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22歳の終わりに

何か書こうと思ったんだけど・・・。
あっ、ちなみにこれ 書いているのは
2019年 10月14日の昼下がりです。

毎年思うんですよ、確実に1年1年生きてるのに
なにをしたか?と問われると、言えないなあと

なにもしていないわけでは勿論ないし
それなりに頑張ったことだってあるけれど
「この1年間、頑張り続けた事」って
ないなあ。と 誕生日と、年末に必ず思う

こういうところに、ただの一般人の私がさ
こういうことを書いていると 一定数の人間は
「何気取り?」とか「痛い」とか
「何か勘違いしてる」とか、そういう
心無い言葉を抱えると思うんですけど

別に何も勘違いはしていないし
そう見えるのかもしれないけど
何気取りでもなんでもなくて

私の気持ちをアウトプットできる方法が
こういう方法だというそれだけのことで

これを見てくれている人は
かなりのマゾヒストやバカではない限り
私をいつも励ましてくれたり
温かい言葉をくれる 温かい人たちだと
受け止めてくれる人たちだと
勝手に思っているので、こうして書いてます

私はね、感受性が豊かすぎることが
実は最近まですごく嫌でした

悪い事ではないんだけど、しんどかった
冷たい言い方をすると 自分が当事者ではない
人の悩みを過度に受け止めたり 傷付いたり
泣いたり 怒ったり それがかなり激しくて

余裕がないときは、本当にしんどかったのね

本当に、15秒程度のCMで泣いてしまったり
見ず知らずの人が撮った写真で涙が出たり
そういう私を見た時、だいたい周りは
「え?」って 笑ってくるんだけど
(勿論悪気はないってわかってるよ)

今はそういう自分が好きだと思える様になった
酔っているとか、そういう意味ではなくて
いいんじゃん?って
だってもう、もう上手く付き合うしかないし

人の痛みをわかること、一緒に共感できること
自分の立場に置き換えてリアルに考えられる事
だから寄り添える事もたくさんあったなあと
だから私は絶対に嘘を言わずに向き合ってる
相談をされることが本当に嬉しいし
私と同じような悩みを抱えている人の
相談に乗ることで、自分も救われていたりする
あの時自分が欲しかった言葉を
自分が人へ差し伸べる事で
こうしてアウトプットする事で
自分自身が、救われていたりする
でもこれはただの、私のエゴで...。
決してそんなつもりはないの、ないんだけど
人に寄り添う事で、いつの間にか
過去の自分に、救われなかった自分にも
寄り添えていたりするんだなあと思ったの

私の写真(特に高校サッカー)を見て
「心が震えました」「うるっときました」
とか 、それがお世辞だとしても
そのお世辞を思いつくレベルの
写真ではあるのかな、と解釈していて
それは確実に、私の気持ちが届いてくれて
いるんだなあと思えるようになった

今でさえただ、多分人間の限界値では?
というくらい感受性は豊かなのだけど

23歳は、なんならもっと
感受性が豊かになればいいなあなんて思ったり
でもこれ以上果たして感受性を豊かにする事が
可能なのか?とも思ったり

大切な人を大切にするっていう当たり前の事を
当たり前じゃない様な、でも当たり前の様に
心の底からもっと大切にしたいなぁって

自分に関わってくれている人の大切さに
年々気が付いていくんですよ
勿論大切なのは変わりない、ないんだけど
しみじみ思うというか、本当に感慨深いの
有難う、を伝えても絶対足りないし
皆が思っているよりずっと、感謝していて...

う〜ん、23歳になったからと言って
語彙力は上がんないんだな〜、、、、
難しいけれど、本当に

23歳になっても、宜しくお願いします。




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