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ゴダール『イメージの本』

ひとつ確実なのは、確固たる意味なんかどこにもないということだ。
語りの親切さをこちらが要求する前に考えるべきことは、文脈の主導権が監督にあるのか鑑賞者にあるのか。
観ている間は綱引きのように、それがあっちへこっちへと揺れ続ける。パッケージされた意味を欲しがっていると退屈に食われる。「意味ありげなことばっか並べてバカにしやがってクソつまんねえ」と。

ゴダールの晩年映画は難解な詩だと思っていたけど、詩にしてはやっぱり引用がゴロッとしすぎているし、カットアップのぶった切りが乱暴すぎる。つまりやることが映画過ぎて、その過ぎたるところが前衛なのだろう。たぶん。

こちらが勝手に紡いだ自由意志による文脈はその映画の文脈たりうるのか?
…そんなことを考えながら映画を見るくらいなら、気晴らしに散歩でもした方がいい。

監督が話の要点を常にはぐらかし続けるのは、カッコつけとは真逆だと思う。
決して冗談では済まされない虐殺や戦争、死の場面。これらをネタとして消費しているのか、それとも語り得ないことを唯一語る方法は映画しかないという祈りなのか。
その真摯さを信用するのはこちらの自由だが、信じるスタンスを取る以上、『難解な芸術』という言葉に逃げてしまうと、こちらの動物的な脳は箱詰めされた退屈にすぐ食われてしまう。そうなったらこちらが要求するのは「スッキリ」であって、つまりポルノの時間だ。機械的な退屈さの極みだ。下半身ですらルールを欲しがっているという救いのなさに直面してしまったらあとはもう寝る他はなく、人間である以上はその円環から出たいのがきっと本心だ。

アカデミックな物言いだけがその下劣さを救ってくれる。フランス語の詩情で載せられる言語のカットアップによって単なる「賢者タイム」は、本当の賢者になれたような錯覚をくれる。もちろん錯覚だから、視聴を続ける推進力以上の意味は持たないけれど。

ともあれ。って、その「ともあれ」こそがジャンプカットなのだけど、ジャンプした先では、もう現在進行形で映画が紡がれている。ジャンプの踏切台にあったはずの、今と似ているさっきの風景は今紡がれているそれと連結しているのだと、ただただ信じる糸のようなものだけがグニャグニャしたタペストリーを時間芸術にしてくれる。

ああ、意味わかんねえ。つまり。

ここまで文脈を信じようとしながらハイコンテクストであることを否定するのなら、こちらができることは「ひょっとして泣いてるんですか?」と一声かけるくらいしかない。

たぶん開かれた映画はどこにだって連結できる。もちろん本日現時点のガザ地区にも。

それはそれとして(これもジャンプカット…ではないな。普通のカットか)、アマプラはいいな。気が向いたら何度もこれを見れるから。


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