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サンタモニカ、30時間サイクリング事件

【ロサンゼルス紀行#8】

どんより曇っていたのは、天気だけではなかった。

大谷翔平の欠場という事態に見舞われ、それでもどうにか気持ちを保ってメジャーリーグを観戦、帰国前のリベンジに賭けることにしたわけだが、一晩明けてみると、酷く落ち込んでいる自分がいた。昨日を乗り切れたのは、テンションの急激な落差による頭痛、腹痛、下痢嘔吐、精神崩壊、複雑骨折、いぼ痔の破裂などを防ぐため、脳に制御が働いていたに過ぎないのだろう。所謂、空元気というやつである。

大谷の復活がいつになるのか、全く予想できない。今日も試合はあるのだが、出場するかもしれないし、しないかもしれない。いろいろな可能性を鑑みた結果、帰国前日、明後日の試合のチケットを購入することに決めた。本来、明後日はサンタモニカに行く予定だったが、それを今日に前倒しすることになった。

サンタモニカは海に面した街で、ビーチが有名だ。せっかくビーチに行くなら晴れた日に行きたいというのは、全人類に同意してもらえる願望であろう。それなのに、この曇天。気落ちが加速する。明後日なら晴れていたのだろうか。すべてが悪いようにズレてしまったように感じた。大谷が明後日出場する保証もない。更にこれは自業自得でしかないが、もっと早く出るはずが寝坊してしまったことも落ち込みに拍車をかけた。街が暗い。私も暗い。朝食を買うために立ち寄ったセブンイレブンはもっと暗い。なんだこのセブンは。もはや私の知るセブンではない。客層も店員もヤバい雰囲気。天井が低い。暗い。怖い。日本ならレジ横にあるのはおでんだが、このセブンなら覚醒剤を並べても違和感ない。セブンイレブンいい気分♪には到底なれそうもなく、適当なサンドウィッチを買って、そそくさと出る。

サンタモニカに向かう地下鉄に乗り、窓側の席で今にも一雨きそうな空を見ていると、つられて泣きそうになった。泣かないようにするのが精一杯で、夫に素っ気ない態度をとってしまう。視界の外側に、夫の小さなため息を感じる。

ほとんど無言で、サンタモニカの駅から海の方に向かって歩く。途中、中田翔をも超えるゴツい金のネックレス風の首輪をつけた凶暴そうな犬とすれ違って、ああ、こんな気分じゃなかったらめちゃくちゃ笑えるのに、と思って、また落ち込んだ。こうなるともうドツボである。

それでも貧乏性ゆえ、せっかく来たのだから観光はこなさなければという気概だけはあり、有名なゲートの前で一応記念写真を撮ろうとするのだが、スマホを自撮りモードにして掲げるもまるで笑えない。撮った写真は曇って暗い。それを見た瞬間、諸々の悔しさがMAXに達した。

「曇ってる〜〜〜!」

半泣きでバタバタ地団駄を踏むと、夫がそれを笑い、私も少し笑えた。どうにもならないモヤモヤは、思い切り幼児ぶってみるとすっきりする場合がある。

どんより

サード・ストリート・プロムナードという、3ブロックにわたり店が並んでいる通りがあって、ハイブランドというよりは小洒落たセレクトショップや雑貨屋などが多く、好きな雰囲気の通りだった。適当な店に入ってあれこれ見ているうちに、私の機嫌はすっかり回復していた。昔から継続力のなさには定評がある。不機嫌すら長続きしないのはある意味長所、などと自負しているが、実際のところキレずに付き合ってくれる夫の包容力の賜物といえよう。セレクトショップで好みのブレスレットを見つけたので買った。

サード・ストリート・プロムナード


少し歩いたところにあるハンバーガーショップで昼食を食べた。倉庫を改装したらしい小洒落た店構えにふさわしく、オーガニックが売りの小洒落たバーガーであった。ブルーチーズとトリュフがほんのり効いたソースがうまい。

夕食はすでに決めていた。サンタモニカにあるシーフードの店だ。海側の大きな窓からベストポジションで夕陽が見られるらしく、観光客に人気の有名店らしい。日が沈む時間をわざわざ調べて予約した。

それまでの間、隣のベニスビーチに行くことにした。サンタモニカビーチとベニスビーチは自転車で約15分。砂浜にサイクリングロードが引かれていて、快適にサイクリングできるらしい。駅の近くにあるシェアサイクルの駐輪場で、若干苦戦しつつアプリを登録、電動自転車を調達し、さっそくベニスビーチへと向かった。

砂浜を自転車で走るのは、想像の10倍気持ちがよかった。砂浜を自転車で走ったことがないので、その新鮮さも作用している。心地よい海風を感じながら、蛇行する一本道をひた走る。ふと気づいたのは、どこにも注意書きのようなものがない。もしこれが日本なら、「横に並んで走らないでください」とか、「スピードを出し過ぎないように注意してください」とか、「追い抜くときは右側を走ってください」とか、数十メートルごとに看板を立てそうな気がして、勝手に想像して勝手に無粋だなと思った。ここにはそういったものは何もない。右車線と左車線を分つ線があるだけ。夫と並んで走っていても、別に何も言われない。追い抜きたい人は避けていくだけだ。これが適切な感覚なのかはわからないが、なんかアメリカっぽい。

砂浜のサイクリングロード

ベニスビーチに着くと、ビーチ際の通りに土産店が数多く並び賑わっていた。サンタモニカよりも雑多な雰囲気である。妙にポップなお菓子とキノコのイラストを掲げ、道端の簡易的な店構えで何かを売っている人がいた。お菓子とキノコの組み合わせは、素人の私でもピンときてしまう。

せっかくなので、波打ち際まで行き、靴を脱いで海水に足をさらした。気温が高くないせいか冷たく感じる。それでも泳いでいる人が結構いて、寒そうだった。濡れた足を砂で擦ると、すぐに乾いて靴を履くことができた。

土産屋の通りから住宅街をしばらく歩くと、アボット・キニー・ブルバードという通りがある。この通りはセレクトショップやカフェなど、ちょっと高級感のある個性的な店が多く、ウィンドウショッピングのし甲斐があった。あちらこちらの建物の壁にアートが描かれていて、お互いそれっぽいポーズを決めた写真を撮って遊んだ。ちなみに、このようなお洒落な通りでも平気でうんこが落ちているので油断ならない。

そして、ここらで天が我らに味方する。急に晴れてきたのだ。日差しが暑くてたまらないほどのかんかん照りである。晴れたビーチを見たいという、半泣きになるほど切実だった私の願いは無事叶えられた。

夕暮れまでに予約した店に着くよう逆算して、再度シェアサイクルで自転車を借り、サンタモニカへと戻る。復路も快適なサイクリングを楽しめるはずだったが、なぜか夫の選んだ自転車のバッテリーが即ゼロになる。十分に充電が残っている表示を見て選んだはずなので、何かしらの不具合だろう。ペダルは重いが漕げないこともないと言うので、時間もないし、そのまま目的の駐輪場まで向かうことにした。サイクリングロードは平坦だが、街中にはきつい坂もあり、予約した店から一番近いシェアサイクルの駐輪場に辿りついたときにはもう夫は汗だく、快適なサイクリングというより心肺機能強化トレーニングの様相であった。

そして、ここで我々はまずいことに気づく。駐輪場がいっぱいなのだ。シェアサイクルは好きな駐輪場から借りて好きな駐輪場に返せるのが便利な点なわけだが、駐輪場の充電ポートに自転車を差し込まなければ返却にはならない。つまり、充電ポートがいっぱいだと、別の駐輪場まで移動して返さなければならないのである。アプリを見れば駐輪場に空きがあるかどうか確認できるのに、うっかりしていた我々、確認しないまま満車の駐輪場に来てしまった。

アプリによれば、一番近い空きのある駐輪場は自転車で8分ほどの距離。予期せぬトレーニングですでに疲労困憊の夫、へなへなと崩れ落ちそうになる。せめてここにある充電された自転車と交換すれば? というアイディアで一瞬光が射したが、別の自転車を借りようとすると、「あなたまだ自転車返していないですよね?」的なエラーが出てしまいダメだった。

店の予約時間が迫っている。一刻も早く、空きのある駐車場に行くしかない。夫はうなだれながらも、また重いペダルを漕ぎ出す。「代わろうか?」と申し出たが、「いや、大丈夫」と言う。大汗をかき、息を切らしてペダルを漕ぐ夫の横を、電気によるアシストを一身に受けてスイ〜〜〜っと移動するのは実に忍びないが、実際のところ、私の貧弱な脚力では余計に時間を食うだろうから選択としてはこれがベストと言わざるを得ない。強い日差しも夫を苦しめる要因のひとつとなっている。晴れたのが仇となった。

やっとのことで駐輪場に辿り着き、充電ポートに自転車を戻す。これからディナーの店に徒歩で向かっても間に合わないので、Uberを使う羽目になった。わざわざ汗だくになって目的地から遠ざかり、金を払って戻るとは、あまりに不毛である。こんなときに限ってUberの運転手がやたらトークするタイプの兄ちゃんで、「スシを食うなら〇〇って店がいい! あの店のスシは、リアル・スシだ!」などと陽気に教えてくれたが、心も体もくたびれ中の我々、ハハハと乾き気味で笑い返すのが精一杯であった。

予約時間を少し過ぎたが、無事に店に入ることができた。夕暮れにもギリギリ間に合った。注文したビールが運ばれてきた頃、窓のロールスクリーンが一斉に上がり、店内にオレンジ色がダイレクトに射し込んだ。夕陽に感動したというよりは、無事目的を果たせた喜びが勝っていた気がしないでもない。

これにて一件落着、あとはシーフードに舌鼓を打つのみ、のはずだったのだが、夫の不運はまだ終わっていなかった。

「えっ、なんで!? 自転車返せてないってメッセージ出てる!」

スマホを見て急に慌て出す夫。どうやらシェアサイクルのアプリからの通知らしい。

「え!? ちゃんと充電のとこに置いたよね?」

「置いた! 絶対置いた! もう、なんでえ〜〜〜!?」

朝は私が半泣きだったが、今度は夫が半泣きである。アプリの画面を見せてもらうと、確かに使用時間がカウントされ続けている。料金がまだ加算されているのか? もしや、これからまたあの駐輪場に戻らなければならないのか? 最強にダルい展開が頭をよぎる。

「あの自転車、充電もおかしかったし、壊れてるんじゃない? だから戻したのに反応しない、とか。」

「そうかもしれない。返却済みの場合はメールくれって書いてあるから送ってみる。」

英会話に関しては私よりちょっとマシな程度でしかない夫だが、仕事上、英語で論文を読んだり書いたりしているので読み書きはそれなりにできる。今まで研究者として培ってきた英語ライティングのすべてを賭けて、シェアサイクルの会社に無実を証明する文をしたためる。そんな夫の姿を、私も固唾とビールを飲んで見守る。「○時○分に〇〇の駐輪場に返しました」と送るも、なぜかやりとりがうまくいかず数回メールを送り直し、そのたび「もう嫌〜!」と絶望しながら、やっとのことで自転車の所在を確認してもらい、「使用時間はしばらくカウントされ続けますが、その分の請求はしません」という返答をもらった。これで一安心である。

しかしその後、使用時間は翌日になってもカウントされ続けた。請求はしないというのだからそれを信じるほかないが、アプリ上では夫が30時間もサイクリングしていることになっており、そのプチ・ツール・ド・フランス状態にしばし笑いが止まらなかった(クレジットの請求はちゃんと止まっていた)。

そんなわけで30時間サイクリング事件は一旦解決したのだが、このシーフードの店で我々はさらなる困難にぶち当たった。思っていたより高級な店だったのである。観光客に人気と書いてあったので飛びついてしまったが、観光客価格という言葉をなぜか忘れていたし、こんなにロケーションが良いのだからそりゃ価格も相応になるであろう。まあそもそも物価が高いのでちょっといいレストランとしては普通の価格設定なのかもしれないが、泣く子も黙るオイスター狂の私が一番のお目当てにしていたカリフォルニア産の生牡蠣が4個で34ドル(約5100円)というのだから顔面蒼白である。

極小の4つはおそらくサービス

そのほかのメニューも、スープやサラダは20ドル(約3000円)、メイン料理やパスタは軒並み40ドル(約6000円)以上であった。物価もそうだが、やはり気を失いそうなほど円が安い。注文を牡蠣と魚介のフリットのみにとどめ、2杯目のビールを飲み干すと、我々は逃げるように店を後にした。ここで満腹になろうとしたら財布が爆発する。

夜のサンタモニカ・ピアは電飾で彩られ、人も多く賑わっていた。アメリカを東西に横断している道路の西の終着点、有名な「ROUTE66」の看板を写真に収めたのち、地下鉄に乗ってホテル近くまで帰った。

サンタモニカ・ピア

さすがにひもじいので、何か食べるものを調達して帰ろうということになり、近くのスーパーへ向かった。遅い時間なので、周囲を警戒しながら歩く。道路の柵におじさんが腰掛けていて、前を通ったら、「ジーザス・ラブ・ユー」と囁かれた。よくわからないが、心の中で「どうも」とつぶやく。一人で地面を蹴りながら、「ファック!!!」と叫んでいる人もいたので、大きく避けて歩いた。

スーパーでは、怖いもの見たさでパック寿司を買ってみた。食べてみると想像より悪くなかったが、リアル・スシとはさすがに言えない。

付属のわさびが不味かった

朝は落ち込みスタートで、自転車のすったもんだもあり、最後は予約したレストランが高級すぎて退散という悲惨な末路だったわりに、気分は明るい。サンタモニカとベニスの街の雰囲気がとても気に入ったから、そのおかげかもしれない。サンタモニカは映画『フォレスト・ガンプ』にも出てくる。フォレスト・ガンプ好きだから、あの映画に出てくる場所に行けたというのが単純に嬉しい。

ちなみに、大谷は今日も出場しなかった。もうそわそわすることなく、吹っ切れた感じだった。明後日また行く、それだけだ。

近くで何かイベントでもやっているのか、0時を過ぎても外からしっかり音楽が聞こえてきた。ジャズの音色に包まれて眠った。


続く。




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