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Purest Feeling: 1988

トレント・レズナーは1965年5月に米国ペンシルベニア州のマーサーで生まれた。両親はレズナーが幼い頃に両離し、母方の祖父母に引き取られた。レズナーが5歳になった時に祖母は彼にクラシック・ピアノのレッスンを受けさせた。それと併せてブラスバンドにも入り、サックスとトランペットも習った。特にクラシック・ピアノの上達は目覚ましく、音楽の教師にプロとしてやっていけると言われるほどだった。

別居した父親との関係は悪くなかった。父親に連れられてイーグルスのコンサートに行っているし、一時期は同居していたこともあった。12歳になった頃は父親から電子ピアノをプレンゼントされた。父親は小さな楽器店を営んでおり、その店にある部屋で友人たちと音を出して遊ぶことでクラシック以外の音楽にも触れることになった。

レズナーが生まれ育ったマーサーは小さな田舎町だった。およそ文化的なものは都心部で流行が終わってから入ってくるという町で、アンダーグラウンドなものは手に入らなかった。触れることのできる音楽はメイン・ストリームのものに限られ、イーグルスに加えてキッス、ピンク・フロイド、クィーンがお気に入りだった。後のナイン・インチ・ネイルズの音楽性と共通項が少ないように思われるアーティストが多いが、この原体験がナイン・チンチ・ネイルズの重要な要素となっていく。

大学生向けのカレッジ・ラジオもなかったし、気の利いたレコード屋もない。インディー系のものなんて皆無だし、MTVもない。本当に何もなかった。僕の世界はマンガと低俗なSF小説で成り立っててさ。後ホラー映画と。のめり込めるものなら何でもよかったんだ。そうこうしているうちに、ペンシルヴァニアからは絶対に抜け出さないとって思いが強まっていったんだよ

トレント・レズナー、"rockin'on" 1999年10月号

レズナーが10代になった頃、音楽はテクノロジーの発達を受けてその姿を大きく変えている時代だった。

すでに70年代からシンセサイザーの自動演奏を使ったエレクトロニク・ポップは一つの流れを形作り、西ドイツのクラフトワークや日本のYMO、イギリスのゲイリー・ニューマン、ウルトラヴォックス、オーケストラル・マヌーヴァーズ・イン・ザ・ダーク(OMD)、ヒューマン・リーグ、ヘヴン・セヴンティーン、ソフト・セル、ヤズーなどが人気を博していた。(略)そしてサンプリングという新技術やエンジニアの残響テクニックの発達がマシーンの演奏と生身の人間の演奏の隙間を埋め、レコードを聞く限りでは両者の区別がつきにくい時代が到来した。

高橋健太郎、"ミュージック・ガイドブック88", 1988年

ヒューマン・リーグの曲を聴いて『これには生ドラムなんて入っていない。頭から終わりまで機械でできてるんだ』と思うとドキドキしてさ。あれが天の啓示だった。

トレント・レズナー、"rockin'on" 1999年10月号

高校生になったレズナーは両親に格安のモーグ・シンセサイザーを買ってもらった。この時代にレズナーは3人編成のニュー・ウェイヴのバンド、オプション30(Option 30)に加入し、キーボードと歌を担当した。これがレズナーにとって最初のバンドとなった。オリジナル楽曲よりもカバー曲を中心に演奏するバンドで、1984年まではこのバンドで活動していた。オリジナル曲のレコーディングはしていたが、レズナーは曲作りには関与していない。

高校を卒業した後は大学に進学をしてコンピューター工学を選考することを決めており、将来はシンセサイザーのデザインを仕事にしようかと考えていた。

そんな将来像を描き、ペンシルベニア州のミードビルにあるアレゲニー大学に入学したレズナーであったが、保守的な地域性もあり、大学の生徒とは馴染めなかった。そのため他の大学の生徒とつるむようになり、その時に出会ったテスト・デパートメントのような「インダストリアル・ミュージック」がレズナーの音楽の指針となった。

大学を一年で中退した後は父親の住居で居候をし、カバー・バンドを掛け持ちしてバーで演奏をしていた。キーボードと歌がレズナーの担当で週に300ドル程度になった。しかし若く野心に満ちあふれ、刺激を欲していたレズナーはペンシルベニアの田舎町で暮らすことに辟易としていた。もっと活気のある場所に行って、ガソリンスタンドで働いてでもそこで暮らしていこうと決心をしたのもこの頃だ。

手伝っていたバンドはオハイオ州のクリーブランドを拠点にしているバンドが多かったので、クリーブランドに引っ越しをした。バンドの手伝いをしながらシンセサイザーやシーケンサーを取り扱う店に通い詰めていた。そうしているうちにその店で働くようになった。そしてこの時期に高校時代にすでに顔見知りであったクリス・ヴェレナ(Chris Vrenna)と再会、意気投合した二人は共同生活を始めた。

働いていた店の店員にオリジナルの楽曲を演奏するシンセ・ポップ・バンドのエキゾチック・バーズ(Exotic Birds)のメンバーがおり、レズナーは誘われる形でバンドに加入した。レズナーが加入した時点でバンドは数枚のシングルと一枚のミニ・アルバムをリリースしていた。バンドの二枚目のミニ・アルバム「L'oiseau」にレズナーはキーボードと歌で参加した。

レズナーがバンドに加入してからほどなくしてドラマーが脱退する。レズナーはヴェレナを誘い、同じバンドで活動することになった。ただし「L'oiseau」を完成させてからレズナーはバンドを脱退する。

エキゾチック・バーズを脱退し、1986年にレズナーはSlam Bambooに加入した。クリーブランドのローカルテレビに出演する程度には名前が売れていたバンドだったが、半年から一年程度の在籍で脱退している。

Slam Bambooを脱退した後は70年代の後半から活動をしていたLucky Pierreに加入した。このバンドからリリースされたEP「Communiqué」でキーボードとバック・ボーカルを担当している。また同EPに収録された「I Need To Get To Know」ではサックスも担当している。

このバンドも短期間で脱退することになる。しかしボーカリストのKevin McMahonとは良好な関係が続き、1994年にMcMahonが結成するPrickのデビュー・アルバムはレズナーが1992年に立ち上げた「nothing records」からリリースされた。更に1995年にはナイン・インチ・ネイルズとデヴィッド・ボウイの「Dissonance Tour」のオープニング・アクトにPrickを起用している。


エキゾチック・バーズを脱退した後、レズナーはクリーブランドにある「Right Track Studio」でエンジニアのアシスタント、トイレ掃除をはじめとした雑用、その他のスタジオ管理業務を夜勤でこなしながら、上記のようにバンドを転々としていた。古いアパートでヴェレナと共同生活を送っていたが、ガスの請求書が来るたびに一週間は憂うつな気持ちになってしまうほどに生活は苦しかった。お金がなかったのでレコードやTVゲームのカートリッジ、羽振りのいい時にはドラッグを使って物々交換をし、主にカップラーメンとピーナツバター・サンドイッチを食べて暮らしていた。そんな冴えない生活を続けていくうちに、焦りに近い気持ちが23歳になったレズナーに芽生え始めていた。

このままじゃ一番恐れてた状態に成り下がってしまう。それで実験してみることにしたんだ。自分の持っている力すべてを何か一つのことに集中させたらどうなるだろう?

トレント・レズナー、"rockin'on" 1999年10月号

レズナーはこれまで一度もオリジナル曲を書いたことはなかった。自分に音楽の才能がないかもしれないと言う自信のなさがレズナーを作曲に向かわせなかった。しかしもう自分に対して「やらないための言い訳」はやめなくてはならなかった。作曲を始め、まずは「Down In It」を書き上げた。勤務していたスタジオの空き時間を使わせてもらってレコーディングを始めた。キーボード、ドラム・マシン、ギターとサンプラーのほとんどを一人で演奏して、9曲入りのデモテープを完成させた。

そしてプロジェクト名を「ナイン・インチ・ネイルズ(Nine Inch Nails)」とし、エキゾチック・バーズ在籍時に知り合ったマネージャー、ジョン・マルム(John A Malm, Jr)の協力を得て複数のレーベルにデモを送った。

ーナイン・インチ・ネイルズという名前の由来は?
単なる名前さ。解釈は人それぞれだよ。キリストを十字架に張り付けにする釘でもなんでもいいけど、ただ思い付いて気に入ったんだ。印字された感じも気に入ったし、例の2週間のテスト(注)にも合格したしね。

トレント・レズナー、"キーボード・マガジン" 1996年11月号
(注)「2週間のテスト」: 思い付いたアイデアを2週間後にもう一度見直す、ということらしい。

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