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高等学校国語科が大きく変えられようとしています(2)

 しばしば指摘されることですが、こと「学校」「教育」に関しては、ひとは「自分自身の通った/学んだ学校」の経験をもとに議論しがちです。

 もちろん、そうした議論が必要な場面も多くあります。よい事例からは学び、悪い事例や不適切なことは改善や解消に向けて努力すべきなのは当然です。しかし、中には、「学校」「教育」の現状/現場に対する理解がないままで、批判の声だけが大きくなっているのでは? と疑いたくなってしまうこともあります。本稿での論点を明確にするために、前提として、二つのことを述べておきたいと思います。

 まず第一に、高等学校国語科の科目編成は、この間、かなり大きく変化している、ということです。文科省ホームページの資料で確認してみましょう。ちなみにわたしは、「国語Ⅰ」「国語Ⅱ」を学んだ世代です。

 【国語科の科目編成の変遷 ◎:必履修科目 ○:選択必修科目】
  ・昭和33(1958)~35(1960)年改訂  
   ◎現代国語  ○古典甲  ○古典乙Ⅰ  古典乙Ⅱ
 ・昭和43(1968)~45(1970)年改訂
   ◎現代国語  ◎古典Ⅰ甲  古典Ⅰ乙  古典Ⅱ
 ・昭和52(1977)~53(1978)年改訂
   ◎国語Ⅰ  国語Ⅱ  国語表現  現代文  古典
 ・平成元(1989)年改訂
   ◎国語Ⅰ  国語Ⅱ  国語表現  現代文  現代語
    古典Ⅰ  古典Ⅱ  古典講読
 ・平成10(1998)~11(1999)年改訂
   ○国語表現Ⅰ  国語表現Ⅱ  ○国語総合  
    現代文  古典  古典講読
 ・平成20(2008)~21(2009)年改訂[現行]
   ◎国語総合  国語表現  現代文A  現代文B
    古典A  古典B 
      
 東京・江東区に、公益財団法人教科書研究センターが運営する、教科書の専門図書館があります。ここで経年的に高校国語科の教科書を手に取ってみると分かるのですが、教材の内容にしても、長さ(文字数)にしても、取り上げられるジャンルにしても、ずいぶん変化しています。当たり前ですが、国語教科書も、時代の趨勢に合わせて、それなりに大きく変化してきているのです。

 以上のことは、わたしの立論のもう一つの前提ともかかわります。

 大学で仕事をしていても、しばしば、「高校までの国語教育がきちんとしていないからだ」「高校の国語科ではこんなことも勉強させていない」という批判を耳にすることがあります。言葉づかいの乱れ、レポートの書き方や文章の形式への理解不足、語彙の不十分さ、――などなどを、高校までの教育が悪い、と語る語り方です。
 でも、大学の教員も、いわゆる「政財界」から、「大学の授業では何をやっているのだ」と言われてもいる。形式的には同じ批判を向けられているわけです。

 心身のゆとりがなくなると、ひとは、批判を他者に投射しがちです。「学校」「教育」をめぐる議論で気になることのひとつは、大学の教員は高校の、高校の教員は中学の、……と、「それ以前の段階の教育が悪い」というタイプの語りが、しばしば見られることです。この「不信のデフレスパイラル」は、最終的には「家庭」に向けられる。でも、このタイプの批判は、あまり生産的なものとは思えません。 

 この間、研究者や現場の先生方の奮闘もあって、教員の労働時間の長さ、学校現場の深刻な「多忙さ」が、メディアを通じて少しずつ認知されてきたように思います。当たり前のことですが、それぞれの現場で、できる努力は積み重ねられてきている。とくに「国語科」は他者への想像力を培う教科でもあるわけで、だからこそ、自分とは異なる立場に対する想像力を失ってしまってはならないとわたしは思います。
 
 前置きが長くなってしまいました。では、いまの高等学校国語科では、いったいどんな内容が取り上げられ、学ばれているか、具体的に確かめてみましょう。
 
(続く)