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トルストイの日露戦争論/釈宗演「戦争を何とか観る」

トルストイが日露戦争論(「悔改めよ」)の中で批判している釈宗演の論文「戦争を何とか観る」については、先に下の記事で触れました。

さて、『太陽』に掲載の、元の論文が手に入りましたので(博文館,1904年,第10巻第1号,48–53頁)、例によって以下に文字起こしします。

この論文の基本的な紹介は、上の記事に書きましたので「承前」というような感じでお願いします。

トルストイが実際に読んだのは、"The Open Court" 誌に掲載された鈴木大拙(貞太郎)による英語抄訳 "Buddhist View of War." であることや、その記事が無料でダウンロード可能であることなども、上の記事でご紹介したところです。

タイトルの「戦争を何とか観る」は、現代語の感覚からすると、少し奇異にも感じられますが。今日的な言い回しに変えるなら「戦争をどのように見るか」ぐらいの感じでしょうか。

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凡例的な話も、要は「いつも通り」ですが、少しだけ書くなら

・元記事には文字への傍点などの修飾がたくさん入っていますが、この文字起こしでは基本的にそれらは反映していません(無視しています)。

・元記事にはフリガナが一切ついていません。晦渋な文章なので、当方で思案してつけるというようなこともきっぱり諦めました(苦笑)。

・文中で「降魔表」というものが引用されます。そのテキストはネット上の仏典籍資料をほぼそのまま流用しました(ただし、『太陽』の記事の表記に合わせるよう、若干の手は入れています)。なので、他の箇所での文字起こしの方針とは異なる点があります。
『太陽』の記事中では、ここは「フォントサイズが小さくなる」だけですが、本稿では「引用のワク」の中に入れて表示することにしました。
「降魔表」関連については、後のほうに註釈などもつけています。

・註釈はそれ以外の話題についても行っていますので、あわせてご確認ください。

・なお、一言。『太陽』の当該記事は、図書館などでデジタルデータ(スキャン画像)での閲覧が可能です。が、論文のタイトルが「戦争何とか観る」と誤って入力されていました。もしご自分でも元記事に当たってみたいと思われた方は、検索の際、その点にご注意ください。


戦争を何とか観る

釈宗演


 三界吾が有、其中衆生、悉く吾が子なり。一切の有情非情を通じ、天地万物、皆是れ吾が赤子ならざるなし。蠢々として動くもの、茫々として生ずる者、宇宙一切の有る所、悉く吾が分身化身に外ならず。故に苟くも一物の其所を得ざる、己れ溝壑に転ぜらるるが如し。他の病苦を視ること、自己の病苦を患うるに異ならず。他の煩悶を視ること、又自己の煩悶を患うるに異ならず。衆生万物、皆吾が子なり。吾れと同根にして、又吾れと与に一体たり。同根の身を以て、一体の心を推すに、他の苦痛は、即ち是れ吾れの苦痛にして、他の幸福は、即ち是れ吾れの幸福なり。衆生万物と苦痛を同うし、又幸福を俱にす。斧斤一枝を𠠇る、直に是れ自己一指を斫らるるとなし、饑餓一禽を悩ます、直に是れ自己一身の餒ゆるとなす。一毛一髪の微と雖ども、苟くも其所を得ざる、則ち仏陀の志願、未だ達し得ざる所あり、仏陀の慈悲、未だ之を救い得ざる所あり。未だ達し得ざる者あり、故に汲々として呵護の及ばざらんことを恐る。未だ之を救い得ざる所あり、故に孜々として済度の遍からざるをこれ慮る。志願寔に無量無辺にして、慈悲洵に至大至深なり。衆生万物の一として其所を得ざるなきに至らずんば、志願决して成ざるを得ず、慈悲决して全きを得ず。期する所は、千年万年に在らず、無窮に亘り、無限に及びて、其遠きを厭わず。其久しきを憂えず。其衆生万物と同根の身を以て、其衆生万物と一体の心を推すを見るに、其衆生万物に於けるや、恰かも慈母の赤子に於けるが如し。其深切懇到、誠に及ばざる所なし。是を以て其衆生万物を慈愛すること、偏なく陂なく、凡べて一体の心を推ささるなし。衆生万物をして、悉く其所を得せしめずんば、仏陀は寸時も其安きを得ず。
 是の故に、仏陀の眼中、一の憎悪すべき物なく、一切を慈愛して及ばざる所なし。盗賊兇暴、毒蛇悪虫の類と雖ども、一として其慈愛に泄るるはあらず。一切を慈愛すること、其赤子を観るが如く、赤子の愛、到らざるなく及ばざるなし。譬えば日光の普照するが如く、雨露の均霑するに似たり。姸媸を問わず、薫蕕を論ぜず、大小巨細、高低浅深の別なく、曲直方円、動静黒白の差なく、遍ねく一切に亘りて、格らざるなく洽からざるなし。是の故に天魔外道、波旬阿修羅の族に至るまで、之を視ること恰かも其赤子に於けるが如く、决して之に対して憎悪する所あらず。况んや視て以て讐敵となす如き、断じて之れある可らず。誰れか世に仏陀の敵ありというや。敵も亦吾が子なり、秋毫も憎悪すべきなし。慈母の其子を慈愛する、子若し不肖ならば、愛益す加わり、庇護誘導の労を厭わざること、却て更に甚しき者あり。他視て以て仏陀の敵となすも、仏陀は之を慈愛すること、却て慈母が其不肖の子を愛憐するに異ならず。唯愛憐すべきを視て、其敵とすべきを見ず。仏陀の眼中、凡そ宇宙に一の敵とすべき者あることなし。何が故に、宇宙有る所、一切の衆生、一切の万物、総べて是れ吾が赤子なるが故に。是の故に其吾れに敵すると否とを問わず、吾れ常に一切の衆生、一切の万物、挙げて皆其所を得んことを希う。近世の所謂人道、亦実に此大慈大悲心の一端を捕促し得たる者に外ならず。世界の平和といい、人類の安寧というも、亦皆仏陀が起誓せる、無量無辺の大志願に於て、僅かに其一二を闡明にし得たるに止まる。
 然り、世界の平和、人類の安寧は、寔に無量無辺なる仏願の一に数う可し。一切の衆生、一切の万物をして、悉く其所を得せしめんこと、是れ仏願の全体なり。世界の平和といい、人類の安寧という。亦此仏願の一に外ならず。遍ねく一切の邦国、一切の人類をして、偕に平和に相息い、同じく安寧に相楽ましめんこと、是れ独り仏者の願のみならず、孔子、耶蘇の教と雖ども、亦同じく此の最終の目的に一致せざるなし。世を挙げて平和と安寧とに相息わしめ、共に其武装を解き、其武器を銷し、盗賊なく兵寇なく、殺戮惨虐、詐謀陷擠、悉く其跡を絶ち、国際に折衝なくして、ただ礼譲あり、民相争わずして相楽み、刑措いて用いず、法束ねて高閣に在り。政行われ俗和ぎ、家々給して人々足り、途落ちたるを拾わず、戸鑰を鎻さず、国君上に垂拱して施す所なく、庶民下に謳歌して其業に励み、輯穆敦厚、翕然として化に嚮い、雍熈淳茂、靡然として治に進み、風條を鳴らさず、海波を揚げず、梯航八垓に通じて、方物相易え、舟車百貨を齎らして、殷阜具󠄁さに到り、耳に怨嗟の声を聞かず、目に不祥の物を見ず、蕩々として全世界の至治を見る。儻しよく此の如きを得ば、独り仏者が其志願の一を達し得たるのみならず、又実に他の孔子耶蘇の教と共に、其所期の目的を達し得たりと謂う可し。而して又更に彼の政治学者、及倫理学者の期する所も、是に至て能事畢れりと謂わざる可らず。
 然れども世界の平和と、人類の安寧との、かかる進域に到達せんことは、固より直に之を現実の世界に望む可らず。唯夫れ理想とする所、此に在り。世界と人類とをして、必らず一たび此至治に嚮わしめんことを要す。此目的や、方今に於ては一の理想たるに止まる。是れ永遠に亘り、無窮に及んで、必ず到達すべき、一の理想なり。人生蜉蝣の状態、世に百年の寿を保つすら、極めて罕れなり。况んや千年万年をや。然り而して之を無窮の永遠に較ぶるに、千年万年も亦ただ、纔かに短日月たるに過ぎず。かかる短日月を以てして、箇の目的を達せんとするは、盖し蠡を以て海を測り、石を運んで蒼溟を塡んとするの類なり。平和の至治を観んは、それ人類が更に幾千万たびの生々死々を閲みしたる後に在らん。然りと雖ども此目的や、未来永刧、必らず到達し得べき所にして、現世の人類は、日々矻々として相勉め、常に此冥運の黙移に促されつつあり。日々に努力して懈らず、懈怠せば、則ち喪身失命す。是れ人類が相率いて、日々刻々に努力し、以て永遠の彼岸に到着せんとする、方今の現状なり。人類相率いて、日々戦闘の線上に立ち、相促がして永遠平和の彼岸に向って進む。箇の大目的を達せんが為めには、人類の全体は、必らず大小幾多の戦争を経るの覚悟なかる可らず。群を成し国を成し、各自箇の大目的を達せんが為めに、戦闘姑くも已まず。進まずんば達せず、進めば則ち戦争あり。便ち知る平和の至治に達せんには、必らず先ず大小幾多の戦争を経ざる可からざることを、茲に之を戦争という。是れ独り国と国とが、互いに干戈を取って相撃つの謂のみにあらず、凡べて障礙を排して前進し、相互に衝撃するの状を謂うなり。誰れか戦争を凶事となし、之を目して不仁の事となすや。人類相率いて彼岸に向って進む。幾多の障礙は、必らず其前程に横らん。之を排して之を撃つ。戦争はもと当然の事なり。干戈相撃つ国際の戦争も、亦実に其前路の障礙を排し、進んで平和の至治に到達せんとする、一段階に外ならず。両々互いに此目的に向って進まんとし、路を争うて衝突し、戦争乃ち起る。戦争は直に是れ彼岸に到達するの一途程なり。既に人類相率いて、群を成し国を成し、同じく此目的に向って進まんとする以上は、其群を異にし、其国を異にし、随って其手段を異にするが為めに、時に衝突して互いに障礙を排せんとし、戦争を以て、其前路を開くの已むなきを見る。故に曰う、箇の大目的を達せんには、必らず先ず大小幾多の戦争を経ざる可からずと。戦争を辞せざる所以は、即ち箇の大目的に向って前進する所以なり。彼岸に到達するの日は、殆んど無窮の永遠に在り。悠久の長年月、進前の長路程、時に障礙の横わるに逢い、為めに幾多大小の戦争を敢てする如き、决して怪むに足らず。誰れか戦争を以て、不仁の事となすや。
 夫れ旌旗天を蔽い、鋒戟林を成し、砲火相搏ち、雷震霆撃して、血杵を漂わし、万骨野に横わり、伏屍碧燐を吐き、鬼哭夜啾々たる者、寔に人生の惨事に非ざるなし。吾が最愛の赤子をして、或は空しく鋒鎬に膏らしめ、或は長く創痍に悩ましめ、或は織耕して疾苦に泣かしめ、或は漕運して労役に斃れしむ。寔に痛悼哀惋の極なり。常情より推して之れを言わば、世これより不仁の甚しき者はあらじ。然れども人類はもと、箇の大目的を達せんが為めに、相率いて生々死々する者なるが故に、戦うて死し、戦うて傷き、為めに困憊し、為めに疲病する、皆箇の大目的に功ある者たらずんば非ず。太古より以て今日に及び、幾千万億人の戦血、淋漓として凝って無垢の大地を汚がせり。殺生は仏陀の禁ずる所にして、同類相戕うは、不仁の大なる者なりと雖とも、之を人類の大目的よりして見るときは、一切衆生を愛愍するが為めに、涙を揮って幾千の生霊を犠牲に供せざるを得ず。一戦争の死者、輓近に及んでは、多きも幾千を出でず。之を古え一戦争死者数万を数えしに較べば、聊か以て人類殺伐の遺風が漸く减少したるを見るに足る。数千の死者を殺して、一切衆生を彼岸に促進せしむるに功あらば、戦争固より避くべきに非らず。而して死者亦、一切衆生の為めに功あらば、死して其所を得たりと謂わざる可らず。三千年来、幾多戦死者の生霊、悉く以て瞑す可きなり。然らば則ち、戦争は必しも不仁の事に非らずして、死者の人類に於ける、寧しろ其靖献の功、極めて大なるを認む可し。然れども此れは是れ、衆生人類の戦争にして、知らず知らず彼岸に向って進前するの一途程たるに過ぎず。仏陀の戦争は、之に異なれり。
 仏陀は、其赤子たる一切の衆生が、生々死々、常に間断なく戦争を継続して止まざるを憐み、一切衆生の苦患を挙げ、悉く之を其一身に甘受し、自ら一切苦患の中に投じて、一々親しく其実地を履めり。仏陀正覚を取るの前、勇猛精進、以て内外順逆の魔軍と戦いしは、事、八相成覚の一に居り、凡智の窺うを得ず、凡勇の企て及ばざる所に属す。誓願既に無量無辺にして、慈悲又至大至深なり。故に其正覚を成するに先だち、無量一切の魔軍と戦い、然る後一切衆生の為めに、箇の大法門を開き、箇の大法輪を転ぜり。正覚の成就に先っては、必らず魔軍の戦争を経ざる可らず。仏陀実に親しく箇の妙機を開示せり。仏陀夙に箇の妙機を知る。故に其出世四十九年間、折伏、接受の二方便を用い、大に天魔、外道、波旬阿修羅等一切の魔軍と力戦奮闘したり。然れども仏陀の彼等と戦うや、决して之を目するに讐敵を以てせず。之を視ること居然として赤子を視るに異ならず。是れ其天魔、外道、波旬阿修羅等、一切の魔軍、亦皆吾れと同根にして、又吾れと一体なれば也。煩悩即菩提、一あって二あることなし。是の故に菩提の為めには、决して煩悩を捨てず、衆生済度の為めには、亦决して魔軍の戦を辞せず。是れ尋常の戦争に非らず。一切を憐愍して、遍ねく之を済度せんが為めに戦えり。是の故に仏陀の戦争には、唯涙あって血あることなし。殺戮、迫害等、一切の惨血を見ず、但だ慈悲慈愛の熱涙を見るのみ。仏陀の歴史は、大小幾多の魔軍と戦える連続なり。されど是れ涙の戦にして、血の戦に非らず。故に仏陀の歴史には、一も血腥き痕跡を留めず、斑々たる者は、総べて涙痕のみ。泰西の学者、輓近に及んで、心を仏教に潜むるの益す盛となりしは、全く之が為めなり。彼等が仏耶二教の歴史を比較して、最も同情を仏教に寄する者は、寔に吾が仏陀の歴史に、一も血痕なくして、ただ涙痕あるを見たるに依れり。仏陀の戦争や、此の如し。夾山無碍圜悟禅師降魔表あり曰く

『臣聞三乘路廣。法界無涯。智海晏清。十方安泰。時有魔軍。兢起侵撓心田。六賊既強。心王驚動。朝生百恠暮起千邪。撼惑眞如。困勞法體。菩提道路。隔絶不通。破壞涅槃。傷殘三寶。無爲珠玉。悉被偸將。大藏法財。皆遭刧奪。塵勞翳日。欲火亘天。飄蕩法城。焚燒聖境。臣乃見如斯暴亂。恐佛此以難存。遂與六波羅蜜。商量同爲剪滅。遣性空爲密使。聽探魔軍。見今屯在五蘊山中。有八萬四千餘衆。既知體勢。計在刹那。遂點十八界雄兵。並立體空爲號。人々有無碍之力。箇々懷勇健之能。直心爲見性之功。一正去百邪之亂。擐堅固甲執三昧鏘。智箭禪弓。光明慧劔。向大乘門中訓練。寂滅山内安營。三明嶺上開旗。八正路邊排布。遣大覺性。爲捉生之將。遊歴四方。搜求妄想之踪。抄截無明之蹟。復使慈悲王。破三毒之寨。忍辱之帥。伐嗔怒之城。精進軍。除傲慢之妖。喜捨士。捉貪慳之賊。逡巡魔軍大起。殺氣衝天。臣乃部領魔訶。一時齊入當爾時。眼不觀色。耳不聽聲。鼻不嗅香。舌不了味。身不受觸。意不攀縁。一志向前。念々不退。倐忽而魔軍大敗。六賊全輸。殺戮無邊。掃除蕩盡。生擒妄想。活捉無明。領向涅槃城中。以慧劔斬爲三段。煩惱林。當時摧折。人我山化作微塵。痴愛網。遭智火焚燒。邪見林。被慧風吹竭。因茲三明再朗。四智重圓。内外無瑕。廓然清淨。心王坐懽喜之殿。眞如登解脱之樓。自性遊無碍之堂。三身踞法空之座。從茲法界寧靜。永絶囂塵。共渡生死之河。齊到菩提之岸。魔軍既退。合具󠄁奏聞。』

と。堂々の陣、正々の軍、宇宙乾坤、天上天下、何物か焉に加う可きぞ。
 盖し虐殺、陷擠、嗔恚、貪戻等は、一切衆生、一切具󠄁生の大敵にして、天魔、外道、波旬、阿修羅の輩は、是を持して来って、一切の衆生を迫害せんとする者なり。仏陀先ず親しく之と戦えり。乃ち之を一切の衆生に教え、之をして遍ねく其苦患を免れしめんと誓えり。彼れ来るや、虐殺、陷擠、嗔恚、貪戻等の武器を以てす。吾れ之に当るに無我、大我の砲門を以てす。寧しろ一大利器に非ずや。一切を憐愍するが故に、一切の大敵たるべき者と戦い、又一切に教ゆるに、無我の一大利器を以てす。恰かも慈母の手の一切の痒きに及び、一切の痛きに届かざるなきが如く、老婆心切と謂う可し。彼れ一切の魔軍も、亦之れ衆生なり、吾が赤子なり。之が迫害を受くる一切、亦同じく是れ吾が赤子なり。魔軍决して吾れの大敵に非ず、又一切衆生の大敵に非ず。其持して来る所の者、実に大敵とすべきのみ。持して来る所、一切衆生の大敵にして、之を持する者、亦ただ一切衆生と一体たり。凶器を持するの罪にして、持する者の罪に非らず。彼れ之を持して来る。吾れ之れをして其持する所を放擲せしめんことを要す。故に身に寸鉄を帯びず、一切の凶器を放擲して、赤裸々の空手、出でて其来るを迎う。之を邀うて開くに無我の全身を以てす。彼れ其持する所を放擲せずんばあらず。苟くも其持する所を放擲す。魔是れ魔にあらず、直に是れ仏陀と一体の衆生なり。無我の法門は、広大無辺なり。一切を放擲せしめずんばあらず。一切を放擲せしむ。故に克く敵する者なし。仏陀一切を憐愍して、一切の迫害を除かんとするが故に、此広大無辺の法門を開けり。魔の眷族に当るも、唯此無我の利器を以てし、仏の眷族に対するも、亦唯此無我を以てす。是を以て一切衆生に臨むに、一切の障礙を見ず。乃わち之を一切衆生に教え、之をして遍ねく一切の迫害を免れしむ。魔なく仏なく、一切の衆生、悉く吾が子なり。之を憐愍するの深かき、則わち持して来る者は、凡て迎えて之と戦い、無我の法門を開いて、之をして其持する所を放擲せしむ。帰依し来る者も之を迎え、抗敵し来る者も之を拒まず。一は之を導き、他は之と戦う。而かも其之に臨むや、斉しく無我を以てして、一切を放擲せしめ、遍ねく一切をして、平等の等覚を成せしめ、迷を転じて悟となし、魔を転じて仏となし、悉く一体に吾が赤子の慈悲慈愛を受けしめずんば止まず。仏陀の戦争は斯の如く、仏陀の武器亦斯の如し。
 今夫れ之を現世に観るに、仏法王法一にして二に非らず。仏陀の戦争と、国際の戦争と、亦異にして而かも相同じ。苟くも国其武装を解き、其武器を捨て、無我にして他を迎うを得ば、天下嚮う所として敵ある可らず、如何なる戦争か勝たざらん、如何なる敵国か服せざらんや。然れども現世は、方さに彼岸に到達するの途上に在り。直に之に向って無我の戦争を望むは難し。仏陀正覚を成ずるの前、既に幾多大小の戦争を閲せり。世界方さに平和の至治に進むの途上に在り。国それ前路の障礙を排せざるを得ず。幾多大小の戦争、亦固より之を避く可らず。国に向って直ちに無我の戦を望むの難きは、それ猶お現世に向って、直ちに平和の至治を望むの難きが如きか。両々武器を提げて起つ。二者の武器相当れり。而かも其進んで戦塲に相逢う。若しよく無我を以て体となし、武器の相撃つ、苟くも此本体を以て現前せば、勝敗の機、未だ戦わずして既に决す。たとい無我の武器を以て進むを得ずとも、武器の相当れる、之を持する者、よく無我なるを得ば則ち勝つ。武器を取って起つは、国家の事なり。無我を以て事に従うは、人類の分なり。国家の事、人類の分、よく調和する者は勝つ 二者决して矛盾せず、又衝突せず。盖し仏教は常に両面の主義を相具󠄁う。世界平和の主義を容るると共に、又国家進取の主義を取ることを妨げず。何となれば、平等即差別、差別即平等は、仏陀大悟の原理なるが故なり。世界平和の主義は、仏教の本体にして、国家進取の主義は、箇の本体に到達する最大の方便に外ならず。箇の本体を以て、箇の方便を取る。何の不可か之れあらんや。或る種の論者、徒らに其本体のみを見て、其方便を顧みず、唯其一を知って其二を知らず、戦争を目して、直ちに人道を戕い、平和を危くする者となし、単調なる平和論を唱え、以て人類の理想を遂げ得べしと妄信す。仏教は决して此の如き単純の理論を許さず。事一々実地に在り。徒らに口舌の理を談ずるにあらず。着々実地に行うて、箇の大目的に向って進前す。之を国家に施して誤らず、之を人類に用いて悖らず。二者を調和して、俱に世界平和、人類安寧の至治に向前せしめずんば止まず。
 方今国家の問題として、日露の開戦は、方さに全国民の面前に挙せらる。政治上の議論は、既に尽きたり。主戦論一方に立ち、平和論亦其の一方に立つ。然れども宗教としては、未だ何人も其所見を開陳したるを見ず。若し強いて之を求めなば、人道を本とせる、彼の単調の平和論之れあるのみ。但予や、今日之を我が国の境遇に見、又之を仏教の主義に顧み、仏教者の一人として、断じて主戦に同意する者なり。然れども此主旨を実行するには、决して他の論者の如く、目前咄嗟の間に、此活劇を演ぜよというにはあらず。否、論者の言うが如き意味の戦争は、既に其時機を逸せり。露国の第二撤兵期も、第三撤兵期も、何の時に経過せしぞ。最も健忘性なる者に至っては、最早や其時の飛去りたるをも忘れ了らんとす。今に及んで徒らに、数字上の兵力優劣のみを説くことなかれ。国民の元気、頓に沮喪するなき以上は、春季北海解氷の時を期するも、亦晩しとせず。戦わんとならば、何の時か亦不可となさんや。国家の為め、人類の為め、将来世界の平和、人類の安寧に到達せんことを庶幾うが故に、苟くも戦争の避く可らずとならば、いかに人の視て以て兇事となし、殺生を犯かす所と雖ども、進むべきには、必らず断々乎として進み行かざるを得ず。一切衆生を燐愍するが故に、民の生命を惜しみ、為めに戦争を避けんというは、直ちに国家を無視したる者と謂う可し。人類を愛し、国家を愛し、二者相悖らずして、吾れ自ら吾が道を行かん。予が此稿あるは、决して此に依って吾れの意見を主張せんというにはあらず、たた或種の平和論者が、単調なる理論に基づき、時の如何を度外にし、又一に偏して一を軽ずるの甚しきを見、甚だ之を遺憾として、一言此に及びしのみ。必しも宗教家としての吾が意見を開陳したるにはあらず。吾れ豈に弁を好まんや。


※「降魔表」関連……

最初に書きましたように、この論文中には「降魔表」が全文引用されています。正確には、元の『太陽』において、この箇所は「返り点付きの漢文」として載っています。ただ、今回はネット上に見つけた漢文を流用させていただくに留め、返り点については無視することにしました。

「降魔表」の全文が容易に確認できる書籍としては、次のものなど。
(冒頭に漢文。解釈もその後のページに。どうやらこの本は、一種のラジオ講座のテキストのようで、解釈はおそらく出版当時の一般的なものなのではないかと。)

(加藤咄堂著:『降魔表講話』)

ところで、上に掲げた『降魔表講話』中の文章と、釈宗演の『太陽』の記事を比べると、実のところ、句読点や返り点の打ち方などがいろいろ異なっています(漢文ではありがちなことですね)。漢字が異なる部分もポツポツと。ただ、私にはその違いに、何か意味があるとか無いとか分かるだけの能力は全くありませんが(^_^;)。

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ところで、そもそも論として、この「降魔表」とはどういうものか、なのですが。
禅宗の名著として知られる「碧巌録」の第一巻巻末に、いわば「オマケ」のように付されている文章、ということのようです。
(これに関しては、あまり詳しい解説を見つけられませんでした。)

「碧巌録」を収めた次の書籍ですと、「国訳」パートの59ページから。元の漢文も「原文」パートの38ページに収録。「テキストの質」としては、こちらの方が良さそうです。

下は「碧巌録」についてのWikipedia の記事。

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話は変わりますが、古い岩波文庫の「碧巌録」の解説をたまたま見てみましたら、こんな記述がありました。

同書をまとめた圜悟禅師の法嗣のうち、大慧は、金の南下(当時は宋の時代)に際し、「張九成一派の強硬主戦論者を支持して痛論した為め、秦檜等の平和論者の忌諱に触れ、僧衣を剥奪されて衡陽十五年の謫居を余儀なくせしめられた」……云々。
ここに仏教的な主戦論の系譜というようなものもあるのかもしれません。

先に挙げた『降魔表講話』にも、「仏教は決して戦争を謳歌するものでないが又戦争を否認するものでもない。」という記述があります。(235ページ)

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トルストイが実際に読んだのは、"The Open Court" 誌に掲載された英語抄訳であることは、上にも書きましたが。

いざ「原文」を手に入れ、それと「抄訳」とを読み比べてみると、随分違いがあるように感じます。
それも「抄訳だから」とか、「仏教用語や仏教的発想に馴染みがない英語圏の読者を想定して、大胆な意訳を行ったのだろう」とか言うレベルをかなり超えていないだろうかと思えるほどに……。

確かにどちらも仏教の立場から主戦論を説いている文章である点は共通していますし、原文の議論がそのまま訳されていると思える部分もあるのですが。

それとも、私が仏教に詳しくないために、「きれいな訳」であるにも関わらず、それが掴めずにいるだけでしょうか??

端的に言って、例えば訳文中の
«The hand that is raised to strike and the eye that is fixed to take aim, do not belong to the individual, but are the instruments utilized by a principle higher than transient existence. »
というのは、一体原文ではどこに当たるのか、私には見当がつかないでいます。

(なお、上の文章はトルストイを大いに怒らせたようで、「悔改めよ」の原註にも批判的に引用されています。
加藤直士の「逆翻訳」では
『悪者を打たんとする両手、之を狙わんとする両眼、是れ決して一箇人間の所有にあらす、無常迅速の存在界以上なる高き実在界の大道によりて利用せらるる器具たるに過きさるなり』
……となっています。)

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ところで、この釈宗演の文章自体について、あれこれ書くことはさしあたり控えておこうかと思うのですが。
(わたし的には、やっぱりトルストイ論文のほうが圧倒的に「グッと来る」なぁ、とのみ。)

少しだけ書くなら。

以前、途中休憩回でご紹介した「丸善百年史」に、こんな文章が紹介されていました。
(筆者は内田魯庵であるらしいです。)

《忠孝説にすこしも嶄新警抜な議論がなく、いつでも陳套をきわめていると同様に、非戦争論にさらに珍しい理窟を発見することはできないのである。》

……まぁ、それはそうかもしれません。

ただ、それを言うなら「主戦論」についても同じことではないかと。

いろいろ読めば、主戦論も非戦論も同じような議論ばっかりで飽き飽きしてくるのは確かでしょうが。
それでもある程度は読んでおくことで「今度はどんな理窟で来るかな」というような心の準備(免疫)もできてくるでしょう。

そして。それでも、その免疫を突破してくるような素晴らしい考察に出会ったら。
それは大いに自分の指針とすれば良いのではないでしょうか。