依存するとかしないとか

久しぶりに更新してみたい。というのもここ最近はどっぷりと文字を書くよりも140字で小出しが好きだったのだが、特に強く思ったことなので書きたいだけ書いてみたくなった。

人に依存することはあまりない人生だった。それは勿論、最低限の学費だとか生活費だとかは親に甘えてきたものだったが、例えば塾を馬鹿にして自力で猛勉してみたり、極力お金の負担をかけたくなかったので私大をセンターで受けてみたり(普通試験料の半分以下)、入学後の教科書も自分で買ってみたり、友達がいようがいまいがやりたいと思ったことはやってみたり。(そこで利の一致する人間がいれば「よかったら一緒にどう?」、だけのスタンスである。)

他人の力ありきで自らの行動範囲を決めることがあまりなかった。それは歳の離れた弟がいたからか、両親の苦労を目の当たりにしてきたからか、礎は今となってはわからない。自分がしっかりしなくては、なんて気概もなかったが、今思えばもしかすると無自覚的にそうした強迫観念は存在したのかもしれない。

恋愛で苦労した点も大きく寄与しているかもしれない。好きで付き合った相手が大したことなかっただとか、好かれて付き合った相手がやっぱり尊敬できなかっただとか、こんなにも愛しているのにとんでもない理由を振りかざしてそれをはたき落とされたりだとか。そんな人生における点々たちが「人に期待なんかしていいことないぞ」をわたしに言って聞かせてきたのだろう。そうして人に依存しない一人間がここに出来上がったわけだ。

しかしなんてことだろうか、ここ最近わたしはそんな四半世紀で築き上げてきたスローガンを踏み破り、一人の人間に依存してきているのである。

この依存は一晩で仕上がったものではなくて、恐ろしいことに、わたしがここまで遠ざけてきた【期待】を溜め込み、ついには依存として成り上がってきた。

期待というのは、きっとこうしてくれるだとか、こうなるだろうと当てにすることによる、一種のワクワクだと思う。少なくともポジティブだ。対極は、不安、ではないだろうか。こうなったらやだな、こんなことになってしまうかもしれない、といった不確定要素からくるものだ。安心でないのだ。

そんな期待を持たせたのは紛れもない新たな恋愛であって、この人ならわたしの期待を叶えてくれるのではないか、だとか思うような相手である。それはこれまでに類を見ない居心地の良さであったり、醸される空気感であったり、発する言葉であったりに依るのだが、兎にも角にもその存在そのものがわたしの思い描く【期待】を具象化したような生き物なのである。

しかしながらそれも儚く叶わないのが現でもある。「思い通りに動かない君という物体を、」と最愛のバンドは唄うが、本当にその通りで、他人というものはこうも自分とは違う世界線の生き物なのかと思い知らされる。ただこの思い通りに動かない具合も絶妙なバランスで、100の期待が裏切られるわけではなく、35くらいは叶えられていく。そうするともう沼で、この期待が叶うときが麻薬であって、依存が生まれていく。この物体をどうにかしたい。どうにか思う通りに動かしたい、と欲がでてくる。

しかしながらこの欲は長持ちはしない。もとい、欲は無限であっても発生源が力尽きるのが先だろう。叶わない、の連続パンチで遅かれ早かれKOだ。元来人間というカテゴリには共通して所属しているだけで、別の生き物なのだ。同性であっても違う価値観や思考回路は、異性ともなればそれはもうエイリアンと言っても過言ではない。キリンジが過ぎっていく。

他人を変えようだなんて思考はただの傲慢で、自らの解釈を変えるほか付き合いに未来はない。血の繋がった家族であっても100%の感情は共有できないし、どこまでいっても人間は独りなのだ。ともすれば恋人なんてもっと遠い星の生き物であっても可笑しくない。そんな異星人と共に生きようものならば、期待なんてするだけ無駄なのである。思った挙動をしなくて当たり前、そんな前提を脳に叩き込んで接するしかないのだ。


と、ここまで依存に陥った自分を戒めるかのように期待や依存の悪性を講じたものの、ひとつ矛盾を最後に筆を置きたい。

依存は醜いものではないとも考えている。人間が孤独であることは数多の人間が発信してきたにもかかわらず、またもこうして自分と交えようと他人に踏み入れ、その期待を叶えようと依存していく様は、視点次第では無垢で幼くて高尚であるとも言えないだろうか。大人になって、他人に期待することを諦めた人間が、またこうして繰り返していくかつての愚行も、そうしてみればなんだか愛おしいものである。

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