静岡難所多すぎる問題【歩いて目指せ日本橋11日目】
この記事は、江戸時代の旅人みたいな放浪の旅に出たいと思い立った人生どん詰まりの京都在住OLが、京都三条大橋から東京日本橋までを徒歩で旅しようと試みた18日間の記録です。
【ルール】
【前回の記事】
遠江国・掛川宿(静岡県掛川市)
おはようございます。まだ外は暗いです。
掛川で泊まったホテルの窓から富士山がみえました。東海道の旅11日目にしてようやくです・・!
今回は、掛川を出て、日坂、金谷、島田、藤枝に行きます。鈴鹿峠、箱根と並ぶ東海道三大難所の1つ・小夜の中山と、箱根よりも越すのが困難という大井川を経由します。前日の筋肉痛が全然治っていないので不安です・・・。
掛川の七曲り
掛川は城下町なので、城めがけて進軍する敵のスピードを下げるためにあえて曲がり角を多く設けています。家康が生まれた岡崎には27もの曲がり角がありましたが、こちらは七曲がりと少なめです。旅人にとっては少ない方がとてもありがたいです。
まずは日坂宿まで7キロ歩きます。
遠江国・日坂宿(静岡県掛川市)
日坂は東海道の中でも特に小規模な宿場町の1つです。鈴鹿峠のそばにある坂下、今後向かう由比と並んで小さいとのことです。
事任八幡宮(ことのままはちまんぐう)
その名前の通り「願ったことがその通りに叶う」という夢みたいな神社です。これから難所・小夜の中山に向かうので、旅の安全を祈りました。既に足がバキバキなので切実です。頼みましたぞ・・。
坂上田村麻呂といえば、東海道三大難所の1つ・鈴鹿峠のふもとにもゆかりの神社がありました。単なる偶然かもですが、三大難所のうち2つにゆかりの神社があるの、なんだか不思議ですね・・。
境内で少しストレッチもさせてもらったところで、いよいよ小夜の中山へと向かいます。
小夜の中山
初っ端から心をへし折ってきます。写真だとだいぶ傾斜が伝わりにくくなるのが悔しいです・・・。息も絶え絶えに登っていたら、地元の子どもたちが自転車で爆速で坂を下って行きました。あんな勇気はOLにはもうありません。
小夜の中山という呼称ですが、これだけ聞いてもピンときませんよね。小夜・中山ともに個々で見たら余計に訳がわかりません。
「小夜」の方は、狭い谷に挟まれた道→狭谷(サヤ)→サヨ、もしくは悪霊から旅人を守ってくれる塞(サヤ)の神を祀る峠から名前がついたといわれています。「中山」は交通における境目の山の意味合いがあるそうです。
夜泣き石
夜泣きというので赤ちゃんの泣き声かと思ったら、山賊に殺された妊婦が、奇跡的に助かった赤ちゃん(切り殺された際、その傷口から出てきたのだそう)の存在を周囲の住人に知らせるために、石に乗り移って泣いたから「夜泣き石」だそうです。はじめはこのお母さんの名前が小夜で、それに因んだ地名なのかと思っていましたが、何も関係なかったです。
赤ちゃんはお坊さんに引き取られ、後に音六という腕のいい刀研師となります。ある日、とある男が刃こぼれした刀を持ってきて、「昔ここら辺で妊婦を切り殺した拍子に石に当たっちゃったんだよね〜」と堂々と白状したことで、彼が親の仇だと気付いた音六は、その場で名乗りを上げて男を切り殺しました。音八が刀研師になったことも、そこに犯人がノコノコとやってきて全部白状しちゃうのも、色々とミラクルですがそこには触れないでおきましょう。。
金谷の石畳
案外小夜の中山はアッサリ終わり、あとは惰性で歩くだけだと思っていたら、ここからが本当の試練でした。東海道しんどかった区間トップ3に入るかもしれません。金谷の石畳です。
地元の方々のご厚意で、この坂には江戸の当時にあった石畳が再現されています。見る分には風情があるもののの、実際にこの上を歩くとなるとこれがかなりキツいのです。
この坂の土はぬかるみやすいらしく、石畳があるだけありがたいのですが、デコボコした石畳の上で足の置き方を考えながら一歩ずつ進む必要があり、通常の歩き方とテンポも足の出し方も変わるので、妙に疲れます。大変なのは上りだけかと思いきや、滑らないよう踏ん張ったのがいけなかったのか、下りの方がキツかったです・・・。
後半、やたら学生さんと親御さんらしき人が多かったのですが、どうやら「すべらず地蔵」というお地蔵さんがあったそうです。その名の通り、坂道で滑らないようにという旅の安全祈願が転じて受験生の願掛けになったお地蔵さんです。ただ、西からの旅人にとっては、地蔵は坂の後半にあるので、あまり坂を越える上でのご利益はなさそうでした(あと足元を見るのに必死で見逃しました)。代わりに、冒頭の「なんでも叶えてくれる神社」こと事任八幡宮で安全祈願をしたので多分大丈夫・・・。西から旅する皆さんは、ちゃんと事任八幡宮にお参りしてから難所に挑みましょうね!
遠江国・金谷宿(静岡県島田市)
無事難所を突破して金谷宿に着きました。
金谷はこれから渡る大井川の西側にある宿場町です。峠や川を控えた宿場町は、天候や時間帯ゆえに足止めをくらった旅人たちで大層賑わったといいますが、金谷とその次の島田も同様に川越を控えた人たちで賑わっていたそうです。
大井川
「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」とある通り、江戸の頃は人足さんの手助け無くして渡れなかった地獄の大井川です。今は橋があるのでメッチャ楽に渡れます。金谷の石畳の方が断然越すに越されぬでした。
駿河国・島田宿(静岡県島田市)
川を渡って島田宿に入りました。大井川が遠江と駿河の境目らしいので、ここから駿河国です!!!!!川のそばに江戸時代の大井川越えに関する無料の展示があったので見に行きます。
江戸時代、大井川には橋が架かっておらず、「人足」さんにお金を払い、川を渡る手助けをしてもらう必要がありました。
料金は川の様子/水の深さで変動するため、スタッフの人が「今日は○文ですよ」と触れ歩いているのを聞いて、旅人たちは料金を把握していました。
旅人たちはまず「川会所」に行き、川越の方法や人数を伝えて料金を支払い、「川札」をもらいます。今でいうチケットです。
川越の方法は複数あります。
この他に、「棒渡し」というスタイルもありました。こちらは、細長い丸太に旅人がすがりつき、両端を「街川越」という人が引っ張って川越をする方法です。こちらは無賃で、力士、被差別民、巡礼者、下級芸人用のオプションだったとか・・・。「越すに越されぬ」と言うほどの川なので、手を離したら終わりとリスクが高い渡り方ですが、一応周囲には救命スタッフが控えていたとか・・・。
川越のサービスは朝6~18時までで、1日の仕事を終えた人足さん達は、集めた川札を川会所で賃金と交換してもらっていました。
前回訪れた天竜川しかり、「川を渡る」というのは決して簡単な行為ではなかったのだと、こうした歩き旅をしているとつくづく感じます。
ちょっとだけ東海道から逸れて寄り道します。
蓬莱橋
明治に架けられた、世界一長い木造橋です。897メートルあります。やたら東海道のガイドブックで推されていたのが気になって、足に鞭打ち向かいました。
「蓬莱」という名前をつけたのは勝海舟です。徳川幕府が倒れた後、徳川の旧領である静岡に移住した幕臣達が新しい時代を生き抜くうえで、勝海舟は幕臣達に茶畑の開拓を進言します。元々静岡はお茶の名産地でしたが、この取組もあってか明治には日本一の生産地となりました。新天地で再起した旧幕臣達をみて「この地には宝がたくさんある」と思い、「蓬莱橋」と名前をつけたそうです。エモいね〜!!!静岡で再起する幕臣達の物語は、2021年大河「青天を衝け」で見事に描かれていたので、ぜひNHKオンデマンドで見てください・・・。
この後、藤枝まで歩いたのですが、雨がひどく写真が全く撮れずでした泣
小夜の中山と金谷の石畳の頃に雨が降らなかったのがせめてもの救いでした。あの石畳を雨の中越えるのは、中々に恐ろしいです。やはり事任八幡宮のご加護でしょうか・・・。
藤枝の様子はまた次回の冒頭でお伝えしますね🙇♀️
さて、次回は遠江を出ていよいよ駿河国に入ります!!!藤枝から岡部、丸子を通り、阿部川を越えて府中(静岡市の中心地です)、江尻まで向かいます。そろそろ富士山が見たいですね泣 また次も見ていただけると嬉しいです。
寧々
【おまけ】歌川広重の浮世絵と同じ構図で各宿場町の写真を撮るチャレンジ
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