【第13回】通り過ぎる

 アニー・ディラート『アメリカン・チャイルドフッド』に書かれている話で印象に残っているものがある。

 一九五〇年、ピッツバーグで幼年時代を過していたころ、私はベッドへ行くのをとてもいやがった。なにかが部屋に入ってくるからだった。これは、そのなにかと私との間の秘密だった。もし私が話したら、それは私を殺すにちがいなかった。
 それが私をつかまえようとして部屋の隅々を探し回っているとき、息などできるものではなかった。もう二度と再びのびのびと息をすることはできないだろうと思った。私は暗闇の中でじっと横たわっていた。

 その「なにか」は、体をペタンコにしてドアの隙間から入ってくるらしい。透明で光る長ひょろいもので、中国の龍のように頭としっぽがあった。「なにか」が触れるとドアは青白くなり、通った場所だけ白く光る。素早く動く霊であり、意識であった。「なにか」はいつもアニーを捕まえる直前に唸り声をあげて消える。

 その正体は……通り過ぎる車であった。車のフロントグラスに角の街灯の光が反射したものであった。消える直前の唸り声は、信号で一時停止したのちにギアアップしてキーンと走り出す音だったらしい。頭としっぽがあったのは、窓のサッシが光を二つに割ったためだった。

 本当のことを知ってしまえばなんてことはない。だが、正体に気付くまでアニーは強い恐怖に襲われていた。彼女の寝る前の憂鬱を私はありありと想像できる。

 小さい頃、ベッドに入って眠りに落ちるのを待つ僅かな時間に部屋に「ゴオオオ」という大きな音が響いた。幼かった私は心臓がバクバクとしていた。何か、テレビアニメに出てくるような黒くておどろおどろしい化け物が現れたのではないかと疑った。それが一度だけでなく、幾度か聞こえてきた。私は目をぎゅっと瞑り、布団を頭まで被って、どうかこの恐怖から逃げ出せますように、早く眠れますようにと必死に祈った。この世の終わりがやってきたかのような絶望感に包まれていた。
 しばらくして、それがトラックが走り過ぎる音だということに気付いた。家の近くの道をトラックが時々通るらしい。昼間、何気なく聞いて覚えていたトラックの走行音と夜に聞こえてくる恐ろしい音が同じものと気付いた私はホッと安心したようで、一方で少し残念に思ったはずだった。

 内の世界と外の世界がある。自分の部屋と窓の向こう側。私と世界。私、またはアニーが感じていた恐怖は内の世界にあった。まだ幼く、感じたものを外の世界と繋げるまで至らなかった。繋げることができれば恐怖から解放される。しかし、それは一つの世界を手放すことと同義だ。一度自転車に乗れてしまえば乗れなかった頃の体の使い方はできないのと同じように、私たちはもう二度とその怖かった世界に戻れない。まるで夢を思い出すように、子どもの頃を想起するのだ。曖昧で薄れた世界を懐かしく思っても、大人になった私たちには子どもの頃に感じた恐怖に出会うことは難しい。
 私は幼少期のこのような恐怖をとても尊いものに思う。


清水優輝

 

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