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私であること

生後100日が経った。

生後100日の前日、ちょうど育児の限界が来て寝かしつけの後1時間ほど泣いた。

ぶっ通しで寝られない夜に、行きたい店や街に行けないもどかしさに、自由に服を着られない身体に、仕事のできない社会の制度に、思考が出来ない自分の脳みそに、苛立っていた。それなのに、全くの知らない赤の他人からなぜ「こどもが可哀想」などと言われなければならないのか。

これまで生きてきて自分の人生の主役は自分で、それが当たり前だった。出産でその当たり前が当たり前じゃなくなった。それだけで人はここまでしんどくなるものなのだと思った。好きで妊娠して産んだといえば他人にはそう映るかもしれない。けれどその前後の文脈は人それぞれなのだ。他人が人の子をどうこう言う権利などどこにもない。自分もこれまで誰かにそんなことを言っていて人を傷つけていたのかもしれない。いつだって反面教師だ。

妊娠中から妊娠しているひとが纏う生暖かい柔らかなパステルカラーのベールが苦手だった。その人たちと一括りにされることも死ぬほど嫌だった。社会から自分にパステルカラーを上塗りされそうで、吐き気がした。前のノートにも書いたように、私のマタニティの色は戦闘的な色でもっと強い色だったし今でもそう思う。

そんな風に考えているから「ママらしくなったね」「ママの顔になったね」というのは私にとっては全く嬉しい言葉に受け取れなく、子に対するママである前に私は私であるのだった。けれど、私も無意識的に他人に言っていた言葉でもある。この言葉で傷ついていた人もいるんだなと気付かされた。何事も自分ごとにならないと気づけない愚かさ。経験は人を豊かにするという言葉は、育児をしていると嫌というほど思い知る。

私は子どもといる時間が長ければ長いほどいいとは思わない。今だってシッターさんに見てもらいカフェでひとりこのノートを書いている。子と離れて初めて、子の存在の尊さと有難さを認識することができる。日常的に自分と子の境界がない世界に身を置くことは自分には困難。向いてる人と向かない人がいる。

それとも、子どもが欲しかった2018年みたいな時期に産んでいたらまた違う感情が生まれたのだろうか。そんなことは知る由もない。きっと欲しい時には来ないように出来ているのだ。

偶然にも3年前の流産したおこめちゃんの出産予定日と、育ち盛りのへちまちゃんの生後100日が同じ日だった。どちらの命も尊いと感じられるのは自分の心に余裕があってこそだった。心に余裕がないとそんな大切なことさえ忘れて過ぎ去ってしまう。自分という存在がいつだって不安定になるのが産後だ。そしてそれはきっとこのさき安定するかは分からない。安定せずに、安定したフリして徐々に穏やかな波となるのかもしれない。

自分が自分でいられることが1番のしあわせで、それは子に影響する。だから自分らしく居られるだけの努力はこれからもするし、無理で苦手なことは外に頼る。子が可哀想かどうかは今すぐに出るものではない。10年20年30年と長い年月をかけて創造される人生最大のクリエイティブなのだ。自分の産物(ものではないけど適切な言葉が見当たらないので)を馬鹿にされたくはないのでそれ相応の努力はする、絶対に自分の子の人生を退屈で可哀想なんかにさせない。短期間のスパンでみると可哀想に映るかもしれないけれど、大きくなった時の糧になるような人生をつくりあげてやる。

出産してからは言葉の忘却がひどく言語化が全く出来なかったけれどようやく少しずつ、自分を取り戻し始めている気がする。