見出し画像

『さよなら、わたしのロンリー』ミランダ・ジュライの魅力とは

 久しぶりのミランダ・ジュライ作品だった。
最後、彼女の作品に触れたのは、4、5年前の著作『最初の悪い男』である。内容はとりあえず置いておくが、読後、登場人物たちのぶっ飛びさ加減、ダメさ、繊細さ、突拍子のなさ、そしてそれら全てを洗い流すようなカタルシスを描く彼女の才に感服したのを覚えている。今回は映画なので2011年の『ザ・フューチャー』以来となる。この映画の感想もいつか書きたいが、とりあえず今回の『さよなら、わたしのロンリー』でミランダ・ジュライの仕事を見ていこうと思う。主人公は26歳の女性。愛情のない詐欺師の両親に育てられ服従し盗みなどを教えられ過ごしているが、ある女性を仲間に引き入れてから何かを感じ始め人生が変わってゆく、というストーリーだ。ちなみに原題は『Kajillionaire』で、調べたところ「実数として数えきれないほどたくさん」といった意味の “Kajillion”というスラングと“Millionaire”(大富豪)の造語らしい。

 ミランダ・ジュライの作品には毎回一風変わった人物や場所が出てくる。しかし観ていると妙にリアルな普通の日常が描かれていると感じてしまう。この不思議な世界観はなんなのだろう。不思議な世界などと聞くとファンタジーやオシャレ系映画かなと思うかもしれないが、それらとも完全に一線を画している。確かに今回の登場人物達は、ダサい服を着ている風だが、どうしても滲み出てしまうオシャレ感がこの映画にはある。ミランダ・ジュライ自身がオシャレなので彼女にかかると全部オシャレになっちゃうんだよね、と言ってしまったらそれまでなのだが、しかしオシャレだけでは済まされない何かがあるのだ。例えばこんな場面だ。建物の欠陥のせいで、壁から滲み出てくるバブルを掃除しなければならない部屋に住んでいる主人公と両親がいる。状況としてはかなり行き詰まった感じだ。しかしその流れ出るバブルの色はピンクなのである。画面が現代アートのようなオシャレな感じになる。そのせいで、それがたとえ絶望的な状況でも一見絶望的な感じがしない。しかし、だ。不思議なことにそれを見続けていると「絶望的な感じがしない」ことが余計に絶望的に思えてくるのである。このシーンのように一事が万事こんな調子で、どこかオシャレで突拍子もないのに妙に説得力がある。主人公が愛情表現や自分の生き方にもがく姿を見せられ、それらに引き込まれた頃、何かをきっかけにして(例えば今回は爆発するようなダンスだったのだが)いつの間にかそんな思いがピンクと重なり、消えてゆくバブルの前に胸いっぱいになりながら涙を流している私がいるというわけだ。完全に彼女の手中であるが、気が付かないうちに、というところがまたスマートなのである。

 さて、この映画はレズビアン映画と言われているが、彼女の作品はそういったカテゴリーに収まるものではない。彼女の描く世界はそれらを包みこんだ、みんなの世界だ。見逃しそうな小さなものを拾いあげ、大きなものと同じ価値観にもってくる世界、大切なものを発見し、問いかける世界だ。ミランダ・ジュライは詩人であり、そして入念な作家だ。彼女はユーモアを交え、異常にロマンティックに、音楽のように、そしてそれだけではなく厳しい現実感をもって表現する生々しいアーティストなのだ。

生まれ育った環境によって物事に対する価値は変わる。人によって、安心できるもの、大切なもの、善悪の判断などは違ってくるだろう。しかしそんなことを超えた感情をミランダ・ジュライは投げかけてくる。人と人との違いを当たり前に受け入れたくなるように、その違いの大切さを教えてくれる。劇中に525ドルが出てくる。その525ドルは、知らない人が見たらただのお金だが、主人公にとっては全く違う価値がある。主人公を見てきた鑑賞側にとってもただのお金ではなくなる。では、そういったものは社会で言えば何だろうか。自分たちとは違う世界、または理解し難い世界。例えば誰かにとっては、人種の違いや同性愛かもしれない、または隣人の行動や家族のことかもしれない。しかし、少し愛を持ってその人を見れば、違う世界に住んでいても、言葉にできなくとも、そこには必ず通じるものが流れている。知れば想像することができる。すると他人との違いもリスペクトできるのだ。彼女の作品を観ていると、劇中で起こっている人と人との親密な心の交流が、私の中でも起こっていると感じる。良い映画を観た時は、監督に向かって(伝わった。同じ気持ち。ありがとう!)と言いたくなるのだけど、彼女はそんなふうに思わせてくれる映画監督の1人だ。


この記事が参加している募集

おすすめ名作映画

映画感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?