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今、私のいるところ

2023年も終わるし年末はなにかと忙しいのでちょっと早いけど、ふりかえりをしてみます。
特筆することは、文学フリマ36へのお出かけとムラサキ氏の企画
#NEMURENUにおじゃまさせていただいたこと、全期間のスキが5500に到達したこと(そのキリ番のスキをくださった方がまたうれしかった)かな。



◇意味のないこと同士が手を取りあったら脳に余裕を感じた2023年


毎年嫌でも歳をとる。
見た目の老化は見れば分かるが(泣)、見えない老化も結構厄介。
例えば脳!固有名詞が出てこないから始まり、同じことを何度も話しているとか、とか……数えあげるのが恐ろしい………。

そんな中で「歳くうのもそれなりに悪くないかも?」と思えたのが今年のちょっとした転換だった。
色んな物事に対峙する時、心の内で引き合いに出せるものが増えたことに気がつくいた。
これまで乱雑に得てきた知識が、意外なところで組み合わさって、自身の中で新しい働きをするようになった。
それは新鮮な感覚だった。

何かの役に立てようとして獲得した知識もあったが、大抵は無目的にその時々で興味ひかれたことの累積だ。
興味がなくなればゴミ情報として忘れ去られたもの。ジャンルも深度もまちまちな、それひとつでは何もならないようなもの。
それが何かをきっかけに、あっちとこっちが繋がって、「そうか、つまりそうだったのか!」「あれ?見方を変えるとふむふむなるほど!」という感覚をおぼえた時、
「これが大人の余裕ってやつか………」
と思った。

普段、かなり視野狭窄で感覚頼りな人間である。この脳内開化は年々細々と積み立てきた経験とか学習からの利息なのだろうか。
だったら年をとってよかった。
もしかしたらみなさんは年齢関係なく、知識ってそうやって使っているのかもしれないけど………。
だとしても自分は時間がかかったけど、今の状態になれたことが加齢の効果ならちっとも悪くない。

残念ながら頭の回転がよくなったとか、発想が柔軟になったとかではない。そこは据え置きどころか退化している。
ひとつの事柄を一見関係ない事とも紐づけて、伸縮自在な脳内事象を楽しんでいる感じ。
だから何かの役に立っているのかと聞かれれば、立ってはいない。
無駄に余裕を感じるだけ。
でも脳はただ老化するだけじゃないと実感したことは大きい。

おしりんぼ

◇もうトトロを振り返らない2023年


ここ数年悩んできた。やはり年齢に関することで。
「感性が惰性になってるんじゃないか!?」
というのは本当に怖かった。怖い。

感性が豊かという言葉を、なんの気無しにポジティブな意味で使ってしまう。
でも感性には圧倒的に負の面がある。
感性の豊かさとか鋭さといったものが、吉と出るか凶と出るかは当人にも分からないものではないか。
そんなことも忘れていつのまにか、感性の作用から痛くもかゆくもないものだけを選り好んで「良き良き」と愉悦に浸っている。
暇潰しにスマホに指を這わせている時、カッサカサの感性がそこにあるのを感じる。お肌からハリや水分が失われていくのに比例して、心から瑞々しさが失われていくのを実感している。

その自分の中から何かが失われていく感覚を、自分だけにしっくりくるように言うなら「トトロにはもう出会えない」だ。
アホと思われるかもしれないが、トトロをずっと探していたかった。
だってトトロいるもん!(声:メイ)
足掻いてみたもののもう手の施しようはなくなり「トトロにはもう出会えない」ことが目の前に叩きつけられている。

ついでに、自分の人生はお皿まで全部食べてやるぞー!という気概みたいなものもいつの間にか、消失していた。
幾つになっても落ち込んだり腐ったりはする。
でも散々やってきたから立ち直るプロセスがどこかで見えている。そういうことだ。

さてどうするのか?

日々、地味に地味に生きていても澱は溜まっていくものだ。
創作という噴出口がなくなったら、私はどうなってしまうのだろう。
まだまだ書きたいお話、書ききれていない物語がたくさんある。
それを出しきるまでは書いたっていいんじゃないか、と思う。
若い頃の自分が今の私を見たらガッカリするかもしれない。
それでも「まだ書いてるよ」と言ったら「おこがましい」と言ってくるかもしれない。万年口が悪い。
でもヤングミーはちょっと笑うかもしれない。
「まだ書いてるの?」って、ちょっと笑うかもしれない。
トトロにはもう出会えないかもしれないが、トトロがいたことは忘れたくない。
「おこがましくもおこ増し増しで物書きします」と言えば、「好きにすれば」とヤングミーはきっと言う。
幾つになっても好き勝手していたい。その点は今も昔も一致しているから。


ミュージシャンだったかアーティストだったか、そもそも誰が言ったのか記憶が定かではないが、旬を過ぎたその人が、今の自分は過去の自分の焼き増しに過ぎないと語っていた。
若かったから、その時はそんなものかと思っただけだけど。
今は、焼き増しに焼き増しを重ねて緩慢な死を先送りすることも、無様な選択だとは思えない。
結局何かに縋らないと人は生きていけないなら、縋る先が若かりし頃の才能であっても私は悪いとは言えない。
一度神様と契約した人は、当人だけが分かる神の声みたいなものに従って生きていくしかないように思う。

何を書いていたのか散漫になってきたが、自分に引き戻して小さくまとめてみよう。
私に書くことが残っていてよかったと思う。
私は最初から何も持ってなかった。ないない尽くしだった。
だから、というのも変だがトトロを振り返ってばかりいてもしょうがない。
トトロも忘れないし、自分は伽藍堂で何の才能もない上に不細工だと喘いでいた頃のことも忘れない。その伽藍堂に詰め込めるだけ詰め込んだものを私はこれからもずっと抱えていく。


ヒヤシンスの水耕栽培

◇勝負するならいちばんいいカードでいきたい2024年

小説書きには年齢も性別も職業も家族構成とかも関係ないと思っている。
公表する方はその人なりの考えがあるだろうけど、自分の作品は先入観なしに読んでほしいので非公開だ。
散々年齢が………って書いておいてなんだけど………。

作品こそが作者の顔であるべき。
と思う反面、作家はあらゆるパフォーマンスを含めて作家だとも思っている。
最近は自分のやりたいことだったら媒体に合わせて何でもやったらいい、に考え方が変わってきた。
長編連載を続けたことや、今年は企画に参加したことも影響している。ただネット上のコミュニケーションは本当に難しく思う。

色々な表現方法・表現媒体がある中で小説や物語の秀でたとこって何だろうと考えてきた。
まずもって小説は読まれない。広がらない。時間がかかる。
それでも本が好きな人がいて、言葉で表現する人がいる。
小説っていうのは、大部分が他者との共同作業だ。
まずビジュアルが文字であるのが特徴。
美術と違う。どんな抽象芸術も印象が目(場合によって耳、肌感覚)から入ってくる。
文字は記号だ。
記号を受け手は変換し構築するのだから、もはや読むことは創造作業ではないか。とんでもない表現技法だ。

読者としての自分は、小説はとにかく自分のペースで読めるのがいい。映画や音楽は(一時停止はできても根本的な意味では)、気になったところで止められない。
本は自身の中で変換や構築ができない言葉ともかなりプライベートに向き合うことができる。分からないものをそのまま心に移しかえることができるのは、文学の強みではないだろうか。
分からないものを分からない時点でポーズしたまま持ち歩けてしまうって、よく考えたらすごい。もちろん小説の中のあらゆる瞬間を持ち歩くことができる。
そのおかげで本を読むことで人生を耕しているという農業的喜びも得られる。
あと私は小説は分からなくて当然だと思っている。だって半分他人で、半分自分で、そのすり合わせなのだから分かってしまうなんてありえない。

そんな感じでつらつらと考えていて、純文学がどういう位置付けのものなのか最近ちょっと理解してきた。自分なりにだけど。
以前は、自分が漫画アニメサブカル方面にどっぷりだった反動で、純文学やちょっとスマートなエンタメ小説が書けた方がかっこいいように思っていた。うん、ちょっと大人ぶりたかったわけ。

でも自分が書きたいものって小説じゃなくて物語だろうなと思っている。
私は文字芸術の使命うんぬんより語り部のような者でありたい。
徐々に自分の傾向を自覚するに至る。
文字がなかった時代、老人が火の前で子どもたちに語ってきかせたお話。
それを聞いた子がまた自分の子孫に語り聞かせて延々と伝わる。そういう物語の起源に心惹かれる。
そこに今を生きている人間の感覚を混ぜ合わせる。聞き古した物語にもハッとする瞬間は生まれる。
御伽話の忘れられた美しい結末にみんなが耳をそばだてる。そういうお話を書きたい。

noteで青春小説、恋愛小説、日常系、ホラー系、純文系、ローファンタジー、ハイファンタジー、BL、シナリオ、色々書いてみたけど、ファンタジーがいちばん向いているように感じる、今日この頃。
そちらに舵取りしてもいいかなと思っている。


お読みいただきありがとうございます。

少し早いですがメリクリで良いお年を…………


アイウカオ





読んでくれてありがとうございます。