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「名言系」を読むよりも体験の方が美しい

昔から文章が好きだ。文学的なことはよくわからないけど、小説も哲学も科学の本も好きだった。

思春期に入り、いろいろと考えたり、たまにそれらしく厨二病に片足を(いや両足か?)突っ込んでいるうちに「幸せになる人の習慣」だとか「善い生き方」だとか「成功する道」的な本を読むようになった。社会人になった今でも、困ったときには頼ってしまう。

だけど、本に書いてあることを意識して過ごしたとして、現実的に私は成功してもいなくて善い人間でもない。それって意識が足りないのだろうか?

悩みごとを誰かに相談したとき、逆に誰かから悩みを相談されたとき、人と人がその問題について一緒に考えるわけだけど、回答の「重み」に違いがあるのをはっきりと感じることがある。

その回答がその人の経験によって編み出されたものなのかどうか。これが回答の重みに影響しているのではないか。

一方、社会一般的にそうだと言われているから、テレビやSNSでそう言われているから、などが元になった回答にはどうしても重みがない。自分に置き換えても、こういう回答をしているときは「あんまり役に立ちそうにないな〜」と思う。思うけれど、ない頭から絞り出しているので許してほしい。

人生の困りごとに役立つ「重みのある知識」って、教養とか賢さとか聡明さとかを言うのかもしれない。単に記憶力がいい、勉強ができるというのではなくて、生き抜く力みたいな知恵。

それって、本を読んでどうにかするものではなくて、体験から生まれるんじゃないか?と思い始めてきた。名言系の本とか、成功とは、とかそういうのを読んだとして、意識するだけじゃなくて、何か出来事が発生してそれを全力で体験したかどうか?そこから何か導き出せているか?なんじゃないか。

私はよくモノを考える方だと思うけど、やっぱり言葉はまだまだ軽薄だと思う。それって体験が不足しているんじゃないだろうか。いっぱしに言葉はたくさん知っているかもしれないけど、それよりも、真に迫った一つの言葉の方が美しいと私は思う。

名言系の本や、成功本を全面否定したいわけではない。使い方が間違っていたかもしれないと思っている。こういう本のいいところは、出会ったことのない未知なる問題に対してヒントを与えてくれたり、答え合わせをしてくれることだ。かつて親子関係に悩んでいて、「毒親」の概念を知った時、霧が晴れるような感覚になったことがある。そういう時にとても効果的だ。他にも、「そういうことだったのか」という理解のための答え合わせにも向いている。

体験をおざなりにしてはいけないんだろう。自分の身に降りかかっていることや、自分の内側にあるものをしっかり見ることがきっと大切だ。

自分から出る言葉は別に整っていなくてよくて(いや読みやすい方が楽だけど、整えるのはそれが得意な誰かがやってくれるし)、自分の肉体や精神から発せられたかどうかが価値があるんじゃないかな。

だからくどくど講釈を垂れる人より、自分の人生を生きている人のことをみんな好きになるんだろうし。だから自分の経験を大切にしたいな、と思った。


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