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トム・ハンクスの眼差しで

【ロサンゼルス紀行#1】

2023年9月2日。出発直前になっても尚、私は「海外旅行 持ち物」としつこくGoogleに問いかけていた。海外旅行に不慣れで程度がまるでわかっておらず、「アメリカに6泊8日となればこれくらい必要に違いない」と鼻息荒くして実家のでかいキャリーケースを借りたはいいが、服や洗面道具を入れてもスカスカ、チケットを手配してくれた旅行代理店のギャルが「あっちで買うと高いんで!」と教えてくれたミネラルウォーターを大量に入れてもまだスカスカ。両開きの片側にすべてが余裕で収まってしまい、もう片側の空洞を見ていると、何か重要な物を忘れているのではないか? という不安がどうしてもよぎってしまう。しかし、何度Google検索してみても、私が忘れているかもしれない決定的な何かの答えは出ない。出発時間が迫り、私は覚悟を決めて、スカスカのキャリーケースを閉じたのだった。

一方、夫は一眼レフカメラを持って行くかどうかを悩んでいた。これは何を隠そう私のせいである。数日前、旅行のことを考えているうちに、ふと、友人とその子どもたちと植物園に遊びに行ったときのことを思い出した。遊んだ帰り、何の気なしにその日スマホで撮影した写真をLINEで送ったところ、友人は思いのほか喜んで、「夫があまり写真を撮ってくれない人で、私と子どもが一緒に写ってる写真がほとんどないんだよね」と言った。私はそのことに酷く胸を痛めた。そして、そういえばうちの夫も最近あまり写真を撮らなくなった、今回の旅行でも撮ってくれないかもしれない、帰ってきたら私の写真が一枚もないかもしれない、などと考えはじめたら無性に悔しくなってきて、夫に「君は私の写真をもっと撮るべきだ」と唐突に詰め寄った。それゆえ夫は一眼レフを持って行こうとしていたわけだが、いざリュックを背負い、キャリーケースを引き、首にゴツい一眼レフをぶら下げている夫を見たら、「もっと身軽であれ」と思った。

「カメラ置いてけば?」
「え、でも写真が。」
「スマホで撮ればいいじゃん。」
「充電なくなりそうで怖い。」
「モバイルバッテリーあるから大丈夫だよ。」
「そうだけど、でも……。」

すったもんだの末、一眼レフは置いて行くことになった。私がおセンチ入ったせいで夫の人生に余計な決断を増やしてしまった。スティーブ・ジョブズが聞いたら黒のタートルネックでシバかれそうだ。

家を出発し、バスを待つ。快晴。陽射しに照らされ、夫の鼻毛が出ているのを見つける。指摘すると、夫は「切ったもん」と言う。「切ったのに出てるなら、もうそれは仕方ない」などと言う。私は真剣に説いた。

「いいか、世界には2種類の鼻毛がある。出ている鼻毛と、出ていない鼻毛だ。」

まあ、それはいいとして。空港に向かうまでの間、我々の主たる話題はロサンゼルスの治安のこと。ここ数年、ロサンゼルスの治安は最悪らしい。コロナ禍で失業者が増加、ホームレスが増加、犯罪も増加、警察官は不足、取り締まりが追いつかず、警察官も自分の命を懸けてまで市民を助けようとはしない、とか。さらに夫が最近見たネット記事によると、カリフォルニアの州法で950ドル以下の窃盗が軽犯罪扱いとなり、それによって万引きが横行、ドラッグストアなどが閉店に追いやられている、とか。

一体どうしてそんなことになる、警察が機能していないのはおかしい、やはり銃社会なのがいけない、などと安全島国に住まう平和ボケ市民ゆえの上から目線でやいのやいのと言い合っていたが、その国に我々はこれから行こうとしているわけで、そんな危険な場所にのこのこ丸腰で赴くなんてアホなのか、死にたいのか、という気にもなってくるが、居眠りしながらでも乗れる安全な電車に揺られている今は、もう金払ったんだから行くっきゃねーまあ大丈夫なんとかなるさと、結局は楽観的なところに着地するのであった。

羽田空港に到着。国際線といえば成田空港のイメージだが、旅行代理店のギャルが「正直、羽田の方が楽じゃないですか?」と勧めてくれて羽田発の便になった。正直、楽だった。羽田空港には慣れているが、この第3ターミナルに足を踏み入れたのは初めてだ。外国人が行き交う国際線の雰囲気は、すでに外国に半歩足を踏み入れたような感じがして少しドギマギしてしまう。

海外旅行に不慣れな我々は、万が一のことを考えてかなり早く家を出た。よって、まだフライトの5時間前。ちょっと早すぎたか、とも思ったが、夫は「出発前の空港で過ごす時間好きなんだよね」と楽しげである。私も結構好きだ。空港が飛行機に乗り降りするためだけではない、必要最低限以上の楽しい空間になっているのは、旅行前の人間の浮かれた心理をうまく突いていると言える。とはいえ、物価高&円安のアメリカ旅行、今回使う大金を思うと出発前くらい安く抑えたいという気持ちもあり、昼食は吉野家にした。夫は牛カルビ定食、私は親子丼を食べた。

とりあえずお腹も満たされたので、さっさとチェックインを済ませることにした。ユナイテッド航空の自動チェックイン機を操作し、チケットの情報を入力する。すると、赤字でフライト時間に修正が入っていた。

約2時間の遅延。

7時間空港で過ごすことになった。さっきまで「この時間が好き」と目を輝かせていた夫も、さすがに7時間ともなると「なっげえ!」と天を仰いだ。

キャリーバッグを預け、外貨両替に向かう。旅行代理店のギャルによると、ロサンゼルスはどこもクレジット払いが基本で現金を使う場面はホテルのチップくらい、「5万もあれば余裕じゃないですか?」とのことだったので、私は5万円をドルに替えるつもりだったのだが、夫が「えっ、一人5万で10万って言ってなかった?」と言い出し、さらに念のためとかなんやかんや言って、結局15万円をドルに替えることになった。私は絶対多いだろと思ったが、なんでも夫は昔、海外旅行で現金が足りなくなってその調達のために家族で半日歩き回る羽目になったという外貨トラウマがあるらしく、この件に関してはやたら意思が固かった。

次に券種の振り分けだが、旅行代理店のギャルが「チップ用に1ドル札多めに用意した方がいいですよ」と言っていたので、私も多めにしようとは思っていたのだが、外貨トラウマに心を支配された夫が1ドル札を100枚くらいにしようとしていて、これはさすがに止めた。財布をカツサンドにする気か。私に止められてもまだ不安な夫は、窓口の人に「1ドル札これで足りますかね、6泊8日なんですけど……」などと聞いていたが、その人は旅行代理店のギャルではなくみずほ銀行の人なのでそんなことは知らんのである。

さて、荷物も預けた。両替もした。ここでやるべきことは全て済んだ。しかし、時間は有り余っている。ターミナル内のジャパンな店が立ち並ぶエリアを海外勢に混じって散策し、謎に抹茶パフェに舌鼓を打ってみたりもしたが、それでもまだ有り余っている。あまりの暇さに「羽田空港 飲酒」と検索するところまでいったが、出発前に空港価格のレストランで飲酒して無駄遣いするのは避けたい。

第3ターミナルにある”日本橋”

我々はとりあえず出国手続きを済ませることにした。出国すればもうそこは日本ではないのだから、早急に海外旅行開始のゴングが鳴らせるという寸法だ。

出国ゲートに行くと、カップルが向かい合っていた。彼氏らしき青年は大きなリュックを背負っていた。彼女らしき女の子は号泣していた。夫は「キュンキュンしちゃう〜」と頬を染めた。留学なのか、遠距離恋愛なのか、インドへ人生観を変えに行くのか。もしくは、本当に二人の「別れ」だったりするのかもしれない。いや、案外一週間の旅行かもしれない。それはそれで面白い。

手荷物検査の列に並び、入り口まできたところで、確か飲み物は持ち込めないんだった気がする、と思い、近くにいた中年の男性職員にまだ少し中身の残ったペットボトルを見せながら「これ持ち込めないんでしたよね?」と確認したところ、「それくらいの量なら大丈夫ですよ!」と言われ、あ、そうなんだ〜と持ったまま入ったら、手荷物レーンの中にいる職員に割とでかい声で「それダメ!」と指摘された。さっきのおっさん、無知な乗客を惑わす空港の妖怪か? と内心悪態をつきながらペットボトルを捨てた。

出国審査は機械にパスポートをかざし、正面のモニターで顔認証を受けるだけであっけなく終わった。出国エリアにもたくさん店があったので、それらを見て回って少し時間を使えた。煌びやかな高級ブランドの免税店が立ち並ぶ中、夫はユニクロで免税パンツを買った。

やることがなくなったので、充電しながら座れる場所を探す。足を伸ばして座れるチェアを見つけたので、そこに陣取った。目の前がガラス張りで飛行機の離着陸が見える。隣同士で座りながら、我々はついに酒盛りをはじめた。土産店で缶ビールを買い、スナックをつまみながら、Netflixを観た。仮にも新婚旅行だというのに、とてもそのワンシーンとは思えない。しかし、人は空港に7時間いるとこうなる。

新婚旅行中

空港で待ちぼうけしているこのシチュエーションは、映画『ターミナル』を観る絶好の機会だった。母国の内乱でトム・ハンクス演じる主人公のパスポートが無効となり、ニューヨークの空港に足止めされる話。この主人公が空港で待たされた時間に比べたら、我々の7時間など屁でもない。確か学生時代に一度観たはずだが、そのときよりずっと面白く感じた。ちなみに、夫はドラマ版ONE PIECEを観ていた。

映画を見終わると、いつの間にか外が暗くなっていた。今日は空港でお昼を食べて、甘い物も食べて、ビール飲んで、いい映画観て、「あーいい1日だった、さて帰るか」みたいな気分だった。いや違う違う、と自分に突っ込む。これからが本番、旅行のはじまり。そう思うと、頭蓋骨が破裂しそうなくらい嬉しかった。

フライト時間が近づいてきたので、搭乗口へと移動した。『ターミナル』を観た直後にターミナルを歩くと、まるで自分が映画の中に入り込んだみたいな気分になった。たくさんの人が行き交い、たくさんの人が出発を待っている。さっきのカップルのように別れもある。きっと出会いもある。空港ってドラマチックだ。トム・ハンクスの眼差しでターミナルを見つめながら、搭乗を今か今かと待つ。


続く。


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