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漫画『違国日記』を読んで考えること

やふぅー٩( 'ω' )و
今回は、ヤマシタトモコさんの『違国日記』を読んで考えたことを書きます。

この漫画は、とにかく何回読んでも面白い。
内容が重厚なので、数回読んだくらいでは私が消化出来ないとも言えるんですけど。



何度読んでも、ハッとさせられる点はたくさんある。
それを、いくつか紹介したい。

「わたし」と「あなた」

「わたし」と「あなた」など、主語の使い方。

主人公の叔母は話すたびに「これは私の考えだけど」と、主観的な考え方であることを先に言う。
主人公(中学〜高校)を含める他者(主人公と同年代)の自己を確立させる感じを受ける。
同時に読み手にも。

「わたし」と「あなた」は、時に砂浜と海で区切られる。
時に、砂漠と海で区切られる。
漫画だから可能な比喩表現な分、こんなに近くにいても違う存在だと思わせられる。

私が考えたのは他者との距離間ではなく、「わたし」の大切さだ。
「わたし」が、何に傷ついても、悲しんでも、孤独でも、誰といようとも、
いかなる他者を介入させない。
それは、「わたし」が思うことだからだ。

自己肯定感を上げるような本や、心理学の本にもある「わたし」。
誰かが、「あなた」が、思うことを「わたし」も思わなくて良い。
それは、「わたし」と「あなた」が違うから。
当たり前のことのようだけど、同調圧力や共感(共感の種類はここで触れない)、察することに長ける人は、いつの間にか境界線が弱くなる。

「わたし」と「あなた」
日本語では、そんなに主語を言わないよ!!と思うくらい、セリフに出てくるからこそ、ハッとさせられる。

ついね、もう面倒くさいから良いやって思ってしまうんだけど。
境界線をしっかり保つためにも、「わたし」と「あなた」が違うことを忘れないようにしようと思う。
もちろん、自分が他者に同じことをしないためにも。

レッテル

私の大嫌いなことの1つ。
それも、この漫画内でしっかりと書かれているんです。

この漫画、主人公の両親が亡くなる葬儀のシーンから始まる。

中学校卒業式の日。
主人公は「ふつう」のまま卒業をしたかったけれど、親友の親によって、両親を亡くしたことが広まってしまう。

今まで、生徒の1人だったのに、そこにレッテルが生じる。
1人の人格を持った者である前に、出来事のそれが、言葉となって一人歩きを始める。

「ーーーーの人」の前に「わたし」を意識させられるところ。

主人公の次の葛藤は「ふつう」って何だろう?というところなのですが、今回は割愛させてください。

消化の難しい感情

消化の難しい感情という表現で良いのか、分からないんですが。

繰り返しになるが、この漫画の始まりは主人公が両親を亡くすところだ。
色々あって、小説家の叔母に引き取られるが、この叔母が、すごくステキなキャラクターでして。

「わたし」と「あなた」にしてもそうだし、自分と他者の境界線を、心理的にも物理的にも、ガッツリ境界線引いているタイプでして。
つまり、主人公と真逆の性格をしているわけです。

主人公が欲しい言葉を、叔母は与えない。
主人公は、それを「さみしい」と思う。

叔母は、主人公の「あなた」の世界を、とても大事にしてくれているのだと思う。

主人公が、親を失ったことを叔母の前でしっかり言葉にするのは、5巻。
巻数で書くと絶望的な感じがしますが、それだけ時間がかかっていることを書きたかったんです(全11巻)
冒頭で起きた出来事を、言葉として口の外に出すまで、それが大きな出来事であるほど時間を要する。
漫画の最初の方では、主人公は、すぐに寝てしまったり、寝る時間が長かったりする。

出来事の消化のためには、それを受け止めて言語化するには、膨大なエネルギーがかかるし、その人にしか分からない。
それは絶対に踏み入れられない領域で、共有する必要もないことを、ここでも改めて考える。
ことによっては、大なり小なり…いや?
その人を思えば、踏み入ってはいけないと言っても、過言ではない気がする。
当たり前だ!!と言われちゃったら、それまでなんですけど。
そこまで、他者のことや自分自身のことを慮れているのだろうかと思ってしまう。
いや、私はそんなに配慮出来ていないと思う。
本当に、他者のことを考えるのは難しいのだと思わされる。

なりたい私

今まで考えてこなかったんですけど、これは確かに難しいなって今回思わされまして。

音楽やりたい
学びたい
睡眠時間の長い人生
有給
ボーナス

例えば、こんな感じが良いなって安直に考えたんです。
でも、これって「私」ではないんだなって、今回漫画を読んでて気付かされまして。
”なりたい私”って何だろう?
ここがまだ未消化。
健康的?
じゃ、何をもって健康的な身体と言えるのだろう。
そもそも”健康”なのは、身体であって、「私」じゃない。
永久追求が始まりそうな予感。

「わたし」とは?
マルティン・ハイデガー先生が頭を過ぎる。


主人公の父

主人公と、主人公の母はそれなりに意思疎通を行なっていたのだと思う。
日記という形で、手紙も主人公に遺している。
しかし、主人公の父は寡黙なタイプで、主人公が生前の父の姿を知りたくても、誰もがテンプレ回答のような言葉を主人公に返す。

完璧主義だったのかもしれない主人公の母と、ただ静かな父。
それは家庭でも、友人との家族との会話の中でも、会社でも。

お父さん?
あなたは誰?

主人公が探す父親の記憶は、読んでいて苦しくなるところでもあった。
見つからない、その人の姿もあるのだろう。
主人公の母だけが、見つけたのかもしれない。

誰?と問い続けることも、返答が少なすぎる情報もつらい。

誰かが知っているその人の姿は、尋問のようでもある。
追求し続ける苦しさを、突きつけられたような気持ちになる。

私の感情と他者の感情

最終巻。
主人公の友達が、実は主人公の叔母の作品(小説)が好きだと知る。

「ーーーのシーン泣いた」と、友達が言うところ。
途中までは主人公に、叔母の書いている本をすすめる。
しかし途中でやめるのは、主人公が、その友達はどこで泣いたのかを知ってしまったからだ。
数コマの話なのだけれど、本当に各キャラクターの心情が重要視されている。
最初から、最後まで「わたし」と「あなた」が、貫き通されているように思う。


他にも好きな描写

地味に好きなのが、挿入絵がカラーのとき。
これもやっぱり、ハッとさせられる。
急にたくさんのパステルカラーがあると、それまでの気持ちもガラリと変えられるというか。
うまく表現出来ない。

最終巻では特に、たくさんのパステルカラーが散りばめられているのを見ると、虹色を思わせる。
虹色は、その色が3つだとか人や国によって違う。
だからこそ、何色でも良いんじゃない?というメッセージを思わせる。
これは深読みし過ぎかな。

主人公が、最後に書く言葉。
これは少し前に、たくさんの色で書かれている言葉と同じだ。

違う孤独を所有する2人が、互いの孤独を退ける。

あの日、あの人は群をはぐれた狼のような目で
わたしの天涯孤独の運命を退けた。

ヤマシタトモコ 『違国日記』 106、173頁。

同じ言葉が、最終ページでは、黒いペンで書かれている。
色がついていると、それだけで叔母の言葉が読者(私)には伝わってくるようだ。

うん、まあなんていうか、あなたが何色でも構わないというか、的な。

この色の違いに意味があるのかと考えたりもしたけど、私には分からない。


最終巻で、主人公がそれを愛してるって一言で!!って、叔母に言うところも好き。
叔母は、主人公にしたら立派な大人だ。
そんな人が泣きながら話している時に、クッションを投げて、ダイブする。

時間の流れ方や、感情の動き方、言語化のスピード。
全部違うのに、同じ空間で生きていることが興味深い。
愛することとは、本当に長い説明を要するな。

主人公が、愛してるって何で言えないんだよ!?と、
泣いている叔母にクッションを投げた後の卒業式の朝(kindle版)

……わたしはあなたの 舟を押して
岸に残る者になろう
わたしはあなたの 錨となって海に沈もう
波を切り裂く舳先となろう
あなたがいつかすっかり
忘れて構わないものになろう……

ヤマシタトモコ 『違国日記』 167ー168頁。

この文章が、いかに重厚で愛に溢れるかは、これを書いている叔母のキャラクターがあってこそ。
本当に愛されているよ、主人公。
そして、叔母という一人の大人の成長というか変化も見える。
改めて、とてつもなく素晴らしい漫画。

まとめ

まだまだ書ききれなていない、色んなことがある気がする。
この漫画は、とにかく良い。
上記に書いたことだけでなく、本当にさまざまな生き方や考え方に触れている。
深すぎて、何度も世界観や各キャラクターの言葉に溺れるけど、
その追求は素晴らしいものがある。

全11巻で、もう完結しているので、本当におすすめしたい漫画。
いつだって、私の中ではノミネート作品の1つ。


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