怒りの感情について

あまり怒らない。

長女だからか、気質なのか、怒の感情が欠如しているのか、どうにも滅多なことでは腹を立てないほうだと思う。怒りは疲れるのである。疲れたくない。

昔は寧ろ怒りっぽかったと思う。テレビゲームを好み、思うように進まないだけで一々癇癪を起こしていた。箸がうまく使えないだけで怒ったり、パジャマのボタンの掛け違いで怒ったり、忘れ物をした自分に怒ったり、自信のあったテストの点が悪くて怒ったり。

そんな機会もなくなった今、怒りを誘引する素因が滅多に無くなった今、爆発的に怒りを生じたことがあった。

自分でも驚いた。漫画やアニメで見たような、絵に描いたような”キレる”を経験した。頭の中が弾けて白くなって、体温があがって、言葉がでなくなって、思考がフリーズを起こした。やっとこさ運び出された言葉は、すごく静かで低かった。ただ物凄い熱量を携えたそれは、矛先の相手に如何に大きな傷を負わせるかに焦点を当てられていた。今思えば自分の体験ではなかったのではないかと思うくらいには畏怖を抱く。

怒らない人をここまで怒らせたのは、他でもない”期待”と”裏切り”だ。両者の幅が広ければ広いほど効果的に怒りを誘引できるだろう。信じていた人が評価に反した価値の低い言葉を浴びせてきたのだ。それも私の持ち得るたった小指のツメ先ほどの小さな自尊心を、それ以上に粉々にするような、ピンポイントな侮辱だ。その侮辱は私だけでなく私の大切な人までも対象に含んだ。この点である。私が我を失うほどに怒ったのは。

最も悪なのは、その破壊行動について相手には一切の悪意が無い点である。挙句の果てには相手は謝罪行為としてそれを行った。甚だ嘆かわしいことだ。罪について謝意を述べたことがさらなる罪を生んだのだ。もう助かりようがない。

人間関係は個人の定規では測り得ない事象ばかりが生じる。すぐ怒る人、滅多に怒らない人、訳の分からないところで怒る人、そんな区分もすべては自分の定規に依るものである。すぐ怒る当人は滅多に怒らないつもりかもしれない。私もその可能性は大いに持ち得る。そんなことを念頭に過ごすだけで、幾分生きやすくなる。

自分はなぜ怒ったのか、消化不良な感覚を少し整理したかった。なんだかまた一層、怒らなくなってしまいそうだ。

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