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高等学校国語科が大きく変えられようとしています(3)

 本稿では主に現行の「現代文」の分野を問題にしたいので、手前味噌で恐縮ですが、わたしが編集のお手伝いをした教科書(筑摩書房版『現代文B 改訂版』=高2・高3生向け)を例に見ていきましょう。「第1部」が主に2年生、「第2部」が3年生の授業で使われることを想定した内容となっています。以下のリンク先から、見てみてください。

【筑摩書房版『現代文B 改訂版』もくじ】

 まず一目で分かるのは、教材となる文章の多さです(1部、2部合わせて29本)。これだけの文章を収録するわけですから、どうしても個々の文章は短いものにならざるを得ない。第1部の『こころ』、第2部の『舞姫』の約30ページ(しかも、これらは「2段組」です)を例外として、だいたい6~8ページ、文字数にすると2500~4000字ぐらいの文章が集められています。

 もちろん、ここに収められた文章のすべてが、授業で扱われるとは考えにくい。一般的には、現場の先生方が、それぞれの問題意識や生徒さんたちの進路や関心、授業時間の配分やトピックのバランスなどを考慮しながら、どのタイミングで、どの文章を撮り上げて行くかを決めていくわけです。

 また、とくに「国語科」は、「教科書を教える」よりは、「教科書で教える」教科でもあります。つまり、教科書はあくまで教える/学ぶための手段であり、教科書の文章を理解することだけが目的ではない。高校なら高校で必要な学力の習得に「使える」ものであるならば、先生方が自分で教材を探してプリントを作って、授業を展開することもできる。国語科では、こうした「自主教材」で授業する活動も、さまざまに行われてきました。
 
 さらに立ち入って見てみます。高校の国語教科書には、じつにさまざまなジャンル、多様な分野・領域の文章が集められています(筑摩書房の教科書はとくに収録本数が多いのですが、基本的には他社の教科書も同様です)。小説・詩・短歌・俳句といった文学教材だけではない。言語論・記号論・比較文化論などの人文科学的な内容、メディア論、現代社会論、政治思想、経済学の基礎といった社会科学に関わる内容、さらには動物学や科学技術論など、いわゆる「理系」の分野に関わるものまでをカバーしています。書き手も、柳田国男、丸山真男、藤田省三といった知の巨人から、管啓次郎さん、美馬達哉さん、岸政彦さんなど、現在の各分野の一線で活躍されている気鋭の論者まで、じつに多様かつ多彩です。いってみれば、現在の高校国語科の先生方は、こうしたさまざまな「問題」にかんする「知」を教室で伝える媒介者=メディアとしての役割を要求されている。教室において、ほとんどあらゆる知の分野について、幅広く語ることが求められているわけです。これは、なまなかなことではありません。

 こうした高校国語教科書の現状については、さまざまな意見があるはずです。「国語」の時間に、社会や経済やメディアや国際関係の話題が多く取り上げられることに疑問を感じる方もいるでしょう。また、これらの文章はハイコンテクストなものばかりなので、基本的には、日本語を第一言語として学んだ生徒しか読者に想定していないという問題もあります。
 
 もちろん、高校国語科はあくまで、日本語で読み、読み取った内容から自分なりに情報を取り出し、それをもとに思考する力、その思考を自分なりに表現する力を身につけてもらう時間です。また、表現された言葉に刻みこまれた思考の展開や情動の動きをたどり、認知することで、想像する力、感覚のアンテナを鍛えていく時間でもあります。
 ですが、その一方で高校国語科は、さまざまな経緯の中で、自然科学のそれをふくめ、この社会の知と文化の蓄積を紹介する、いわば「窓口」の役割も果たしてきました。生徒たちの進路によっては、法律の言葉、文学の言葉、科学の言葉、経済学の言葉と時間をかけて触れ合う経験は、高校教科書が最後の機会となるかもしれません。あるいは、教科書で出会った文章が、興味関心という点で、進路の選択に関わってくる可能性もある。
 
 高校国語教科書は、検定教科書という枠内のことではありますが、日本社会の基礎的な文化と教養の「土台」を形づくる一助となってきた、と言えるのではないか。わたしはそう考えています。

 では、そんな国語科は、どのように変えられようとしているのか。次回から、新しい指導要領の中身に立ち入って、そこで目指されているものを具体的に考えてみたいと思います。

(続く)