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人は人、ナショナリティは帰郷

 Sarina 著

 外国人かと思ったら自分と同じ日本人だった、なんてことは、誰もが一度は経験しそうなことだと思う。私はどちらかと言うと「外国人だと思われる」ポジションに置かれたことの方が多いが(出身が海外なので間違ってはいないけれど)、同時に、勝手に外国人だと思い込んでいた人が日本人だった、ということも経験している。

 ナショナリティというのは慎重に扱わないと危険なので、私はマイルールとして、迂闊に人を「日本人」とか「外国人」という枠にはめ込まないようにしている。このルールを作ったきっかけは5年ほど前に遡る。東京駅で地図を悩まし気に見ていた「外国人ぽそう」な男性を見かけ、道を教えようと英語で話しかけた。すると「いや、日本人なんで、日本語わかるんで大丈夫です。」と断られてしまい、少し恥ずかしい思いをしたことがある。あの深緑の瞳の苦笑いは、今でもとても印象に残っている。以来、人はあくまで「人」、どこから来たのか、何人なのかなんて、私にはわからないし関係ないと考えるようになり、相手から”English please”とでも聞かれない限りは日本語で話しかけるようにした。

 面倒くさいルールだなとか、別に相手のナショナリティを予想するくらいどうってことないでしょ、と思うかもしれない。ごもっとも。あの人は日本人だな、外国人だな、と言うのは、何だかんだほとんどの場合予想が当たってるし、「あなたは外国人ですか?」と直球な質問を投げかけたとして、それに対して怒り出す人なんてあまりいないので、私は神経質になりすぎだと言われても仕方がない。

 けれど、ナショナリティを間違われたり当てられたりするのは、人にもよるけれど、結構違和感を覚えるものだと思う。少なくとも嬉しくはないだろう。私の場合、自分を「○○人」という型にはめず、「私は人間だ」というくらいにしか考えていないので、「ハーフですか」「日本人ですか」「アメリカ人ですか」と言われても気にしないが、幼少期の頃はそれがすごく嫌いだったことを覚えている。ましてや「アメリカ人ですか」なんて聞かれたら、何故かムキになって「違う!私はイギリス人と日本人のダブルよ!」ときっちりかっちり訂正していた。(英語教師の父がよく「アメリカ人の英語はアクセントが変だ」と言っていたことが少なからず影響していたと思う。今はアメリカ英語も好き。)

 この違和感は何かしら、と思って、フランスからの留学生の友人に意見を求めてみたことがある。

「当たっていようがいまいが、誰かにナショナリティを当てられたりするのって、ちょっと違和感があるなって思うの。これってわかる?」

彼女はhmm…と天井を見上げながら考え込んで、やがてゆっくり口を開いた。

「普段はあまり考えないけど、自分のナショナリティについて考えるとさ、自分には帰属する国があるんだな、帰れる故郷があるんだなって思い知らされるの。ナショナリティは故郷なんだよ。それを第三者にあれこれ言われると、帰る場所がなくなるように感じるんじゃないかしら。私も日本に来てから、自分はフランス人で、フランスが家だって意識するようになったわ。」

 私はこれを聞いて、なるほど、ととってもびっくりした。ナショナリティは故郷。そんな考え方は一度もしたことがなかった。慣れ親しんだ土地を離れて初めて感じることなのだろうか。素敵、と思ったのと同時に、ナショナリティの繊細さを説明するのにはとても説得力のある論理だと思った。私はこの名言をとても気に入っており、自分の手帳にメモ書きで残しておいている。

 5年前の東京駅で話しかけたあの深緑の瞳の日本人男性も、私のお節介で違和感を与えてしまっただろうか。何気ない勝手な親切心で誰かのナショナリティ(故郷)を侵害したり否定したりしかねないのだとしたら、やれやれ、ナショナリティって面倒だなと思う。「外国人」「日本人」という程度の問題ではない、とっても複雑で繊細なガラス細工のようだ。

 なので、「あの人はきっと○○人だから…」とか「○○の人って…」と、ナショナリティで先入観を持つのはとても危ない、デリカシーのないことなのである。仮に本当に自分が思っていたナショナリティだったとしても、自分や世間が認識するような人柄と全く違うかもしれない。

 「日本人」「外国人」の前に、人間一人一人は一個人であり、同じカテゴリ同士でも様々な人格がある。「○○人」などナショナリティにとらわれすぎず、また自分自身も一個人として素で振る舞えばいいのではないだろうか。慎重に扱わなければいけない反面、ナショナリティはあくまでその人の「故郷」というとらえ方が、軽すぎる重すぎず、ちょうどいいと思う。

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