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高等学校国語科が大きく変えられようとしています(9)

 ここまで、「論理国語」の想定する「論理」が、かなり独特なニュアンスを持っていることについて論じてきました。では、「論理国語」と対になるかたちで新設された科目「文学国語」(これもまた奇妙な名称です)では、いったい何が、どのように学ばれるのか。『解説』は、文学を「人々の心の機微を描き、日常の世界を見つめなおす契機として、我々の文化を築く上で重要な役割を果たしてきた」と述べたうえで、この科目のねらいを、次のように記しています。

 ……共通必履修科目である「現代の国語」及び「言語文化」により育成された資質・能力を基盤とし、主として「思考力、判断力、表現力等」の感性・情緒の側面を育成する科目として、深く共感したり豊かに想像したりして、書いたり読んだりする資質・能力の育成を重視している。(『解説』179ページ)

 わたしにも文学研究者のプライドがあるので書きますが、これは「文学」の定義としては、明らかに不十分です。

 文学は人間の「心」や「感性」や「情緒」だけにかかわるものではない。

 政治小説やプロレタリア文学を考えれば、それぞれの時代の文学が社会や政治に対して問題提起をしてきたことは、疑いない事実です。わたしのいまの専攻は戦争文学ですが、とくに日本敗戦後の文学は、映画と並んでこの世界の戦争観・戦争認識を構成する重要な役割を果たして来ました。夏目漱石や宮沢賢治の作品がいまなお親しまれているのは、そこに近現代の日本社会を捉え返す、大切な思考の痕跡が刻みこまれているからではないか。
 ですが、今回の新しい国語科の科目編成では、「論理国語」と「文学国語」が選択科目として対の関係に置かれることで、まるで「文学」が論理的ではないジャンルであるかのような印象が作られてしまっています。

 当然のことですが、「論理」と「文学」とが対立関係に置かれることじたいがおかしいこの二つは、決して排他的な関係にはないはずです。
 論理を欠いた「文学」など存在しません。その逆も同じです。いわゆる論説文や評論文がひとの心に響く力を持ち、ひとの身体を揺さぶるのは、そこに情熱や情動という「血」が通っているからではないでしょうか。そう考えれば、「現代の国語」や「論理国語」から、文学の文章を排除することがそもそもおかしい、ということになるはずです。

 もちろん、どの教材を・どのように取り扱うかは、最終的には現場の先生方の判断です。『解説』が規定する「文学」の概念がいかに偏ったものであろうと、現場の運用でより実質的・実際的なものに変えていくことは十分に可能でしょう。
 しかし、「文学国語」の問題はそれだけではない。わたしがとくに引っ掛かったのは、この科目が想定する授業の中身の部分です。

 この科目では、読み手の関心が得られるような、独創的で文学的な文章を創作するなどの指導事項、文学的文章について評価したりその解釈の多様性について考察したりして自分のものの見方、感じ方、考え方を深めるなどの指導事項を設けるとともに、課題を自ら設定して探究する指導事項を設けている。(『解説』179ページ)

 この科目が「論理国語」と対の関係に置かれてしまったがゆえに、「文学国語」は、たいへん重たい課題を背負わされてしまっています。「文学国語」でも、授業時間の20~30%を「書くこと」に充てることが求められています。
 しかし、それにしても、です。学校の授業で、「独創的な文学的文章を創作する」――。これがいかに困難なタスクであるか、想像するにあまりあります。しかも、これは高校国語科の授業として行われる。つまり、評価され、点数が付けられ、成績として記録されなければならない。それを、現場の先生方が担当することになるわけです。

 ただでさえ国語科は、他教科に比べ、個人の内面に触れる可能性が大きい教科です。「国語嫌い」の(元)生徒さんの中には、教室で意見を求められた際、自分なりに考えた意見を否定されたり、教員が求める答えの枠組みに合わないとしてスルーされてしまったりした経験が心の傷となって残ってしまった、という方もいるのではないでしょうか。 
 この「文学国語」は、小説や詩や短歌や俳句を「創作」することが求められます。どれを「よい作品」とし、どれを「そうではない作品」とするか。低い評価しか与えられなかった生徒の動機付けやフォローをどうするのか。「よい作品」を評価する尺度が一つではないことを考えれば、評価の公平性をどのように担保するのか。そもそも必ずしもプロの創作家を目指しているわけではない生徒たちが提出した作品を、教員が評価して点数化することが、「文学」の教育として適切なのか――。疑問は山積するばかりです。 

 もちろん、この「文学国語」の中身として示された例には、さまざまな工夫も見て取れます。『解説』では、「文学国語」で行われる活動の例として、「自由に発想したり評論を参考にしたりして、小説や詩歌などを創作し、批評し合う活動」(193ページ)のほか、「古典を題材として小説を書くなど、翻案作品を創作する活動」(194ページ)、「グループで同じ題材を書き継いで一つの作品をつくるなど、共同で作品制作に取り組む活動」(195ページ)、さらには「演劇や映画の作品と基になった作品とを比較して、批評文や紹介文をまとめる活動」(204ページ)や、「テーマを立てて詩文を集め、アンソロジーを作成し発表し合い、互いに批評する活動」(205ページ)などが挙げられています。

 わたし個人として言えば、とくに後半3つの活動は、大学の授業でも取り組んでみたい興味深いアプローチだと思います。ですが、いまの高校現場に、こうした新しい取り組みを始めるだけのリソースがあるでしょうか? 
 生徒たちは、他教科・他科目の勉強もしなければなりません。そもそも「創作」活動には、心身のゆとりが欠かせません。テーマが決まっているレポートや論文でも、相応の時間がかかるわけです。フィクションの物語について、自分なりに構想を練り、それを一定の表現にまで高めていくことは決して簡単なことではありません。また、アンソロジーを作成するというのは、とても魅力的な企てです。しかし、それをするためには、それ相応の蔵書数をそなえた図書館施設が欠かせない。もっといえば、「詩文」を集めた「アンソロジー」を作るだけの知識を、学校教育国語科は、生徒たちに与えるのでしょうか?

 こうして考えてみれば、よほどうまく年間の計画を設計しておかないと、「文学国語」の授業内容で2年間、4単位を充足させることは難しい。その意気込みはよしとしたとしても、それを可能にする条件や手だてが、現在の高校には明らかに不足しています。この科目は実験的で興味深い内容も含むが、設置するにはリスクが高すぎる――。現実的には、ほとんどの高校が、そのような判断をするのではないかと思います。
 このノート「1」で、選択科目としては、まず間違いなく「文学国語」ではなく「論理国語」が選ばれるはずだとわたしが述べたのは、「文学国語」が、現場の先生方に過大な負担を与えるだろうことが、火を見るより明らかだと考えたからでもあります。

(続く)

#教育 #国語科 #新学習指導要領