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一輪の花

先日のレッスンで、先生に
シューマンの「詩人の恋」を聴いてみてください
とお勧めされた。
「美しい5月に」という素晴らしい曲があるから、と。

私はシューマンをずっと聴かず嫌いしてきた。
曲に漂うアンビバレントな感じが解釈を難しくさせるというか、素人を寄せ付けない雰囲気があって、私には理解できないのでは?と思っていた。

「詩人の恋」は昔聴いたことがある。
でも、ハイネの詩のほうに興味があってサラッと聴いただけで、曲自体はあまり印象に残っていなかった。

私の勝手な印象の話で。
私はモーツァルトが好きでよく聴くけど、モーツァルトの音楽は綺麗にラッピングされた花束のようだといつも思う。
花を好きなひとも、そうでないひとも、花束をもらえばそれなりに気分がよく、テンションもあがる。
まわりの空気も華やかになり、明るくなる。

もちろん、モーツァルトにはモーツァルトのアンビバレントな苦悩があるのだけど、大体が貴族と大衆のために書かれたものなので、そんなに難しいことは言っていない。
花に詳しくなくともそれなりに楽しめる気楽な花束なのだ。

対して、シューマンの音楽は一輪の花をそっと差し出されるような感じだ。
すごく美しい花なんだけれど、むき出しで、受け取るのに覚悟がいるような緊張感がある。
花束を受け取るのとは全く違い、瞬きもできないほど張り詰めていて、泣いている心をそのまま手渡されるみたいな、苦悩を否応なく分かち合うみたいな、抜き差しならない感じがあるのだ。

そんなふうな勝手な印象があって、シューマンはずっと苦手だった。
単純な性格の私には理解できない音楽なのでは?と。

「美しい5月に」は、詩人の恋の一曲目にある。
ピアノを習い始めたからか、今回はちゃんとピアノが際立って聴こえてきた。
そして、あまりのピアノの美しさに、大袈裟ではなく撃ち抜かれたような気持ちになった。
ハイネは「美しい5月に、思いを伝えたんだ」と恋の始まりを謳っているのに、シューマンのピアノは既に悲恋の予感がしている。

あまりに儚くて、やるせなくて、でもそれはやっぱり、しんと静まり返った空気の中にすっと差し出された一輪の美しい花なのだった。


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