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謎の唐津焼 出土した場所

佐賀城下の絵図

 富治は、徴古館のホール脇の小部屋で、地図と住所録を持ってきてくれた職員に話しかける。
「早速にありがとうございます。実は、私は西のお濠端にある船岡家の縁戚の者で、江戸時代あの場所に誰が住んでいたかを知りたいのですよ。」
「そうでしたか、この地図はどれも江戸時代のものですが、西のお濠沿いの土地はほとんど鍋島姓の屋敷ですね。鍋島藩には藩主だけでなく鍋島姓の上級武士が複数いましたので、そのような人たちが住んでいたと考えられますね。」
「そうですね。市のホームページの『佐賀の歴史・文化お宝帳』に、家人が『船岡家は鍋島藩の御納戸役で江戸時代から今の場所に住んでいた』と語ったとあるのですが、この地図を見る限りホームページの記載は間違っていることになりますね。」

「それからもう1ついいですか。」
「何でしょう。」
「船岡家の庭で掘り出された陶器を珍の山唐津と呼ぶようなのですが、あの辺に珍の山という場所があったのでしょうか。」
「ええ、確か西のお濠の外側に、水路を掘った際に出た土を盛ってできた小高い場所を珍の山と称していたと聞いたことがあります。」
「あー、そうですか。珍の山とはやはり地名をとって付けられたのですね。いやー、ありがとうございます。」

 富治は分厚い資料を取り上げて、なんとなくそわそわし始めた職員に問いかける。
「この資料から江戸時代に御納戸役を務めた家の名前を知ることができますかね。」
「確かではありませんが、出ていると思います。ゆっくりご覧になって下さい。」
 受付を長く空けておけないのだろう、職員は一礼して部屋を出て行く。

 部屋に1人残った富治は、分厚い本を繰ってみたが、御納戸役の氏名に関する情報を見つけることはできなかった。そろそろ帰りの飛行機の時間も気になるし、切り上げどきだと思い、親切に対応してくれた職員にお礼を言って、徴古館を後にした。

 左馬之助の家を確認し、続いて徴古館で貴重な情報を入手することができたし、あとは、左馬之助の建てた旧古賀銀行本店を見るだけだ。富次は、再びお濠端の道を歩き始めた。

(2024.02.10)

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