日記 #31

23.7.23.

 「毎日更新」のタグをつけた瞬間に更新を途絶えさせてしまった。今この文は25日に書いている。なんてことだ。

 この日は日常性に関するレポートを書いていた。深夜遅くまで書き進めてそのまま倒れて寝てしまい、次の日は家に友人を呼んでいたのでずるずると書けないまま二日が経ってしまった。

 レポートはバルト『テクストの快楽』を援用しつつボリスヴィアン『うたかたの日々』の幻影性と若さについて言及した。日常は認識できないからこそ日常だ。ならば日常の描写とは、日常そのものというよりは認識し得ぬものについての「幻影」だと言える(バルト)。その観点からすると、コランの恋と美への想像と固執を描いた『うたかたの日々』は、美的なオブジェの描写という表現の次元においても幻影的なのであり、クロエの死によって幻影が崩れ去ってもなお過去に執着するコランは、日常=認識の諦め=老いを受け入れることができず、いつまでも若いままなのであった。
 せっかくなので、授業の振り返りもかねて日常性の一般的な性質についてまとめた第一節を以下に引用しておく。

 日常は時の流れと共に現れてくる。それは第一に、反復であり安定である。
 たとえば自我の観点から見れば、クリステヴァは母子一体のころの主格未分の状態を「おぞましきもの」として、母親の棄却から主体の確立が始まるとした。原初なる混沌は、至上の心地よさと比類なき不安を同時に併せ持っている。クンデラが存在することに幸福を見出した一方で、サルトルはむき出しの現実に吐き気を見出したのだった。あるいはベグーはより日常性に即して論を立て、日常化を安全な習慣の世界を形成する作用と見た。脅威に満ちた差異の世界は反復と見なされ、デフォルメされて、主体の生活に安心をもたらすのである。
 こうして現実への一種の保護膜として分泌された日常は、第二に不可視という特徴を持っている。「日常とは私たちが初めて見ることが決してないもの、再びみることしかできないもの」だとブランショは言い、クンデラはそのテーゼを「ただ偶然だけが、メッセージとして現れることができる」と裏返して見せた。日常は、現実の認識不可能な複雑さが認識可能になるように単純化された姿ではない。日常は認識の価値のない、面白みのないものである。見過ごすに十分なだけつまらないともいえよう。日常は現実の反復であり、認識を可能にするための「場」にすぎない。
 そして日常は変化する。リップマンによれば、疑似環境に影響を受けた主体は環境そのものに働きかけてそれを変え、これを受けて再び疑似環境は変化するのだが、疑似環境に日常性を見出すならばこれらの変化とは現実と日常の変化のことに他ならない。そもそも現実は常に変化し続けているのであって、安定した生活を送るためには反復しきれない差異はまた新たな形で反復しなければならない。日常は反復のしかたを刻一刻とゆるやかに更新している。変化が大きすぎたあまりに反復を更新しきれなかった場合、むき出しの現実が現れ主体は混乱に陥ることだろう。
 以上に列挙した日常性の大まかな特徴は次のように整理されよう。
 日常は原初の混沌とした世界を反復し安定させた姿である。
 安定性ゆえに日常は不可視にとどまる。
 日常はその形態を常に更新し続けている。

 毎日更新のタグつけるのいったんやめます…。

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