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雑記:咳、胃液、セルアウト

年明けに風邪をひいた煽りで、喘息が再発している。俺とこの病気とは長い付き合いだ。

いつもの吸入薬を処方してもらってしばらく快方に向かったものの、薬を切らした途端にじわじわと悪化し、3月に入ってもなお酷くなる一方だ。しかも今度は、薬を吸おうが飲もうが啜ろうが一向によくならない。仮想通貨よりも乱高下が激しい気温のせいか、花粉で鼻がやられて口呼吸が増えているせいか、そのすべてか。これを書いている今も、2分に一度くらいのペースでゴホゴホゲホゲホとひとしきり咳き込んだりえずいたりしていて、まあ、なんとも賑やかだ。

前に書いた通り俺は不眠症も患っているが、より厳密にいえば、これは喘息の副産物に近い。眠りに近づく≒副交感神経が優位になるほど気管支が収縮して狭まるので、咳が出やすくなるとかいう人体の構造のせいだ。寝落ちしかけた瞬間に咳き込んで自分の目を覚ましてしまうという不条理で半自傷的なループを、もう連日4、5時間繰り返している。"寝かせない"というのはそれだけで立派な拷問になるが、今の俺は自分で自分を拷問にかけ続けているようなものだ。

眠れないと、認知能力をはじめとしてあらゆるパフォーマンスが低下する。パフォーマンスが低下すると、当然仕事もうまくいかない。ミスをする。叱責される。白眼視される。ストレスが溜まる。免疫が落ちて咳が止まらなくなる。そして、ふたたび眠れなくなる。うんざりするほどに綺麗な悪循環。死に至るPDCAサイクルだ。

とにかく、楽にさせてほしい。不快な熱をもって喉首にまとわりついてくるこの息苦しさを、文字通りの意味でも比喩的な意味でも拭い去ってほしい。無責任と罵られようと、いっそ終わらせてしまいたい。けれど人生は徴税吏の如く、俺を追いかけてくる。自由は仮初で、我々は囚人。否応もなく、是非もなく。

インターネットで弱音を吐いたところで、百害あって一利なし。これまで生きてきて分かった、数少ない世界の真理のひとつだ。自分の弱音を雑魚のさえずりと嘲られたり都合のいい共感に利用されたりするならまだマシなほうで、有象無象の吐瀉物として見向きもされないのが関の山。だから俺だって基本的に自分の苦痛は書きたくないし、他人が書いていてもネットの日常風景として流し見することがほとんどなのだけれど、いまはもうこれくらいしか書けないのだから仕方ない。吐けるものをすべて吐き、胃液しか出てこないようなものだ。

趣味を楽しめなくなることは鬱の症状のひとつだという。たしかに、ここ数日はゲームをやるのも億劫になっている。昨年末から立て続けに遊んでいるRPGはどれも終わる気配がなく、もはや終わらせる意志すら失せてきた。どれもこれも楽しいと理性では分かっているはずなのに、どうにもこうにも楽しめないのだ。これで積んでしまえば、それはそれでゲーマーとしては最悪の態度だ。自己嫌悪でますますコントローラーが握れなくなる。

前頭葉にこびりつく無力感に抗うため、なにか別のことを……翻訳でもしようとする。海外メディアの気になる記事をピックアップして、ただガリガリと訳していく。相変わらず雑で風情のない訳しかできないけれど、自分の言葉で喋らないぶん気は楽だ。そう思ったのも束の間、手に取った記事がこれまた(重要ではあるが)気が滅入るものだった。邪悪な引き寄せの法則か?

いまや誰もがセルアウトEveryone's a sellout now」と題されたこの記事は、SNSを通じた自己宣伝について書かれた長恨歌だ。本当にありえないほど長くて、原文を読み下すのにも一苦労だった。

SNSに自作の漫画を投稿したら万バズして、トントン拍子に連載決定……というような出来事は今どき珍しくもない。昨日までのワナビーが、今日のプロアーティスト。一億総シンデレラボーイ/ガールというわけだ。しかしそれが当たり前になった時代において、アーティストは自分自身を切り売りセルアウトして生きるSNS巧者でなくてはならなくなった。自分の仕事を「やりました」と一度宣伝するだけでは、まるで不十分なのだ。

ではなにをしなければならないか?

たとえば、作画途中のイラストを投稿して読者を焦らしてみせる。あるいは、過去の作品や仕事をことあるごとに再掲してバズの二毛作を狙う。もしくは、自作を褒めてくれるつぶやきをエゴサーチして感謝の言葉とともにシェアする。エトセトラ、エトセトラ……あなたもおなじみ、タイムラインに溢れかえるあれやこれだ。セルアウトしない者に成功はなし。今のご時世、セルアウトの腕前は絵や歌や小説がどれだけ上手であるかと同じくらい重要な"才能"なのだ。

さらにタチの悪いことに、クリエイティブではないタイプの人々にさえ自己宣伝の精神は内面化されつつある。当該記事冒頭で語られる「自己ブランド化のためにLinkedInに投稿するよう上司にすすめられた65歳女性」の話は、まさに資本主義リアリズムの悪夢の終着点のように思える。

自己宣伝を巡るこの話がなぜこれほど陰鬱としているかというと、そこから逃れるすべが実質的にありえないからだ。

自己宣伝しない者はただ稼げないだけでなく、抗いようもなく忘却されていく。失われていく。消え去っていく。またたく間に存在さえ忘れられてしまうなら、パンクになることすらできない。それでもなんとか生き延びてオーディエンスを増やそうとするなら、どこかで自己宣伝することは避けられない。俺はパンクだぜ、見てろてめえら・・・・・・・。すると当然、このパンク精神は自己矛盾に陥って意味を失ってしまう。

カート・コバーンが散弾銃で頭を撃ち抜いたのはまさにそのためだった。彼が世間に媚びまいと歌い上げるほど、世間は彼を持ち上げ、褒めたたえた。MTVはクソだとこき下ろすほどに、人々はMTVから目を離せなくなった。もしピンと来ないなら、MTVをYouTubeやTikTokに読み替えてもいい。ともあれ、カート・コバーンにとっては成功すら失敗だった。人間性の売春を強いる世界の欺瞞に抗おうとしたロックスターは、しかし、抗いきれずに死を選んだ。

俺自身は、あまり自己宣伝をしないほうだ。noteで記事を書こうが、商業媒体に寄稿しようが、イーロン印のシェアボタンを一度押す程度に留めている。読まれれば嬉しいし、イイネをされるのも卑しい承認欲求を満たしてくれる。けれど、やはりそれは、血を吐きながら続ける悲しいマラソンへの入り口にすぎない。深入りしないでいいなら、しないことだ。

とはいえそんなスノッブな仕草をできるのも、たまたま俺が物書きを本業にしていないからだ。もしそれ一本で生きていくとなったらそれは素敵かもしれないが、望むと望まざるとに関わらず自己宣伝のセルアウト野郎になることだろう。

そうなったとき、俺は銃口をくわえずにいられるだろうか?

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