見出し画像

ルネサンスについて知らなかったこと

人類の絵画史上において最高傑作とされる作品はなんだろう?おそらく多くの人がレオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」を挙げるであろう。年間1千万人以上、世界一来場者の多い美術館として知られるパリのルーブル美術館の目玉でもあり、人気度の上でもダントツである。

さて、絵画技法の勉強のために、この不朽の名作を模写する事にした。その一環で改めてレオナルドの生涯とイタリア・ルネサンス発生の背景について勉強しなおすことにしたのである。

ルネサンスやレオナルド・ダ・ヴィンチといえば小学生の子供でも知っている。しかし、その辺りのことをストーリーとして語れるかといえば大人でも難しいかもしれない。本稿では大人の知識として必須だと思う「ルネサンスとは何ぞや?」という点をストーリーとして語れるように押さえていきたいと思う。

我々はレオナルドのことを「万能の天才」と呼ぶのだが、実際にはあくなき好奇心を持った努力の人だったと言える。父親は公証人だったが、実の母は貧しい農家の娘であった。私生児として生を受けたレオナルドは両親と暮らせず、学校にさえさほど行かせてもらえなかった。そんな不遇の少年時代を送ったのである。更に当時のギルド(職業別組合)の定めによって家業を継ぐことは許されなかったので、将来にも不安があっただろうと思う。そんな中、レオナルド少年は14歳にしてヴェロッキオ工房にいわば丁稚奉公に出された。

レオナルドは自身のことを謙虚に「無学の人」と呼んでいる。が、それを他人に言われると腹を立てる自尊心の強い人間でもあった。おそらく当時の高学歴エリートや知識人に対する劣等感や反骨心が彼を徹底的な探求に向かわせたのであろう。代々公証人という血筋も功を成しレオナルドは精緻なメモ魔に育ったのである。

レオナルド作の絵画作品は約10点余りと少ないが、膨大なCodex(手稿)と呼ばれるノートを約40年間にわたって書き綴った。残念ながら全手稿のうち約3分の2が失われ、現存するのは約5000ページと言われている。1994年にビル・ゲイツが約30億円で購入したレスター手稿もこれに含まれる。よくレオナルドは謎の多い人物とされるが実際には彼ほど自身について多くの記録を残し、そして他者に研究されてきた人物は少ないのではないだろうか。

さて、本題に戻ってルネサンスについて考えてみる。まず、ルネサンスとは何だったのか?なぜその時期にルネサンスが興ったのか?

ルネサンスとは「再生」「復活」を意味するフランス語であり、一義的には、古典古代(古代エジプト、古代ギリシャ、古代ローマ)の文化を復興しようとする文化運動であり文芸復興のことである。

画像5

ルネサンス以前のヨーロッパは中世暗黒時代と揶揄されるほど変化発展の少ない時代であった。来世主義的で禁欲的なキリスト教が唯一絶対のものとして民衆を支配してきたわけである。デフォルトで罪人とされるのがキリスト教。日常生活全般において自由が制限され、宗教的な教えに基づく同調圧力が強い息苦しい世の中であっただろうとということは想像に難くない。 なにせ教会の教えに反発することは地獄に落ちるような、そんな世の中であったのだ。

中世以前の古代ローマは史上空前の繁栄を誇った。ヨーロッパを旅行し古代ローマの遺跡を訪ねるとガイドが当時の暮らしがどれぐらい豪華であったか話してくれる。古代ローマ人はヨーロッパ各地にテルマエと呼ばれる複合スパリゾートや大規模な劇場を建設しまくってこの世の春を謳歌していたのだ。建設技術も信じられないほど高度であった。例えば昨年スペイン旅行で訪れたセゴビアの水道橋。この水道橋は約2000年前のものだか鉄筋どころか石材を接着させるためのモルタル、コンクリートも使われていない。つまり巨大な石を精巧に積み上げてバランスだけでこういった建造物を作る技術があったのだ。これは流石に現代の技術でもおそらく作れないだろうと思う。 

セゴビアの水道橋(筆者撮影)

さてルネサンスに至るまでの歴史で1番重要になるのが東西ローマ帝国の分裂、そして西ローマ帝国の崩壊、十字軍の遠征、最後に東ローマ帝国の崩壊である。年表にするとこんな感じ。

画像3

まず、繁栄を極めていたローマ帝国がキリスト教を国教と定める。次にそのローマ帝国が東西に分裂、分裂といっても争って別れたわけではなく、広い国土を分割統治したのだ。その頃、キリスト教の来世的な思想が蔓延り社会は停滞しはじめていた。そこに、ヨーロッパの寒冷化という気候変動が発生。西ローマ帝国も作物の不作や伝染病の蔓延によって税収が減り帝国の力が衰えていた。そこに北方からゲルマン民族が南下しローマ軍の傭兵隊長であったオドアケルが謀反を起こし西ローマ帝国の皇帝を追放してしまったのである。後にオドアケルは東ローマ帝国に歩み寄るが、東ローマ帝国から派遣された東ゴートのテオドリックによって滅ぼされた。

画像8

図:当時は東西ローマ帝国が地中海全域を支配していた。

皇帝という絶対権力者不在の西ローマ帝国は次第に分裂していくようになる。そして徐々に形作られたのが、ローマ教皇領、フィレンツェ共和国、ヴェネツィア共和国、ミラノ公国などの中世イタリア都市国家である。

そんな中、1055年に東ローマ帝国がトルコ人のイスラム王朝であるセルジューク朝にアナトリア半島を占領された。セルジューク朝の圧迫に苦しんだ東ローマ帝国皇帝アレクシオス1世コムネノスの依頼により、1095年にローマ教皇ウルバヌス2世がキリスト教徒に対し、イスラム教徒に対する軍事行動を呼びかけ、参加者には免償(罪の償いの免除)が与えられると宣言した。これが後の悪名高い贖宥状(しょくゆうじょう)、いわゆる免罪符へと発展していく。贖宥状は元々は罪を赦すというより、罰を軽減するという性格を持つものであり、特に戦地における殺人を許容するために必要であったのだ。そのうちに一般民衆の聖地巡礼や教会への寄進に対しても贖宥状が発行されるようになったのである。

それが徐々にエスカレートし、教皇レオ10世がサン・ピエトロ大聖堂の建築費捻出のための全贖宥を公示し、贖宥状購入者に全免償を与えることを布告した。カトリック教会には、死後直ちに天国へ行けず、地獄にも墜ちなかった人たちが、苦しみによって罪を償い、天国に赴く備えをする煉獄の教えがある。贖宥状とはその煉獄での罪の償いを軽減するための証明書。まさに「煉獄の沙汰も金次第」となった。

ドイツのマインツ大司教アルブレヒトはフッガー家の資金援助を受け、教皇に多額の献金を行うことで贖宥状の自領内での独占販売権を手にし、ドミニコ修道会などを営業部隊として贖宥状を売りに売りまくった。これが批判を受け、後の宗教改革に繋がることになる。

画像7

さて、十字軍遠征によって巡礼者達は当時最先端であったイスラム文化や、自分たちのルーツである古代ローマや古代ギリシアの文明に触れることが多くなる。異文化に刺激を受け、巡礼をきっかけに各地の交易が盛んになる。当然ながら巡礼の旅には危険がつきものである、その巡礼者の財産を含む保護のために活躍したのが映画【ダ・ヴィンチ・コード 】にも登場するテンプル騎士団。あの有名な秘密結社?フリーメイソンの起源ともされています(当然諸説あり)。

テンプル騎士団は構成員が修道士であると同時に戦士であり、設立の趣旨でもある第一次十字軍が得た聖地エルサレムの防衛に主要な役割を果たした。特筆すべき点として、騎士団が保有する資産(構成員が所属前に保有していた不動産や各国の王族や有力貴族からの寄進された土地など)の殆どを換金し、その管理のために財務システムを発達させ、後に発生するメディチ家などによる国際銀行の構築に先立ち、独自の国際的財務管理システムを所有していたとされる事が挙げられる。引用元:Wikipedia「テンプル騎士団」

画像8

こういった人と物流、金融システムの整備によって商人が大きな財力を持つようになった。そのなかでも、フィレンツェのメディチ家は金融業で莫大な富を築きルネサンスを代表するパトロンとなった。因みに、メディチ家は元々は(Medici)の家名そのものが示すように、祖先は医師(単数medico/複数medici)ないし薬種商であったと推測される。

このような歴史的流れの中でルネサンスの土台が形成された。そして、決定的となったのが東ローマ帝国の滅亡。1453年5月29日オスマン帝国のメフメト2世によって東ローマ帝国の首都コンスタンティノープル(現イスタンブール)が陥落した。この事件により東ローマ帝国は滅亡し、多くのギリシャ人の学者・知識人が東ローマで保存・研究されてきた古代ギリシャ・ローマ時代の文献を携えて西欧へと亡命し、これがイタリア・ルネサンスに多大な影響を与えた。

画像6

イスタンブールのアヤ・ソフィア(筆者撮影)

イタリア・ルネサンスの勃興について、ざっくりと説明させていただきました。ルネサンスの代表的作品、ボッティチェッリの『ヴィーナスの誕生』が何故、今までのように聖母マリアでなく、ギリシア神話の女神ヴィーナスなのか?何故、1483年頃の作品なのか?これでやっと「なるほど感」がある説明ができるようになりますね。

最後に、歴史を紐解くのは面白いものです。一冊の本を読むというより、10冊の本を同時進行で読んで点と点をつなげて線を引き、それに様々な解釈を加えて面を作り立体的に捉えていく。勿論、遠い昔のことですから本当のことは誰にも判らないのかもしれません。事実と真実の違いもあることでしょう。

次回は、レオナルド・ダ・ヴィンチについて考察していきたいと思います。

画像4












この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?