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オニヤンマがベランダにやってきた〜介護夜勤への挑戦

 2020年、7月下旬になっても、梅雨明けはまだ見えない。今朝も植物たちに水をやろうかな、とベランダへ出ると、大きな虫が葉っぱにしがみついている。音を立てずに近づくと、ひょうたんの葉っぱに、オニヤンマが止まっているのだ。
黒と黄色の身体が美しい。じっと葉っぱにしがみついている。

 今僕には、誰も周りに人がいない。請求書さえこなくなった。来るのは、市民税、社会保険料の支払い通知のみ。仕事の電話も来ません。街中でも、シェアオフィスでも、仕事の電話をしているのを見ると、自分の置かれている状況を
いやでも思い起こさせて辛くなる。そんな中、虫とはいえ、来てくれた、それだけでも嬉しい。
 水がオニヤンマにかからないよう気をつけながら水をやる。
「来てくれてありがとう。何もしてやれないけど、ゆっくり休んでくれよな」
と呟いて、仕事場に向かう。
 と言っても特にすることはない。新規営業先、今まで受注した企業さんへの挨拶メール等。現実はドラマのように奇跡は起きない。何事もなく1日が終わる。

 家に帰って、改めてベランダに行くと、朝ひょうたんにしがみついていたオニヤンマが、プランターの隣に落ちて死んでいたのである。なぜかわからないが、涙が出そうになった。せっかく来てくれたのに、もうお別れなのかと。
また自分から人が離れていく。(今回はトンボだけど・・・)
 「短い出会いだったけど、俺の前に来てくれてありがとう。お前、大きくて美しい身体だな。」
そっとオニヤンマを掴んで、プランターの土をスコップで掘って穴を開けてあげる。その穴に、オニヤンマを寝かせて土をかぶせる。

 小さな枝を建ててあげて、即席のお墓にしてあげた。
オニヤンマの魂はどこにいくのだろうか。天国ってあるのかな。死んだらどうなるのかな。僕も死んだらどうなるのかな。楽になるのかな、それともとんでもなく辛い世界が待っているのかな。今辛いからと言って逃げると、もっと辛い状況になるのかな、でも、できるなら逃げたいな。逃げるっていけないことなのかな、もし僕も死んでこのオニヤンマと会えたら、なんて言ってくるかな、なんて考えながら、夜を迎える。

夜勤

 2020年、8月に入り、ようやく長かった梅雨が終わった。
連日テレビではコロナ感染者数が400人を突破、などセンセーショナルに報じられる。梅雨は終わっても、本業での受注はゼロ。こちらの悪状況は終わらない。
8月は本当に暇だから、介護の勤務日数を増やしてもらうことにした。
なんと夜勤が回ってきた。17時出社である。そこから夕食を用意して、パジャマに着替えさせる。一人でできる人はそのままだが、着替えも介助が必要な方もいる。これから寝てもらうわけだから、オムツとパッド交換も神経を使う。
長い時間そのままになるのだから、漏れ出ないようしっかり履かせるのだ。

 そこから長い夜が始まる。大広間には人がいなくなり、各々が居室に戻る。
あまり音を出さないよう、モップがけやら日中はできない施設の清掃業務を行う。トイレ、キッチン、廊下、手すり、消毒、誰からも声かけられず、黙々とモップがけをするのは結構楽しい。辛いことや惨めな状況を一瞬でも忘れさせてくれる。ひとしきり清掃が終わると、静かなフロアで買ってきたおにぎりを一つ食べる。外から虫の鳴き声が聞こえてくる中、食べるおにぎりもなかなかだ。

 夜から朝にかけて「巡視」という見回りが定められている。午前0時、2時、4時と計3回見回るのだ。そっと部屋を開けて、息をしているかを確認するのだ。電気は最低限の灯にして静かにしておくのだが、0時の見回りでは、まだ、居室でテレビをつけてみている入居者さんも少しいる。「夜遅いから寝ましょうね」
などと声をかけ、次の部屋へ行く。夜中に徘徊する人もいるので気が抜けない。
幸い0時の巡視は何事もなく終わる。夜勤のいいところは、夜中は比較的自由な時間があるということだ。読みかけの小説を持って行ったのは正解だ。暗めの照明の中読む小説も格別。

 問題が発生したのは午前2時の巡視の時だ。要介護5のCさんの巡視の時、大きな口を開けて眠りについているCさんのパッド交換をしようとした時。ちょっと部屋の灯を明るくして、いざオムツを開くと・・・
「あ、ウンチしてるね」
とお尻を拭いてあげた、そこまでは良かった。ウエットティッシュでお股を拭いていると、それが刺激となったのか、
Cさんの下半身がプルプルと震えだした、なんとも言えない気持ちだ、が、その瞬間!お股から透明の液体がジュワーっと溢れてきた。
「ヤバい!
思わず声を上げてしまった。近くにあった新聞を下に敷いてみたが、追い打ちをかけるように今度はお尻から軟便が襲いかかってくる。さしずめチョコレートフォンデュのようだ。終わったかと思うとそこから、腸の躍動がまた始まり、繰り返し溢れてくる。無尽蔵に出るわ出るわ。とにかくそこらにあるパッドやらオムツを防波堤にしてなんとか津波状態になるのを防ぐ。

 やっとの事でCさんのオムツ交換が終わった。小休止をとって隣の部屋を巡視する。そっと扉の取っ手を掴みゆっくりとスライドさせる。なんと、扉を開けると目の前にMさんが目を爛々とさせて立っているではないか!
「ヒィッ!」
声にならない声を上げてしまう。心臓の鼓動がバクバクと高鳴る。
Mさんが
「何、アタシ、寂しがりやさんだからさぁ・・・」
と腕を引っ張り中に引きずり込まれそうになる。
「ちょ・ちょっとMさん、夜遅いから寝ないと明日辛いよ」
と諭す。本音では辛いのは僕の方だ。
「眠くない!ちょっとそっちに行ってお茶でも飲んでいい?」
と笑顔で言われるのだが、なんとか必死に食い止める。

「いやぁ、今誰もいないからお茶ないかもしれませんよ、それより寝て明日の朝、お茶飲みましょうよ。」とこちらも頑強に諭す。納得してはいないようだが、ベッドの方に向かってくれた。歳をとって、背も縮んでパジャマ姿を見ると、顔はシワだらけだけど、3歳児くらいの印象だ。映画AKIRAを思い出してしまった。
これをもう一回4時にやらないといけないのか・・・疲れるなぁ・・

 午前3時頃、不覚にもうとうとしてしまう。何か背後に気配を感じる。
パッと後ろを振り返ると、先ほどのMさんがニィッと笑って立っている。
今回は声も出ない、椅子から10センチくらい飛び上がってしまった。
「何、どうしたの!?」
「なんでもない!」と行って仲の良いYさんの居室へ向かう。
「まずい!」
そう思ったが遅かった。
「Yちゃ〜ん、起きてようー」
と扉をガチャガチャとさせて開けようとする。
「Mさん、周りの人起きちゃうから止めようね」
と行っても聞きやしない。ガチャガチャやっていると、Yさんが中から出てくる。
怒りの表情がうかがえる。そりゃそうだよな。
「あんた、何なんだよ、いい加減にしないと、ぶっ飛ばすよ!本当に子供にも劣るね!」と凄む。

「アタシ明日田舎に帰るの」と深々とお礼をいうYさんとは別人だ。
ぶっ飛ばす、なんて言葉が出てくるのだ。しかし意に介さないMさんはYさんの腕にしがみつく。必死に腕を離してもらって一触即発の状態を抜け出す。
二人ともトイレに行ってもらうことにした。Mさんは一人でトイレは嫌だ、と駄々をこねるが先にMさんにトイレに入ってもらう。隣のトイレにYさんに入ってもらい夜中のトイレをここでついでとして済ましてもらう。先にMさんが出てくる。
Yさんのトイレの前に立っている。
しばらくするとYさんが出てくる。
「Yちゃ〜ん」
「なんじゃラホイ?」
Yさんが答える。さっきのことはもう忘れてしまっているのだ。認知症とはこういうことなのだ。今度は仲良く二人で手を繋ぎながら各部屋に戻って行ったのだ。そうこうして初の夜勤を終えたのだった。


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