見出し画像

めぐまれているように見えた人たちも・・・それぞれ異なる大変さがある・・・?

 さて、前回のnote(「もがいても・・・得られないものを最初から持っている人がいるのがリアル」 https://note.com/nesugi/n/n18942083634a )が、思いのほか、すごいスピードでアクセスを増やしているので、自分の抱えていた、育ちのスタートラインの違いに対する思いが、その後20年を経過して、変化した部分があるので、それを記したいと思う。

 20代前半の狭い視野の中、狭いコミュニティの中での優劣に囚われていた自分であった。今になってみると、育ってきた環境がとても恵まれているように見える人たちにも、それぞれ自分とは質の異なる悩みがあるのでは、と思うようになった。

 環境が恵まれすぎていた故に陥る苦しさ、というようなものは、確実にあるのだった。

 今思い返しても、北関東の過酷な環境から東京に出てきた18歳の時の解放感は凄まじかった。「すごく頑張ったぜ俺!」というような感覚があった。地元では、女性が、大学進学を機に東京に出るというのは、進学校の人たちを除くと、そうそう許される進路ではなかったのである。

 高校時代の同級生の多くは、東京、あるいは地元ではない県外の大学に行きたいと思っていても、親の許可が出ず、地元の大学に進学していた。親の気持ちもわかる。仕送り、学費、家賃…東京、あるいは県外の大学に通うとなると、途轍もない費用がかかる。今や、国立大学ですら、高いのだから、いわんや、私立をや(反語)。その上、地方都市で生まれ育つと、「東京は危険なところ」というイメージを持ってしまう。今にして思えば、かなり、偏っていたと思うのだが、テレビや新聞の報道だけで接する「東京」というのは、極端に危険な事件が起こる場所のように見える。東京都内には、割とほのぼのとした郊外の地域もある、ということは、知らなかったのである。

 新宿の歌舞伎町や渋谷には頭がモヒカンの、往年の名作漫画、「北斗の拳」の雑魚キャラのような人たちが日常的にウヨウヨいるように思っていたし、吉祥寺駅には、素手で改札前で殴り合う人たちがたくさんいる(from 往年の少年ジャンプの名作漫画、「ろくでなしブルース」より)と思っていた。歌舞伎町や渋谷は決して安全な街ではないが、一人で映画を見に行って、一人で歩いていてもそれほど危険な目に遭ったことはない(これは個人差はあるかもしれない)。実際の吉祥寺には殴り合う人たちは一人もおらず、とてつもなく平和な街だった。

 そんな経験を経て思うことは、地元で信じられていた価値観や、18歳くらいまでのテレビなどから得てきた情報に基づく、狭い世界での価値観が、とても狭くて偏ったものであったことに気づく機会がない、東京(近郊)出身の人たちには、たとえ経済的な面などで圧倒的なアドバンテージがあるとしても、別の大変さもあるのではないか、ということだった。

 自分の場合は、中学生時代のとてつもなくダサかった時代というものを、今も思い起こさせられてしまうので、あまり地元に帰りたいとは、思えないのだが、東京に出てきたことで、それまでの自分を一新するような経験ができたと思う。かつてダサく、その後もダサかったことは気づかれていたとは思うが、そのダサさによって育まれたものをバネに、思い切り学生寮の活動などに打ち込んだのだった。

 思春期にダサかった人々が育む、地底でぐつぐつと湧き立つ、マグマのようなパワーは侮れない。

 6畳一間の和室で卒論が全く書けず、将来に悩み、ガチ鬱に陥って20代後半から30代半ばまでの記憶があまりない私からすれば、東京近郊で生まれ育っていた人たちや、海外経験があり英語力がとてつもなくあった友人たちが、恵まれているように思えていたのだが、その世界に生きる人たちはその世界で、また別の競争社会を生きているのだった。

 18歳から22歳くらいまでの、多感な時期のヒエラルキー意識が、実は、その地域や通っていた学校限定のものであった、ということに、全く気づく機会がないままに歳を取らざるを得ないことは、この衰退し続ける日本社会においては、とても大変なことのようにも思う。好景気に湧き立つ日本の大手企業などで働いていた親たちと同じような環境を得ることは、私たちの世代は、普通に生きていては、そうそうできないからだ。

 東京(近郊)の競争というのは、本当に熾烈である。有名企業にたとえ就職したとしても、その中で、覚えめでたき立場になるというのは、さらなる競争に勝たなければならない。特に、女性の場合、良い感じの仕事(どこが良い感じかは各々の心が決める)を見つけ、良い感じの夫(どういう人が良い感じの夫かは各々の心が決める)を見つけ、良い感じの子供を二人以上育て、さらに子供を良い感じの学校(どこが良い感じの学校かは、各々の心が決める)に進学させ、さらに、東京都内のいい感じの地域(どこが良い感じの地域かも、各々の心が決める)にマンションなどを長期ローンを組んで、住むとなると、その永遠に終わらない大変さは凄まじい。(知らんけど)

 自分は18歳の時に、これ以上、競争し続ける人生は、無理だと悟った。論文は書けないし、英語もできないし、労働意欲もないし、コミュ障だった。

 その時に、「このままではまずい」という圧倒的な危機感から、中国語を学ぼうと思った。アイデンティティーを英語力や論文作成能力には持てないと悟ったので、英語や論文作成能力以外のことに打ち込まざるを得なかったのである。

 それまで走っていたフィールドを、思い切り逆走するが如く、サッカーなのにボールを抱えて走るが如く、野球なのにボールを使ったモノボケをするが如く、思い切り、ルートから外れる方向に舵を切った。切らざるを得なかった。

 社会人になっても、ひたすらに映画を見たり、音楽フェスに行ったりすることを主軸に生きると決めて、文化的なものが何もないと、忌み嫌っていた地方都市に暮らさなくても良い、そんな仕事を見つけたいと切実に思い、今に至った。

 日本経済が衰退して20年。ゴールの位置は大きく変わった。ずっと、後ろの方をボテボテと走っていると思っていたら、ゴールテープが真後ろに来たような感覚。あれれ?意外と遅れてないぞ。

 90年後半に、経済が破綻した日本で生きる、生涯にわたって続く終わりのない競争社会。それまで信じられてきた成長の幻想は、ただただ、存在しないものや、求めても得られないものを、求め続ける人々を量産して、何かが足りない、足りないと、人々を追いつめるものへと変わり果てた。

 そこにSNSやinstagramが加わり、自分がいい感じの人生を送っているのだと、不特定多数の人々に、生活のあらゆる要素を知らしめなければならない世の中になってしまった。
 
 経済が低迷すればするほど、限られた人しか成功できない世の中だからこそ、「人よりも優れていると人に見せつけたい自意識」だけは高まる。

 自意識は、圧倒的なビジネスになるのだ。おそらくは、海外の、一生困らないような報酬をすでに得ている、天才、天才だと自らのことを確信しているような人々だらけの、グローバル企業の人たちをさらに潤わせる。

 その競争から降りることを選べた、恵まれていないと思い込んでいた自分は、恵まれていた面もあったのかもしれない、と今は思えるのである。

 20年前、卒論が全く書けなくて、6畳一間の和室で死にかけていた自分に伝えたい。
 
 ゴミのような卒論を無理やり出して(偶然遭遇した教授の前で号泣したらなんとか通してもらえた)必死に卒業をしたものの、上司のパワハラで朝が起きられなくなって、毎日、遅刻をしていた自分にも伝えたい。

 若くして亡くなった友人のことを思って、泣きながら、月を見ながら、夜中に自転車で走っていた自分にも伝えたい。

 両親に泣きながらガラケーで電話をして、育てられ方が悪かったと路上を歩きながら長時間にわたり罵っていた自分にも伝えたい。

 20年後に、自分のダサかった時代、劣等感に苛まれた時代、その全てを笑って話せる時期が来るよと。

 20年後に、その経験をnoteに綴って、数万人の人が読んでくれる時代が来るよと。

 育ちや、環境の良し悪しによる差は確かにあるけれど、それだけで、人生の全てが決まるわけではないよと。

 だから、なんとか生き延びてと言いたい。

 以上です。

 

 



 

 

 

よろしければサポートをお願いします!サポートは、記事の執筆のための参考となる本の購入、美味しいものを食べることなどなどにあてさせていただきます。