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フォトジャーナリズム -SNS時代に共存する見えない社会問題

山谷にて from 'Another Side'

社会派と呼ばれる言葉は我々の世代だとほぼ使わない。その代わりに「フォトジャーナリズム」というのであろうか。昭和30年代の写真雑誌をめくってみるとアマチュアからプロの方までそのいわゆる「社会派」が一定数いて、なかなか秀逸なモノクロの作品が多く目につく。

ユージン・スミスや桑原史成が撮った水俣病だけでなく、その地区の小さな社会問題をテーマにしたりして、皆思い思いのアクシデントを写真に収めていた。ダムに沈む村を撮ろうとコニカC35で記録していた増山たづ子とて、写真を撮るという行為以前に、この眼の前の現状をどうにか記録して残さねばならぬという使命感があったのだろう。それはジャーナリズムなどではなく、己れの意識下から突き動かされる衝動というにふさわしいものだったのではないかと想像される。

ジョニー・デップが主演をつとめた映画「MINAMATA」

それは究極的には数年後、数十年後の未来の為に主観性を無視しマックス・シュティルナーの如く記録に徹する作業であるといえる。高度成長とともに変化する日本社会においてはしごく当然の行動だったともとれる。言い換えればそれだけ身近に社会問題が存在していたのだ。「危険」とかかれた黒い箱が普通の路地にどうどうと置かれているような感じなのだ。

現代社会、この日本においてその箱はまず危険というシールが剥がされ、普通の箱と見分けがつかないようにシーリングされてしまった。そしてちょっと路地裏の湿った地面を少し掘ってその中に埋められてしまったのである。社会問題はこうして身近にありながら、共存していることすら我々に認識されることなく存在するようになった。

いま、フォトジャーナリズムにのっとって撮影しようとするのであれば、まず箱を掘り起こさないといけない。その為には写真のスキルよりも、どこにその箱が埋められたのか察知する能力が必要不可欠となっている。それは社会性であったり、事象を考察する力である。だから写真は映像芸術でありながら言葉によって語られる必要性が出てくるのだ。

SNSによって写真の賞味期限が非常に短く変動している。情報が飽和しているネット上では流行りのテイストも移り変わりが激しい。そういった流れに乗るのもいいだろう。ただそれは消費され忘れ去られる写真である。後世に残される写真というものは常に求められるものではなく、自己との対峙のうえに生まれた作品なのだと私は思う。



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