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【西武ライオンズLEGEND GAME】知っておくと楽しめる(?)記録とエピソード

先日投稿した「レジェンドゲーム選手名鑑」にたくさんの反響をいただきありがとうございます。

今回はおまけとして出場選手の記録とエピソードを書いていきます。本当は今回の内容も一緒にアップしたかったのですが、間に合わなかったために2回に分けてお送りしています。つまりおまけです…。

●球団通算成績から見るレジェンドゲーム参加者

今回の「西武ライオンズ LEGEND GAME」の何がスゴいのか。63名という出場人数もさることながら、参加メンバーの実績が素晴らしい。
1979年以降(所沢移転後)の個人成績で各部門トップ20を書き出してみた。
まず投手の登板数、勝利数、投球回。

1979年以降の各部門トップ20

増田達至・菊池雄星・髙橋光成など現役を続ける選手、西口文也・豊田清などライオンズで指導者を務める者、小野寺力・野上亮磨など他球団で指導者を務める者。
そして永射保さん・森慎二さんは残念ながら既に鬼籍に入られている。彼らを除けば残っているのは松坂大輔・三井浩二のみだ。
 
続いて野手は試合、安打、本塁打を並べてみる。

1979年以降の各部門トップ20

こちらも同様に現役選手・指導者を除いていくと、日本人では清原和博のみ。個人的にはもちろん清原にも来てほしいが…。
 
全国区のスターである松坂・清原の名前がないのは本当に残念だが、彼らを除けば「現実的に参加可能な主要メンバー」はほぼ全員名を連ねていることが分かる。

●参加者全体で「西武ライオンズの何割を占めるか?」


参加全選手の「西武ライオンズでの通算成績」を合計してみると以下の通り。 

6395登板
1213勝
19396 2/3投球回
 
17937安打
2214本塁打 

なんと参加全選手で1200勝以上を挙げ、2200本塁打以上を放っている。と言ってもこれだけだとよく分からないので、1979年以降の球団通算成績に占める割合を算出してみた。

6395登板(31.5%)
1213勝(37.8%)
19396 2/3投球回(35.6%)
 
17937安打(33.5%)
2214本塁打(34.4%)

どの項目でも今回の参加全選手が1/3ほどを占めていることが分かる。つまり3月16日のベルーナドームには「西武ライオンズの1/3が集まる」と言える。本当にスゴい日だ。

●球団在籍歴

参加選手がいつライオンズに在籍していたかの表も作ってみた。
青がライオンズ在籍、灰色が他球団に在籍していた期間を示している。「監」は監督、「コ」はコーチ(二軍監督含む)を務めていた期間だ。
スカウトや各種スタッフは過去の記録を調べきれないので対象に含めていない。

1961年にプロ入りし、60年以上プロ野球に携わっている土井正博がスゴすぎる。西鉄時代を知る東尾修・太田卓司より8年もプロ入りしている。
今となっては上下関係などあまり気にしない年齢かもしれないが、現役時代は明確な上下関係があったことは想像に難くない。

●エピソード

自分も含めてライオンズ黄金期を知らない人も多い。そんな方でもレジェンドゲームをより深く楽しめるようなエピソードを集めてみた。

根本陸夫という男

西武ライオンズとしての初代監督は根本陸夫だ。前身のクラウン時代を含め、1978~81年の4シーズンに渡って監督を務めた。「監督としての」業績がある訳ではないので、この人のスゴさは伝わり辛いかもしれない。しかも黄金期に監督を務めた広岡達朗・森祇晶と比べても選手としての実績はない。
しかしこの人がいなければ、今のライオンズはないことは断言できる。それどころかプロ野球自体も形が変わっていただろう。
詳しくは高橋安幸さんの「根本陸夫伝」などを読んでほしいが、1979年に西武ライオンズ誕生と同時に監督と兼任の管理部長に就任。実質的なGMとしてチーム編成に力を注いだ。
「新球団には全国区のスターが必要」とタイガースから田淵幸一、オリオンズから野村克也・山崎裕之を獲得した。田淵はこの時点で300本塁打、野村は600本塁打を放っており、山崎は4度のベストナイン、1度のダイヤモンドグラブを獲得しているスター選手だった。
そして新人選手の獲得にドラフト外での自由競争が認められていた時代だ。松沼博久・雅之兄弟に「2人で契約金1億5000万円」を提示し、盟主・ジャイアンツとの競争を制した。
 
こうして所沢移転を機にチームのメンバーはガラッと変わった。田淵とともにタイガースから獲得した古沢憲司、ドラフト指名した森繁和を含め、130試合のうち80試合以上で新戦力が先発投手を務める結果となった。
この時獲得した選手の多くが西武ライオンズ創世記を支えていくことになる。
 
そして根本はその後も戦力補強に取り組んでいく。熊本の高校に通っていた伊東勤を球団職員として採用すると同時に、所沢の定時制高校に転校させて囲い込む。アマの有力選手を西武グループの社会人チーム「プリンスホテル」に入社させる。台湾の至宝と呼ばれた郭泰源を国際的な争奪戦の末に獲得する…などなど。
堤義明率いる西武グループが絶好調の時代のことだ。豊富な資金力があったとはいえ、根本の人脈と発想力がなければ実現しなかったことばかり。
チーム編成やライオンズ史に興味がある人は関連書籍を是非読んでみてほしい。

広岡監督の管理野球

そんな根本が監督を退き管理部長に専念すると、広岡達朗が監督として就任した。広岡といえば「管理野球」、そして毒舌。就任直後に選手たちを集めていきなりこう言った。

「野球選手は野球ができる体型じゃないといけないのに、このチーム一番の高給取りで走れない、守れない選手がいる」

チームを引っ張る主砲・田淵のことを指していた。
更に春季キャンプ初日に大田卓司が故障でリタイアすると「彼は落伍者」と突き放した。
 
一方で広岡は進歩的な部分があった。栄養学の考えを取り入れ、玄米や自然食を推奨。選手の夫人たちを集めて講習を行うこともあった。しかし選手たちはキャンプの夕食から酒が取り除かれたことに反発。東尾は一見するとビールと分からないように、ヤカンにビールを入れ湯呑でそれを飲んだという。
 
しかし広岡の野球への厳しさ、根本が集めてきた素質豊かな選手たちの力が噛み合い、1982・83年に2年連続日本一を飾った。ベテランの東尾・田淵は広岡監督就任時に反発し、「優勝したら胴上げの最中に監督を落とそう」と誓っていたが、結局田淵は優勝時になって「いい思いをさせてくれた人を落とす道理があるか」とこれを断っている。田淵の人の良さが表れている。
 
ちなみに美食家だった広岡監督は1985年のシーズン中盤に痛風でチームを離れ、リーグ優勝の瞬間にも立ち会えなかった。選手と監督は違うとはいえ、自分は美味しいものを食べているのが、また広岡らしい。
広岡監督は1985年限りで辞任。翌年から森祇晶が指揮を執り、黄金期が始まっていく。

「やりたければおやりなさい」

辻発彦・渡辺久信・秋山幸二・工藤公康らが成長し、ライオンズは黄金期へ突入。1986年から3年連続日本一を成し遂げる。しかし1989年、バファローズ・ブレーブスとの三つ巴になると、10月12日のバファローズとのダブルヘッダーでブライアントに4本塁打を浴び優勝を逃す。
森監督にとって初めてのV逸となったが、物議を醸したのはその後だ。シーズン報告として堤オーナーを訪ねるとカメラの前で

「監督がやりたいんならどうぞ。また頑張ってください」

覇道 心に刃をのせて

と屈辱的とも取れる言葉を浴びせられる。
森監督は著書に「恥をかかされたという意識はなかった」と記しているが、心中はどうだったか…。
選手からは続々と「辞めないでください」「優勝しましょう」という電話が入り、チームの結束が高まったのは確かなようだった。

 
一方でV逸を決定付けたブライアントの本塁打はライオンズに別の影響ももたらしていた。4本目を浴びたのは渡辺久信。森監督は打たれた渡辺をベンチ裏まで追い掛け、「なんであそこでフォークを投げないんだ!」と叫んだという。渡辺はこの時のことを振り返り、

「若手の選手が悪い結果を出したときも、『なんであそこでこうしないのか』と、結果だけ見て話すことは絶対にしない」

寛容力~怒らないから選手は伸びる~

と語っている。悲劇的なV逸だったが、渡辺が「寛容力」を掲げた2008年の日本一に繋がっているとも言える。

伊東監督花束事件

黄金期の司令塔・伊東勤が監督に就任したのは2004年。満を持しての就任で長期政権が期待されていた。しかし西武グループの苦境、フロントの拙い対応もあり、伊東とフロントの関係が悪化。2007年に26年ぶりのBクラスに沈むと、その年限りで伊東は退団することに。25年以上球団に尽くしてきた男の最後だったが、福岡ドームでのシーズン最終戦でも球団から伊東への労いも特になし。伊東は自ら花束を購入し、試合後にホークス・王監督から渡してもらうように頼んだという。
それから伊東と球団の関係は断絶状態に。2013年にマリーンズの監督に就任してからは敵対心むき出しのコメントを残すようになった。
そんな伊東が17年ぶりにライオンズに帰ってくる。歴史的和解の時が来た。


●終わりに

ライオンズファンになって20年以上経つ。生まれる前の黄金期は知らないけれど、どんなときも人生の傍にライオンズがあった。
子どもの頃はライオンズは「世界一の特別なチーム」。しかしそんな特別なチームから色んな選手がチームを離れていった。最初は不思議だったけれど、歳を重ねるごとに事情が理解できるようになった。寂しいけれど受け入れるようになった。そして離れた選手はほとんど戻ってくることはなかった。

それでもついにレジェンドゲームが開催される時がやってきた。伊東勤が、工藤公康が、森繁和が久しぶりにライオンズのユニフォームを着る。
貧乏、球場が暑い、寒い、遠いなどと言われるチームだけど、ライオンズには偉大なOBがいて、偉大な歴史がある。そしてそれを見守り続けてきたファンたちがいる。
優勝し続けていた黄金期だけじゃない。黒い霧事件があっても何とか球団を存続させてきた福岡時代の先人たち、1979年の開幕12連敗を耐えた者たち、そして屈辱的な2007年の裏金事件・・・良い時も悪い時もライオンズの誇りを胸に戦ってきてくれた人たち、それを支えてきてくれた人たち。
レジェンドゲームが開催される3月16日が、ライオンズ、ライオンズを支える人、ライオンズを愛する人にとって最高の一日になることを祈っています。

●参考文献

『ベースボールマガジン2021年4月号 1979-1985 西武ライオンズ創世記』(2021).ベースボール・マガジン社
『ベースボールマガジン2022年9月号 森西武最強伝説』(2022).ベースボール・マガジン社
『寛容力 ~怒らないから選手は伸びる~』.渡辺久信(2008).講談社
『覇道 心に刃をのせて』.森祇晶(1996).ベースボール・マガジン社
『根本陸夫伝 プロ野球のすべてを知っていた男』.髙橋安幸(2016).集英社


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