放縦

例えば私の前回の文章を見てもらえばわかるんですが、ある二人が街を歩いていて、何やら罵り合いが始まり、突然トラックがやってきて二人を轢き殺してそれで終わり。本当にそれだけなのでまだ読んでない方、今から読みにいってくれ、じゃないと話が繋がらないんだ、リンクならここに貼っておくからとわざわざこう要求するようなことでもないが、とにかく今回は彼ら自身についての文章を書きたいと思います。前回が余りにも薄すぎたからね。というか本来こんな前置きも必要なくて、えーと、なんだっけ? そうだ、ゴホン、えー、ガスパールはどこにでもいるような会社員でした。彼が文学について強いアイデンティティを抱くことなど、彼の育った場所、ならびに彼を取り巻く環境からしても、あるはずのない話でした。少なくとも彼がリサと出会うまでは──

ある朝のこと。ガスパールはいつものように目覚め、うんと伸びをしました。カーテンを開けると外はしとしと雨が降っていて、ガスパールは少しため息をつくと、中国の中小企業から出ているゴツゴツした黒い機械を操作し、とびきりのコーヒーを準備しました。それからサンダルを履いて外に出て、郵便受けから少し湿っているだろう朝の新聞を取りだそうとしたところで、何か別のものが指先に触れました。取り出してみると、小さな赤い封筒。彼は驚いて、それから辺りをキョロキョロ見回し、そそくさと部屋に帰っていきました。新聞を取るのも忘れて。今までこんなものが彼に届いたことはありませんでした。普通の手紙だって滅多に届かないのに、赤い封筒だなんて! 彼はとても緊張していました。彼は独身でした──うーん、いや、だめだ、こんなの全然つまらない。面白くなりようがない。なんでこんなものを書こうとしたんだろう? リサとガスパールの話はもう終わったし、今からいくら補足したところで何も変わらない。量子力学の素人が二重スリット実験について独自に考察した論文の方がまだマシだ! 私は後悔しました。こんなに味気ない文章を連ねてきて、今まで何人をブラウザバックさせてしまったことだろう? しかし、今ならまだ間に合うはずです。いくらかの物好きがまだこのページに留まっていると私は踏んでいます。読み進めて今ちょうど、第二段落の終わりあたりに差し掛かっている、もう少しわかりやすく言いましょうか、ええ、画面の前でニヤニヤしているあなたのことですよ──ニヤニヤはしていないかもね──とにかく!私はリサとガスパールの呪縛から逃れなければならない! それにはまず、全然違う設定で文章を書くことに努めましょう。あなた方も着いてきてください。準備はいいですか? いきますよ──

──となって、この文章が全く別の方向に進むわけだね? こいつは文学の先生だ。俺の文章にやたらと口を出してくる。そういうわけです。これがコンピュータ・ゲームなら場面転換はわかりやすいんですが、どうも文章となると難しくて……とにかく間にチルダを挟んで様子を見たんですが……俺は頭を悩ましていることを伝えた。先生はうんうん唸ってから、とにかく私が言いたいのは、これは君の文学なんだから、君はもっと気ままに振る舞って書いてもいいと思うんだが、それよりも目下、解決しなければならない問題があることに気づいたかね? と言った。何ですか? 全くわからないので素直に訊くと、いったい君はどこにいるんだって話だよ、と返ってきた。やっぱりよくわからない。わからないので黙っていると、先生が勝手に説明を始めた。それによると──つまり、あらゆる文章には作者が存在する。俺が今日書きかけのまま持ってきて先生に口を出されている文章、リサとガスパールについての実験的でナンセンスなあの文章は、つまり俺が書いたのだから俺が作者の文章だ。もっと言えば、この文章は本当の話ではなく、リサとガスパールという登場人物をもって話が展開するので、物語の一種と断定できる。しかしここである問題が発生する。俺はこの書きかけの物語の末尾にチルダをつけ、全然違う感触の文章が後に続くようにした。実際、第三段落からは「俺」という人物と「先生」という人物が登場して、俺の文章について考察をおこなっている。じゃ、その考察の過程について綴った文章そのもの、つまり俺が見ているこの文章の作者はいったい誰なんだ? もちろん俺ではない。俺が思うに、あの物語はまだ俺の書きかけだからだ。しかも、俺は物語を書いているのであって、エッセイや体験記を書いているわけではない。あれが物語である以上、俺はあの文章には登場し得ないのだ。しかし実際には、誰かが勝手に俺の文章を続け、俺や先生のことを書き連ねている。先生によると、俺たちがいる世界の外に、俺たちを三人称視点で見ている別の作者の存在がある可能性が高いそうだ。気味の悪い話ではあるが 、紛れのない事実だ──じゃあ俺たちは劇中劇の一員ってわけか! 俺は狼狽した。先生が一言付け加えた。劇中劇中劇かもしらん。クソー、どうすりゃいいんだ!

しかし、よくよく考えてみれば、俺がリサとガスパールについての物語をただ書いている間は外側の作者(存在はしているが名前を知らないので勝手にこう呼ぶことにした)は出てこなかった。俺と先生の話になった途端、外側の作者が出しゃばって文章を書き始めた。そして、それは今も続いている。どういうことだろう? これを理解するためには、もっと色々な形式の文章を読んだり書いたりしないといけないらしい……

試しに、次のいくつかの文章について考察してみよう。全て俺が書いた文章だから、条件は同じはず。

①生存とは老化であり、生命におけるエントロピーの増大であるから、時間軸の存在しない2次元や4次元では生命は生存できない。

これには外側の作者が介入する余地も無いように思える。なぜか? まず、俺を含む何かしらの人物についての話、ならびにそれらの意志や行動についての話をしていない。「生命」が主語であり、その性質について辞書的に説明しているだけだ。……この文章自体の正誤、真偽はともかくとして。

②──「全知全能の神は自分に持ち上げられない重さの石を作って、それを持ち上げることが出来るか?」という問いがあるが、これは「神は自分に持ち上げられない重さの石は作れないし、だからそれを持ち上げることもできない」が正解である。神に持ち上げられない重さの石は存在しない。なぜなら神は全知全能だからであり、神がそれを作れなかったとしても、それは神が全知全能でないということにはならない。例えば内角の和が1000度の三角形は神には作ることができない。定義的に存在できないものだからである。同じような理由で、神に私の兄を殺すことはできない。私には兄がいないからである──

これは少し微妙だ。途中までは外側の作者は介入してこなかったが、兄の話をし始めた途端よくわからなくなる。私には兄がいない、と述べているのは本当に俺なんだろうか? 外側の作者が俺のことを観察して、俺を差し置いて述べているようにも見える……

③前に家族で葡萄狩りに行ったとき、たまたまちぎった葡萄が変な色をしていて虫もついていたので、キモっと思って反射的に手を放したら地面に落ちて潰れてしまった。知らないふりをして逃げようとしたら、いつの間にか後ろにいた農園の人にオイ!!!!!!!!!!!!と怒鳴られた。やっぱり第一次産業の人々は怖い…………

偏見に満ち満ちた文章だが、外側の作者の介入に関する考察にはうってつけだ。第一文目は主語が葡萄だから、これを述べているのは紛れもない俺自身だ。葡萄を見ているのは俺だからである。それに対して第二文目は、俺が怒鳴られているのを観察した外側の作者が俺のことを書いている。俺が怒鳴られている時のことを俺自身が見て書くことはできないから、必然的にそうなっていると見える。第三文目は難しいが、俺がこういう感情を抱いているのを見ているのは俺ではなく外側の作者だ。俺が感じたのはただの恐怖でも、外側の作者が客観的に表現すると、「第一次産業の人々は怖い…………」になる。

他にも考察すべき事柄があったかもしれないが、少なくとも外側の作者の介入に関してはなんとなくわかった気がする。自分自身を表現しようとすると、どうしても外側の作者が必要になってくる。外側の作者は、俺をただ趣味で観察している気持ちの悪いやつではなく、俺が俺自身を表現する時に召喚せざるを得ない存在である。俺が誰かのことを表現するように、外側の作者は俺のことを表現する。そうなると、自分を表現する文章の性質が自ずと見えてくる……

いくつかの考察でわかったことをまとめることにした。ただし、俺がわかったことなので、俺ではなく外側の作者にやってもらうことにしよう──

──私が思うに、全ての主観的な文章は矛盾を孕んでいる。経験は主観だが、経験を言葉に表したものは客観である。つまり、外側の作者が書いたものである。外側の作者と内側の作者が見かけの上では同一なだけであって、内側の作者が自分一人の力で文章を書くことは決してない。どういうことか? 例えば経験を文章に表すとして、追想も実況も同じく経験している自分を外から表す行為、つまり外側の作者の作品である。これは納得のいく話だと思う。なぜなら、例えば漠然とした悲しみをそのまま言語化することは不可能だからだ。「胸の痛み」と便宜上表現することはできても、再現することはかなわない。経験ではなく思考の場合もまた同じで、思考を言葉に表した時、その思考を見ているのは自分ではなく、思考をある高所から見下ろしている他者としての自我、つまり外側の作者である。つまり、文章とは常に客観的なものである。こればかりは先生もわかっていなかったようだ。もちろん先生というのは私の物語の一部であり、それが私と会話をしていたに過ぎなかったわけだが。ということは、先生がわかっていなかったなら、つまり私もわかっていなかったことになる。

話が逸れたが、つまり文章は客観だ。念のために言うが、私はこれをもって、文章という観念の欠損部分を強調しようとしているのではない。ましてや、エッセイや体験記などの形式の文章を否定しようというつもりもない。ただ文章についての意見を主観的に述べているだけであり(その主観は客観から生まれたもの、という主張だから難しい話ではあるが……)、むしろ文章の性質を語った辞書の抜粋として捉えてもらった方が健全だ。というか、このような問題を今更提起したとて、私が放縦に振る舞っていることの証左にしかならないのはわかっている。(そして、この放縦という言葉も、私の文章全てを含めて、さらにその外側の誰か、つまりは私が表現したものだ。主観を客観へと戻す入れ子の三重構造になっているわけだ)そこにはやはり、文章、文学に対する暗黙の了解があった──

──以上、俺が何時間か書き続け、何らかの結論に達した過程の文章を全てまとめて先生に見せると、先生は最後の方だけパラパラと読み、よくわかったね、と言ってにやりと笑った──

──もちろん、私の物語の中で。


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