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高等学校国語科が大きく変えられようとしています(7)

 では、新しい国語科は、日本語の文化や伝統を軽視しているのか? ――おそらく、そうしたありうべき批判に対応すべく作られたのが、科目「言語文化」だと思います。

 この科目は、「国際社会に対する理解を深めるとともに、自らのアイデンティティーを見極め、我が国の一員として責任と自覚を深めること」「先人が築き上げてきた伝統と文化を尊重し、豊かな感性や情緒を養い、我が国の言語文化に対する幅広い知識や教養を活用する資質・能力を育成」することを目指すものと定義されたうえで、「上代から近現代に受け継がれてきた我が国の言語文化への理解を深めることに主眼を置」くもの、とされています(『解説』110ページ)。日本文学史でいう「上代」は『万葉集』の時代のことですから、『万葉集』の時代から現代に至るまで、この科目は、相当に広い守備範囲を持つことになります

 先に引いた松下氏も述べていますが、もともとPISA調査は国際比較が目的ですから、日本の「国語科」の教育内容とは必ずしも重ならないところがあります。というわけで、「日本人」としてのナショナルな伝統・文化にかかわる内容は、(一見中立的な名称にも見える)「言語文化」という科目で取り扱われることになります。
 
 ところで、新しい指導要領が提示する「国語科」への誤解として、「古典分野は大して影響を受けないのではないか」というものがありますが、必ずしもそうではありません。
 例えば、現行の「国語総合」4単位は、実際の運用としては(主に「進学校」とされる学校を中心に)現代文分野、古典分野と担当教員が分けられる場合も多くあります。
 しかし、科目「言語文化」が想定している標準的な授業時間は、以下のようなものです。

   書くこと        5~10単位時間程度
   読むこと(古典)   40~45単位時間程度
   読むこと(近代以降の文章)20単位時間程度

 ありていに言えば、「言語文化」は、現行の「国語総合」を半分の時間に押し込めたものです。ここでいう「古典」には漢文も含みますから、つまりは「近代以降の文章」と古文・漢文とを、おおよそ1:1:1の割合で扱うことが求められている
 加えて、ここでいう「近代的な文章」には、「我が国の伝統や文化に関する近代以降の論理的な文章や古典に関連する近代以降の文学的な文章」を取り上げること、という縛りもかけられています(『解説』137ページ)。おそらく、芥川龍之介の小説『羅生門』や『芋粥』などが想定されていると考えられます。

 『解説』は、こうした措置を、中教審答申の問題提起に応じたものだと述べています。

 その際、我が国の伝統と文化に関する近代以降の論理的な文章や古典に関連する近代以降の文学的文章を活用するなどして、我が国の言語文化への理解を深めるよう指導を工夫するとは、近代以降の文章に関する指導の際には、我が国の伝統と文化に関する近代以降の論理的な文章や古典に関連する近代以降の文学的文章を活用するなどして、我が国の言語文化への理解を深めるよう指導を工夫することを指している。これは、答申で指摘された「古典の学習について、日本人として大切にしてきた言語文化を積極的に享受して社会や自分との関わりの中でそれらを生かしていくという観点が弱く、学習意欲が高まらない」という課題の解決を図るための工夫であり、古典のみならず、近現代まで受け継がれている我が国の言語文化を享受・発展・創造させ、言語文化の担い手としての自覚をもつことを目指すものである。(『解説』137-138ページ)

 他の教科・科目と同様、「古典」が得意ではない生徒たちは確かにいます。しかし、素朴な疑問なのですが、この新しい国語科が実施されれば、確実に古典の授業時数は減るわけです(『解説』には、「古典の原文のみを重視することのないよう配慮が必要である」との文言も見られます)。取り扱う時間を削っておいて、なお「我が国の言語文化への理解を深めるよう指導」することは、どうすれば可能になるのでしょうか
 古典の現代語訳や、古典にインスパイアされた作品が多く書かれていることは事実です。中には、「名作」として高い評価を得ている作品も少なくない。しかし、それらはあくまで現在の作品であり、近代・現代の解釈で書かれたものです。入口として親しみを持ってもらうという意味では大切かも知れませんが、果たしてそのことが「上代から近現代に受け継がれてきた我が国の言語文化への理解を深める」ことになるのかは、はなはだ疑問だと言わざるを得ない。結局のところ、うわべだけの・表層的な指摘に終始することになってしまうのではないか、とわたしは危惧します。

 新しい国語科には、いくつかの異なる「顔」があります。グローバル資本主義にとって有用な、国際的な教育標準への適合を意識した面と、いわゆる現在の経済界=企業人の要求要望に応じた面、そして、「日本人」としてのナショナル・アイデンティティを特定の方向性で組織していこうとする面。こうしたいくつもの顔が、それぞれの方向を向きながら、互いに葛藤しひしめきあうことで、さまざまな軋みや矛盾が生まれてしまっているようにわたしには感じられます。
 教育水準の国際比較、現代のグローバル資本主義への対応を基軸に置きながら、それがもたらすだろうひずみを、表層的で観念的なナショナリズムのイメージによって上書きしていく――(注5)。なんだか、どこかで聞いたような話ではあります。ですが、どうやら新しい国語科の方向性は、こうした路線の上にあることは確実なようです。

(注5)中央教育審議会での検討段階、「国語ワーキンググループ」の議論の中では、「伝統文化に関する学習の改善」として、「発達段階によっては、文法的な理解を図る前に、古典の表現に対する言語表現を育てていくことが古典学習のみならず実社会・実生活において生きて働く国語の能力の基盤となる。そのためには、小学校低学年から、昔話や神話、伝承などを含む古典の音読や暗唱、古典に関連する遊びなどを中心に、古典に親しんだり、楽しんだり、表現を味わったりする学習を推進することが重要である」という文言があります(中央教育審議会初等中等教育文化会教育課程部会国語WG「国語ワーキンググループにおける審議の取りまとめ」2016年8月26日)。ここでいう「神話」が、いったいどのような物語を指しているのか。わたしはとても気になります。 

(続く)

#教育 #国語科 #新学習指導要領