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なにをもって青春と呼ぶのか

最近、漫画『ハチミツとクローバー』を愛読している娘(小6)から、我々両親に対してこんな質問が向けられた。

『ねえ、青春ってあった?』

実に深い質問だ。

奥様はとくに迷いもなく『あったよ』と。おそらく頭の中には高校時代・大学時代の楽しい思い出が浮かんでいたことであろうことは想像に難くない。

僕は少し回答に悩んだ。なぜなら、娘がハチクロで学んだ青春とは、主に学生時代を舞台にしていると思われるが、僕は一般的に想像されるより長めに青春期間を過ごしたように思っている。いや、そもそも終止符を打った覚えがないので、まだその最中かもしれない。

そんなことを数秒で逡巡し、『あったよ。結構人より長かったかも。』と答えた。

青春とはなんであろうか。なにをもって青春の期間を定義すればよいのか。

ちょっとChatGPTに尋ねてみた。

さすがGPT。そしてこの定義に照らすと、やはり僕はまだ青春の最中にいる。

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だとしても、一般的にイメージしやすい青春は高校~大学にかけての期間であろうと思う。この期間、確かに僕は青春だったと思うが、と同時に、もっと勉強しておけばよかったといつも振り返って後悔する時期でもある。

田舎の高専生だった僕は、かなりの自由度の高い環境にあった。勉強は頑張っておかないと容赦なく落第するが、校則の縛りはなく、16歳から良くも悪くも大人としてみなされ細かいことは指示されない。できなければ去っていくのみ。

4年生、5年生になるとさらにその自由度は高まり、深夜までバイトをしていたので、午前中の講義はほぼ睡眠に充てられており、休講などでちょっと授業の隙間ができると、「砂丘が見たい」などの理由で2時間かけて友人たちと車で日本海側に向かったりした。

当時、『頭文字D』などの影響でみんなスポーツカーっぽいのに乗っていたので、ドライブもやけに楽しかった。何回か死にそうにもなった。思い出すと「うわっ!」と声が出てしまうぐらいヤバイ瞬間があった。それも笑い話になるのが青春。そう考えると、かなりの小さな確率を潜り抜けて僕はいまここに生きているなと実感する。

そんなこんなで楽しい学生時代を過ごしたが、先に述べた通り、もっと勉強しておけばよかったという後悔はずっと背中に追いかぶさっている。今になって、とりもどすように独学でいろいろ勉強してはいるけれど、学校で体系的カリキュラムで物事を教えてもらうという経験は大変に貴重なものだと、いまになって気づく。

たしかに小中学校のころは、「こんなことを勉強して将来なんの役に立つのだろう?」と考えることが多かったように思うけれど、高専の勉強はそのすべてがエンジニアやプログラマなど、工学系の職種に就くものにとって直接的に役に立つものだった。

勉強ばかりでは面白くなかっただろうけど、もうちょっとバランスを勉強に寄せればよかった。授業中に寝てばかりいた、他になにか面白いことはないかということばかり考えていた学生時代の自分を丁寧に説教したい。面白いものは目の前にあるじゃないかと。

と、いつまでも後悔していてもしょうがない。
現在、衣食足りていることを一旦良しとして、これから先は同じような後悔を背負わないように精進し、そして、子供には勉強の面白さをきちんと伝えられるように、そんなシニアになっていきたいと思い、挨拶に代えさせていただきます。

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<古着>

話は変わって、せんべろ古着活動。今週は方南町のトレファクにお邪魔してディグりました。

前半はなかなかヒットせず、今日は釣果ナシか、と思っていたのですが、CalvinKleinの涼しげなテーラードジャケットを1,500円程度で見つけたところからエンジンがかかり、結果、いい感じのディグとなりました。

nano universeのローファー、すごくちょうどいい感じなのですが、どうにもローファーを履きなれておらず、歩くとすぐ足が痛くなる。うまくコーディネイトに取り入れたいのですが、なかなか。この辺りはまた古着メイトたちに対策を聴いてみたいと思います。

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<古本>

京極夏彦先生『陰摩羅鬼の瑕』がそろそろ終盤。おもしろい。多分、世間から隔絶され、膨大な文献のみを頼りに世界を理解しようとした人間と世間とのひずみ、みたいなものがキーになるのかな?と思いながら、そう一筋縄ではいかないであろう結末に向けて、期待は募ります。

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<新中野>

今日は新中野ベローチェでこの日記を執筆しています。
駅前のカフェというのはいつ行っても空いてないのが常ですが、新中野ベローチェの懐の広さはそんな常識を跳ね飛ばしてくれます。いつも快適。

ただ、タバコは吸えないのでmikamiくんのテリトリーからは外れてしまいます。

(end)

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