「プリズン・サークル」二回目の感想

地元での上映会があると前日に知り、慌てて前売りを購入して鑑賞してきました。

一度見たことがあって、そのときとはまるで違う感想を持ったのでメモ。

一度目は、犯罪者の更生のためのTC(セラピューティック・コミュニティ/回復共同体)というプログラムは、その目指すところや手法など、教育現場でも取り入れることができるのでは、という学びとしての点と、そしてTCに参加している若者たちが、ここまで傷つけられ無視されてしまっていた事実を見てこなかった社会や学校現場の問題点などに気が行っていた。彼らが専門的な用語を活用してかなり高度な議論を繰り広げていることも(けして教育環境に恵まれてきた人ばかりではないだろうに)衝撃で、彼らが語る/聞くための語彙を習得し自在に活用して深めていることも、教育に関わるものとしてこれまでの生徒理解/指導の姿勢について大きく反省した。

しかし、今日見たときにはもうそれどころではなくて。

まず、一番は「自らを語る」、そのこと自体に彼らがとてつもない苦しみを抱えて、かなりの時間をかけてそれを成し遂げているということ。自らの過去を思い出せないのは忘れないと生きていけなかったからという側面もあって、それは圧倒的に虐待が原因であることが多く、実際彼らもそういう過去を持っていて。だからなかなか語りきれないんだけど、でも、うわべだけの語りや傾聴ではお互いに許さないという場に居続ける。これ、実は刑罰よりも何よりも一番きついことなのではないかなと思った。

でも、そのきついことをやり通した先に、フタをしていた記憶が言語を伴ってよみがえったり、自らの傷つきや恐怖や恥ずかしさなどの負の感情を認めることで被害者や周りの人への思いが実感を伴って生まれたり。

むしろ、このプロセスなくして何をもって更正と為すのか。

そしてもう一点は、この生きていく上で必要不可欠なプロセスを経ないで、社会の中で普通に生活している多くの人が、実はあちこちで大きな問題を生じさせているのではないかということ。

自らの傷つきや恐怖や恥などの感情を認め、それを言語化し受容していくことをしないまま他者と接しようとするとき、多くは暴力(身体・言葉・態度・無関心など広い意味での)・権力(高等教育も含む)・お金など、別のものを使って目を逸らそうとしてしまっているのではないか。それにより他者との間に強い支配関係が生じ、加害と被害の関係が生まれてしまっているのではないか。

「自分はモテないのは女が悪い」と一方的に恨みを募らせ女性を攻撃する事件は、まさにこの自分からの逃避が生みだしてしまっているのではないか。

でも、犯罪として表に出ないまでも、政治や社会や家庭の中にはこの逃避が原因の人間関係の問題は五万とあって、私たちは大きくも小さくも、この加害の中の被害者として傷つけられているし、同時に誰かにとっての加害者としても存在している。一番直視したくないことこそ、自分が一番見なければ、そして解きほぐしていかなければならないことで、それをすることで自分も周りの人も幸せにすることができるようになるのに、でも、それこそが一番恐ろしくつらく苦しいことなのだと、映画の中の彼らを見ていると改めて思わされた。

思考するための言語や手法、そしてそれを出す場を持たないままで生きていると、自分が今地獄にいることすらわからないのに。

彼らはTCというサンクチュアリの中で関係性を作り対話を重ねて自らと向き合うことで、安心して語り合いをしていくのだが、その場って、刑務所という、究極の場でしか作れないものなのか?いやそんなことないはず!と思ってみたり。

日常の場で使える手法に落とし込んだものがほしいけど、あるのかな?

私のことでいうと、「生徒が安心して話をできるように、否定してはいけない」っていうのが、一番難しくて苦手なことだったんだけど、さすがに長年教員やっていろんなことを経験してくると、否定にはなんの効果もないな、ってこともわかってきて。そんなタイミングだからこそ、この「プリズン・サークル」がすっと心に入ってきたし、どんどん目がひらいていくような体験ができているんだろう。まさに啐啄同時、ですな。

みればみるほど考えさせられる映画です。不思議と明るさがあるので、おそれないで全ての人にみてほしい。

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