場版のテーマにされた「資格と価値」もTVシリーズの中にきちんとあったんですね。
そして今回の劇場版で1本筋を通した「愛」。 それは愛とも恋とも名付けられないきわめて純粋な思いとして、確かにそこに描かれていました。

この作品を通して、私が解釈した「愛」とは何か。
そして、人間を構成する側面としての、「存在」「役割」とは。
主にラクスとキラに焦点を当ててまとめたいと思います。
(長くなってしまったので他の人物については別記事にまとめたい……!)

【おことわり】
 ・機動戦士ガンダムSEED FREEDOM 映画の内容と小説上下巻のネタバレを含みます。
 ・インタビュー等について認識違いがありましたら申し訳ございません。
 ・文中では、TVシリーズSEEDを「無印」TVシリーズDestinyを「種D」と表記しています。


ただ「いる」あなたを肯定する

結論から書くと、記事タイトルの通り、
本作における「愛」とは「存在の肯定」を意味するのではないかと考えています。

  あなたがそこにいるだけでいい。
  それはあなたがあなただから。
  ただあなたに生きていて欲しい。

そういった、生きている人をただ認めるようなもの。
それを「愛」としているのではないでしょうか。

「あなたがやさしいのは、あなただからでしょう」
無印8話『敵軍の歌姫』にてラクスがキラに掛けた言葉です。
救命ポッドを拾い、ドックの中に浮いた彼女を腕を引いて引きとどめ、揉め事になりかけた食堂から彼女を連れだした。
彼女は、立場でも能力でも人種でもなく、行動に表れた彼の人となりを認めた。彼自身の在り方を善いものとした。

人間として存在する「あなた」を肯定する言葉。
これこそ一番最初の「愛」の表れであるように思います。


「いる」=存在と「する」=役割

では、「愛」と呼ばれるところの「存在の肯定」における「存在」とは何でしょうか。
ここでは、人間の側面を「いる」=存在、と「する」=役割、に分けて整理してみたいと思います。

  •  「いる」=存在:生命そのもの、身体、人格

  •  「する」=役割:その人が他者に求められて行うこと、能力や価値に基づいてなされるもの 

存在とは個人に基づくもの、役割とは社会的なもの、ともみなせると思います。

無印の物語で、ヘリオポリス襲撃以降キラはただ生きて「いる」=存在することが難しくなってしまいます。
中立国の中でただの学生として過ごしていた筈なのに、コーディネイターであるだけで銃を向けられる、そんな戦争の現実を突き付けられてしまう。
状況に巻き込まれるまま、ストライクのパイロットとして戦うことが彼の「する」=役割になってしまう。そうしないと生きて「いる」ことが出来なかったから。

彼はただ「いる」ことが出来なかった。
どんなに戦うことが嫌でも。親友に銃口を向け、そして向けられることになっても。
戦う役割を引き受けなければ、「いる」場所も命も失ってしまうから。


「いる」場所、「居場所」について

キラは、ヘリオポリス襲撃時に逃げ惑う友達を守りたいをいう思いからストライクを駆ることになりました。
守りたいという思いから始まったものなのに……皮肉なことに戦えば戦うほど彼は「いる」場所、「居場所」を失くしてしまいます。
それは、周囲の人が彼の「役割」、戦うことを評価してしまったためです。
彼は「役割」によって価値あるものと期待され、言ってしまえば利用されるようになる。
「役割」のないただの彼の「存在」は、他人に顧みられるものではなくなってしまう

無印10話『分かたれた道』では、父親を亡くし「本気で戦ってないんでしょ!」とキラをなじるフレイの発言と、カズイが立ち聞きした、イージスのパイロットが彼の友であるという事実は、必死で戦っている筈の彼への疑念を生じさせてしまいます。
これは最早、戦う「役割」をこなす彼に、ただ「いる」だけのことを許していない証左であり、だからこそ、ラクスを逃がす彼に「おまえはちゃんと帰って来るよな、俺達のところに」と念を押すのです。
「俺達のところ」は彼の「いる」場所=「居場所」では既にないのに。

ただの学生だった頃は、コーディネイターであったことを打ち明けても笑って受け止めてもらえたのに。
戦火の中、本人も周囲も自覚しきれないまま、キラがただそこに「いる」ことはもう許されずにあった。彼を「役割」に閉じ込める外堀は、自覚/無自覚に関わらずすっかりと埋められて、彼はそこを「居場所」と思い込んでしまった。
そのため、友人達が除隊許可書を破り捨て艦に残ることを選択した結果、彼はその人格に背いてまで「役割」を前提とした場所に身を投じてしまうのです。

この「居場所」に関する選択は、結局映画FREEDOMにまで尾を引くことになってしまいます。戦いたくない筈なのに、彼自身も戦場で戦う「役割」を引き受けてしまう……。


命の保障、見返りを求めない行動に表れる「愛」

アスランとの死闘の後、キラはプラントにあるクライン邸で目を覚まします(無印29話『慟哭の空』ラスト)。
重傷を負った彼を保護し、世話をしながらも、ラクスは彼に対して何も求めることはしません。
見返りとしての「役割」も求めない。ただ安全で美しい場所で、存在して「いる」だけの彼を守っている。
ここにいていいのかと口にする彼に、「『もちろん』とお答えしますけど」と回答しますが、それはまったくの本音なのでしょう。
役割に先立って「ある」、個の命として存在する彼を肯定しているのです。

また、戦火の中で殺し殺された後悔を口にするキラを否定しません。
あなたは敵と戦った、守れたものも沢山ある――と。
それは「役割」を通す中でなされたことではないのか、ラクスはそう問うています。

結果的にキラは決心を決め地球を目指すことになるのですが、それは彼の「役割」からではない、彼の「存在」の側から出た結論であることを悟った故に、ラクスはその意志を尊重してフリーダムを差し出したのでしょう。(次項で補足します)

また、無印DVD最終巻に収録された追加エピソード『星のはざまで』では、孤児院の中で特になにもせずに安楽椅子に座るキラの姿が描写されています。
楽し気に孤児たちの世話をしているラクスとは対照的です。
しかし、その姿勢こそが「愛」の表れに思います。
彼はここに「いる」だけでいい。何の「役割」も負わされず、ただ生きているだけでいい。
料理をし家事をこなす彼女の行動は、確かに彼の「存在」を、命を支えるものです。
慎ましい生活の中、ただ彼がここに生きて「いる」ことが出来るように。

なお、『星のはざまで』で描かれたものはそのまま種Dの孤児院の描写に繋がっています。


ラクスの問いかけと問いかけでない発言

ラクスの「愛」は、基本的に行動によって描写されています。
言葉で紡がれることは殆どありません。

というのも、彼女の発言は基本的に問いかけの形式を取っています。
目前に居る人が本当は何を考えているのか、自省を促すために言葉を使います。この態度は個人に対しても集団に対しても変わりません。
が、キラに対しては少し事情が違います。

無印32話『まなざしの先』で、キラはラクスに戦地に戻る意志を伝えます。
彼女は戦う理由と相手を問いますが、彼はザフトと地球軍、その両方に首を振る。
「僕たちは、何と戦わなきゃならないのか、少し、分かった気がするから」
ここで彼女は目を見張るように表情を変えます。
戦いたくない、居場所がない、なんで、どうして……
二つに分断される世界の中で、「役割」に染まり切れずに自己への問いかけを繰り返した彼。
居たい場所すら分からない彼が、戦わずに「いる」、ただ「いる」ことが出来る世界への道筋を、彼の決意の中に見てとったのかも知れません。

このやり取り以降、無印においてラクスはキラへ問いかけを行いません。
決意を固めた彼に、彼女が問いかける必要はもうなかったのでしょう。
代わりに、明らかに「愛」、存在の肯定を滲ませる言葉をかけるのです。

「でも……今ここにあるあなたがすべてですわ」
無印44話『たましいの場所』出生の真実を知り、フレイも地球軍に回収されてボロボロになったキラがラクスの膝の上で大泣きする回です。大泣きの最中に掛けた言葉です。
文字面そのまま、彼の存在を肯定する言葉です。彼の真実を全ては知らなくても、ただここにいるあなたを想っていると。
また映画FREEDOMの「愛」と「命」の結論にも結び付く発言であると思います。

「帰ってきてくださいね、わたくしのもとに」
無印46話『怒りの日』みんながちゅーする回にて、ラクスにしては直球過ぎる願望を発露した言葉です。
帰るとは、帰る場所があることを前提とした行動です。
彼女は、アークエンジェルで彼に出会ったときには、キラに居場所がなかったことを察していたのでしょうか。
それとも彼女自身が、彼がただ「いる」ことが出来るような存在になりたかったのでしょうか。
彼の側にただ、身を寄せて。


ただ「いる」、存在することの危機

無印後~種Dの序盤まで、ふたりはオーブで穏やかで慎ましい生活を送っています。何の役割も求められずに、ただ「いる」ことが出来る日々。

ブレイク・ザ・ワールド以降、その日々には徐々に影が落ちてゆき、物言わぬキラの眼差しは憂いを帯びてゆく。
声も掛けずに彼を見るラクスの顔も曇ってゆきます。

やがてオーブが大西洋連邦と同盟を組むことになり、コーディネイターである彼らはオーブに「いる」、存在することすら難しい情勢になってくる。
避難先の別邸への攻撃、カガリの政略結婚ともタイミングが重なって、「いる」ことが出来ない彼らは戦いの路に舞い戻る。

無印では笑顔のシーンが印象的だったにもかかわらず、種Dでは不安気な表情を浮かべることが多いラクス。
戦いに戻ることで、最早保障されないものである「存在」に拠った、キラの人格が押しつぶされることをこのときから危惧していたのではないでしょうか。

上記は映画FREEDOMで出た「当時のキラは戦いに疲れて壊れているので迷いがない」といった意の監督インタビューも参考にしています。(パンフレット等参照)

(若干話が逸れますが、種D13話『よみがえる翼』でラクスがフリーダムの引き渡しを最後まで嫌がったのは、襲撃の原因が彼女にある(彼女の命が狙われた)ことと、キラが戦う「役割」を引き受けることが嫌だったのではないでしょうか。
その場全員の命が掛かっていたことと「なにもしなかったら、もっとつらい」の言葉で観念してしまいますが……)


種D後、結局懸念は払拭されないままに来てしまいました。
キラはデュランダルを否定した責任を感じたまま「役割」を受け入れ、ラクスも人々に望まれたように振舞う「役割」を引き受けた。

お互いに「役割」を引き受けてしまって、もはや「いる」だけのシンプルな愛の在り方に立ち戻れなくなってしまったことが、映画FREEDOMの前半の描写であると思います。
不釣り合いな邸宅の中、ただお互いの存在を認めて「いる」ことすら出来ずにすれ違う……。


「愛」に対するキラからのアンサーとは

キラの「存在」を認めて、守って、見つめて来たラクス。
彼はそれを分かって受け止めていたのでしょうか。

「不思議だな、って思って」
これは先に書いた、『まなざしの先』『星のはざまで』の両方でキラから発される台詞です。
そしてどちらの回でも、生きていることが不思議、という意の言葉が続きます。
ただの学生で本来なら庇護のもとにある筈の少年が、命を投げ出して「役割」を求められすぎた結果、ただ「いる」、生きて「存在」することを受け止めきれずにいる葛藤。
少なくともこの段階では、なにも「する」ことのないままに存在を肯定されることに対し、戸惑いがあることが分かります。

先に書きましたが、戦いから下りられる機会があったにもかかわらず、彼は「居場所」に関する選択を誤っています。彼の「存在」に自ら背いて、戦場で戦う「役割」を引き受けてしまう。
ただ「いる」ことが出来なくなっているために、ただ生きて「いる」ことを守りたかった彼女を、彼は顧みることが出来ない……。

皮肉なことに、何かを「する」ことが出来ない、社会的に死人になりただ「いる」しかない状況になって、キラはようやく自らのこと、ラクスのことを振り返ることが出来るようになります。
それが、映画FREEDOMにおけるエルドアの悲劇後~殴り合いの問答のシーンです。
砂浜を歩き、破壊された孤児院の跡を見て回り……。
小説下巻で彼が意識を取り戻したシーンでは、クライン邸の温室で目が覚めたときのことを追憶しており、礼拝堂跡では孤児院で過ごした日々のことを振り返っています。

そして殴り合いの問答です。容赦ゼロのアスラン。
「ただ隣で笑っていて欲しいだけなのに」
吹っ飛ばされてこぼしたこの言葉こそ、キラとラクスの「愛」の形。
いつも彼女がしてくれていたこと。否定も押し付けもなくただそばにいたこと。

「言葉にしないと、伝えられないこともあるから」
その言に促され、遂に彼はアンサーを口にします。

「その目が見えなくなっても、声が失われても、ラクスはラクスだ。僕はそのすべてを愛している」
役割ではない。能力でもない。
ただ「いる」ことの肯定。存在の肯定。
ずっとそれを贈られてきた彼がようやく辿り着いた、「愛」の表明であると思います。


映画FREEDOM小説版下巻エピローグについて

前回の記事で、あのふたりは自由を求めればこそそれぞれのフィールドで戦い続けるしかない、という個人的見解をまとめたのですが……
小説版のエピローグでふたりは行方不明扱いになってしまいました。
すっぱりと「役割」から下りて、物語の向こう側に走っていってしまいましたね。全裸で。
ということで言い様のない寂しさを覚えたりもしたのですが。

失踪した理由として、ラクスがアコードの生き残りになってしまったこともありますが、理由としては彼女の在り方によるものが大きいのではないかと考えています。

彼女は元々プラントのアイドル、偶像です。
人間として「いる」=存在と「する」=役割。
そんな二分で考えてみても、偶像とは「存在」と「役割」が同一化され得てしまうもので、社会的に「いない」ものにならないと、ただ「いる」ということが達成出来ない。

失踪とは役割から下りて彼女自身に立ち返るための手段であったのかもしれません。
ただ「いる」、ただ生きて、お互いを想い合うだけの愛を貫くために。


戦争を描いた物語が至った実存主義的結論

「人は必要から生まれるのではありません、愛から生まれるのです」
映画FREEDOMクライマックスのラクスの言であり、監督がXで公開した(※)初期プロットに書かれた言葉であり、映画のテーマであり、両澤さんがこの世に遺した言葉です。

また、アニメージュ2024年4月号に掲載された監督のインタビューは、この言葉に触れた上で、命は作るものじゃなく、生まれるもの。これが最終的なSEED世界の結論だと締めくくられています。

目的や役割を前提として命があるのではない。
命は生まれるもの。「存在」するもの。「存在」こそ愛。
映画FREEDOMで描かれた「愛」と「命」の結論は、実存主義的であると考えています。

「実存は本質に先立つ」
実存主義哲学者、サルトルの言葉です。
「人間はまず先に実存し、世界内で出会われ、世界内で不意に姿をあらわし、そのあとで定義されるということを意味するのである」(『実存主義とは何か』より)

サルトルの思想は、第二次世界大戦後の不安と混乱の中で発され、人々に熱烈に支持されました。
戦争の時代を生きたサルトルは、反戦のメッセージを強く発信し続けてきたことでも有名です。

ガンダムSEEDは、3.11以後、分断に進む社会の中で作られた作品です。
「愛」とは何かを考えた末、戦争を描いた作品であることに立ち戻ることになりました。
この物語に込められた切実な願いを感じずにはいられません。

(※)https://twitter.com/fukuda320/status/1761963443899507098


おまけ:20年経っても私の中にいました

以降はごく個人的なあとがきです。

前回の記事は、映画FREEDOMおよび小説上巻の衝撃と、蘇ってしまった太古の記憶に脳が圧迫されて、頭の中が苦しいのに考え続けずにはいられない、書いて吐き出さないと内部崩壊する、そんな煮詰まった精神状態でまとめたものでした。
脳みその中が渦巻いて、公開初週の1週間は1日置きにしかマトモに眠ることも叶わなかった……
それでも。
それでも何か書きたい、何とか文字にしたい。その衝動に突き動かされた事実こそ、この作品が私の人生に強烈に影響を与えていたことの証左でした。

当時色々あり実は長い間封印していたのですが……
SEEDの物語は確かに、私の中に居続けていたのです。この作品が、好きなのです。
今回の映画で再会出来たこと、また改めて作品と向き直る機会を下さったことに深く感謝しております。