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Wrong City, Wrong People. ー『サイバーパンク2077』と個人的な「まだ抗いたい」という感情について

ちょうど去年の今頃、お気に入りのゲームメディアだったFanbyte(https://www.fanbyte.com/)で従業員のほとんどを対象とした大規模なレイオフ(親会社であるテンセントによるものだ)が突如として発生し、SNSのタイムラインに所属するライターや編集部の方々の悲鳴や困惑が流れ込んできた。その中の一人がKenneth Shepardさんで、この人は他にもGayming Magazine(https://gaymingmag.com/author/kennethshepard/)に素敵な記事を寄稿していたり、「Mass Effect」シリーズを偏愛していたり、とにかく魅力的な人だなと思っていたので、この人が後にKotaku(https://kotaku.com/)のライターとして起用された時には何となく嬉しい気持ちになった。

そんなKennethさんが、最近Kotakuに『サイバーパンク2077』についてのエッセイのような記事を寄稿し、それがとても良かったので、今このテキストを書いている次第だ。

レイオフを経てアメリカのジョージア州からニューヨークへと引っ越したKennethさんが、一度地獄を見た上で世界最大の大都会へと移り、その状況に戸惑いながらも、一方で『サイバーパンク2077』をプレイする時に感じられる生活感やコミュニティに帰属する感覚に、ある種の心地良さと未来への希望を重ねる素敵な文章である。

上のリンクをクリックしてくれればこのテキストの主な目的は終わるのだけど、このテキストと、ちょうどDLCの配信に合わせて今プレイしている『サイバーパンク2077』に触発されるところがあったので、ここから先はただの蛇足だ。ついでにネタバレ(『仮初めの自由』は除く)もある程度含むので気をつけてほしい。

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しばらく自分語りが続く。

昨年、新卒として上京してから約5年ほど務めていた会社を退職した。元々それなりにハードな職場だったとは思うのだけど、それがやがて限界を迎え、パニック発作や色々な症状に悩まされるようになり、ついには完全にダウンしてしまったことをきっかけに、数ヶ月ほどの休職期間を設けた上でそうすることにした。とはいえ、この頃はまだ余裕があったというか、「よーし、転職するか!」という前向きな気持ちが残っていて、休職して3ヶ月くらい経つ頃には転職活動に熱心に取り組んでいた。

元々、学生の頃から「いつか入ってみたいな」、「近い価値観があるし、ここで働くことができたら良いだろうな」と思っていた会社があったので、この機会にそこの面接も受けてみることにした。想像以上にスムーズに面接は進み、最終的にはその会社の内定を手に入れることに成功した。この頃には非常にポジティブな状態になっていて、倒れたことも「転機だったのだろう」と前向きに捉えるようになっていた。


8ヶ月後、私は再び休職期間に入った。数ヶ月ほど100時間近くの残業を重ねて、単純に体調が悪化していたのが主な原因だとは思う。後半には思考が分からなくなり、繰り返し希死念慮に襲われるようになっていた。ある時、いよいよこの世を去ろうと思って準備を進めたものの、最後の最後で実行に移すことができずに、そのまま何度か会社からも勧められていた休職の打診を受け入れることにした。さすがに今回は慎重に休むことと向き合おうと思い、生活習慣の改善や治療に取り組んでいたのだけど、結局のところ入社して間もない自分を引き止めておくだけの意味は会社にはなく、翌月には休職期間の満了を理由に退職を告げられた。

会社のせいにしたいとは思いつつ、今でも頻繁に業務でうまくいかなかった場面や、「そもそもあんなに残業しなくてももっと効率的にできたのでは」という後悔、関わった人たちのネガティブな表情が脳裏をよぎる。要はたぶん向いていなかったのだ。

で、今は無職である。もう前向きな気持ちはほとんど残っていない。SNSや外出時には取り繕うようにしているが、基本的にはボロボロで、自分がこの社会の一部として機能していないという事実が思考を圧迫する。そんな中で『サイバーパンク2077』を久しぶりに起動して、なんとなくポジティブな感覚を味わった。ちょうどこの前実家に帰ったのだけど、不思議なことにその時よりも、それは強く感じられた。生まれ育った地元よりも、オフラインゲームの中の存在にすぎない架空の世界の方が、なぜか今の自分には心地良く思える。このテキストでは、そんな奇妙な感覚の正体を紐解いていきたい。

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個人的に、『サイバーパンク2077』の主役はVでもなく、ジョニー・シルヴァーハントでもなく、大企業アラサカでもなく、ゲームの舞台であるナイトシティそのものだと思っている。「サイバーパンク」という言葉を耳にした時に想像するような、大量のネオンと煙と広告と暴力で彩られた資本主義をそのまま形にしたような街。それは人々が抱くさまざまな欲望が暴走した結果だ。大企業や国家がヒエラルキーの頂点に君臨し、そこに近づくために有象無象が醜い争いを繰り広げる社会を養分としながら、この街は大きくなっていった。

誇張された存在として描かれてはいるものの、ナイトシティという存在は様々な「都市」のメタファーである。わざわざ謎の日本語や蛍光色の照明、あるいはキアヌ・リーブスでコーティングしなくても、東京という街は十分に暴力的だ。頭では資本主義に対して抗いたいという感情を抱いていても、結局のところ自分は地方から上京した身であり、なぜそんなことをしたのかといえば、「地元よりも東京の方がチャンスがあるのではないか」という期待を抱いたからであり、そのチャンスを与えてくれるのは東京に集まる企業に他ならない。企業に頼らない生き方を選ぼうとしたとしても、結局は生きていくためのお金を稼ぐ必要があるし、それは企業から流れ込んでくるものだ。音楽や映画、ゲームやコミック、書籍や演劇といった様々な娯楽にしても、そのほとんどは資本主義の元に成り立っている。もう身も心も完全に浸かってしまっている。

『サイバーパンク2077』は、一見するとストリートの街並みで暴力に明け暮れる、やりたい放題に欲望に浸りまくり、自由に生きているような感覚を与えてくれる「近未来版GTA」のようなゲームに思えるかもしれないが、ほとんどのミッションの依頼元は企業と繋がっており、稼ぐお金も同様だ。もはや何人倒したか覚えていないギャングたちは資本主義の中で無自覚に暴れる駒にすぎないし、視点を変えれば「もしかしたらこうなっていたかもしれない」というifの自分の姿である。「サイバーパンク」性の象徴でもある色鮮やかな光の数々は結局は企業の広告であり、それに魅入られてしまう根源を辿れば、私たちが日常生活の中でマッチングアプリの広告をつい見てしまう感覚と大きくは違わないだろう。

このゲームは、その事実を幾度となく繰り返しプレイヤーに提示する。私たちが「サイバーパンク」に魅了されるのは、結局のところは私たちが資本主義にどっぷりと浸かっていることの裏返しであり、それが集まる都会という概念に魅入られているだけにすぎない。精神も肉体もすっかり依存してしまっている。だが、それが良くないことは分かっているし、何より生活は苦しくなる一方だから、精神も肉体も何とか抗おうとする。都会を離れれば、今の家賃よりずっと安く、ずっと広い家に住むことができるはずなのに。

『サイバーパンク2077』の主な物語は、そんな日常を過ごしていた主人公の身に埋め込まれてしまった<Relic>というチップによって自らの人格が他者に完全に支配されることを防ぐための戦いを描いたものだ。それはすなわち、「資本主義に魂まで奪われる」ことへの抗いである。

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さて、本題である。

では、『サイバーパンク2077』はそんな企業、あるいは資本主義をヴィランに仕立て上げ、企業での生活に鬱憤を抱く人々にスカッとした爽快感を与える作品なのかというとそうではない。そもそもこのゲームにおいて、通常想定されるであろうハッピーエンド、主人公が<Relic>から逃れ、再び自由の生活を手に入れるような未来は存在しない。なるべく自分に良い方向に導こうとしたとしても、手に入るのはせいぜい数ヶ月程度の余命である。主人公が企業に殺されるという事実は変わらず、それがいつになるのかを少しだけ調整できる程度である。

物語を彩る登場人物に関しても同様だ。ゲームの序盤で登場する、いかにも都会を生きる美しい女性として描かれるエヴリン・パーカーのあまりにも惨い末路は、本作の価値観を象徴している。彼女に限らず、ほとんどの人物はこのナイトシティでの成功を夢見た結果として、取り返しがつかないほどの代償を払うことになる。

このナイトシティという場所にいる限り、あるいは資本主義の中での成功を夢見る限り、その代償から逃れることはできない。主人公はあくまで街そのものであり、自らがその人生を生きていたとしても、決して奇跡が起こることはない(多くの場合、ポジティブな予感はナイトシティを離れることを決めた人物に与えられる)。『サイバーパンク エッジランナーズ』でも濃厚に描かれていたこの冷徹でリアルな価値観が、ゲーム全体にしっかりと貫かれている。全員が幸せになるハッピーエンドを求めているのなら、そもそもこの場所を選んだこと自体が誤りである。

『サイバーパンク2077』という作品の核は、「それでも」という言葉や想いに集約される。代償に絶望し、打ちのめされた上で、人々は「まだ何かできることがあるのではないか」と懲りずにナイトシティへと立ち向かう。少しでも奪われた力を取り戻すため。少しでも残された人々や周りの人々の想いに応えるため。少しでもこの人生を誰にも奪われることのない自分のものとして楽しむため。とにかく抗い続ける。絶対に勝てない相手だと分かっているにも関わらず、企業に、あるいは資本主義に負けたままで終わることを拒絶する。

そんな本作を遊んでいると、社会が最悪であることを分かっていて、ボロボロに打ちのめされて、再び代償を払うことに怯えるような、一方で社会全体では珍しくもなんともない、取るに足らない存在である現実世界の自分自身の姿を見ることができる。ナイトシティでの生活を通じて、自分の中に沈んでいた「まだ抗いたい」という感情を再び見つけることができる。だからこそ、現実世界でボロボロになった自分にとって、その世界は共感できるリアルな居場所として、力を与えてくれるのだろう。そして、ゲームを閉じたら今度は、現実世界で動き出すのだ。ハッピーエンドが無いことは分かっている。ただ、もうちょっとだけマシな、負けたままで終わらせない結末を探したいだけなのだ。

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