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トクさんが残してくれたもの

「すごいです。釜石が、釜石市の市内が、すごい土煙におおわれています」

カメラが捉えた、釜石を襲った東日本大震災の巨大津波。

撮影したのはトクさんこと徳田憲亮さん、NHK釜石支局の通信員だ。

私がトクさんのいる釜石に転勤してきたのは、震災から10年余り経った2021年11月。初任地の沖縄から縁もゆかりもない東北の岩手に来た、文字どおり右も左もわからない不安だらけの私を迎えてくれた。

取材先からも信頼され、私に多くの人を紹介してくれたトクさん。

でも、そのトクさんはもういない。

38分間

トクさんは大分県出身。岩手大学工学部に進学したが、まじめな学生ではなかったようだ。在学中は演劇に熱中し、単位が足りず6年かけても卒業できなかった。

そしてその頃から、NHK盛岡局でカメラマン補助(ライトマン)として働くようになり、のちにスタッフカメラマンとなった。

転機は2010年秋。岩手県沿岸の釜石支局(当時は釜石報道室)の民間通信員が高齢のため勇退することになり、その後継者となったのがトクさんだった。

通信員はみずからカメラをまわして地元の情報を取材。原稿も書いて時にはリポート制作もする。最初は戸惑うことも多かったという。

ようやく仕事に慣れてきた半年後の2011年3月11日。

あの巨大地震が発生した。

地震が起きた午後2時46分には支局の中にいたというトクさん。まず近くにある港の水門に向かった。すでに水門は閉じられていたため、高台の避難場所でカメラを回した。

大津波警報を知らせるサイレンが鳴り響く中、不安そうに海のほうを見つめる人たちがいる。

地震発生のおよそ30分後、カメラは津波が港の堤防を越え始める様子を捉える。

トクさんが港の様子を語り始めた。

「ただいま、港の境をこえて水が市内の方に入り込んできています」

船や漁具が次々と流れ込んでくる。

「15時21分。釜石の港の様子です。港を超えて水が市内の方に入り込んできています」

勢いを増した津波は轟音を立てて町を破壊していく。

「すごいです。釜石が、釜石市の市内が、すごい土煙におおわれています。港の水門をこえて、今、水が釜石市内に流れ込んできています」

津波は、住宅ごと押し流し、町は土煙に包まれていった。

トクさんは、いつもの物腰の柔らかいゆっくりとした口調ではなく、緊迫した声で叫んでいた。

「すごいです、もう、なんていうかもう家ごと流されています。すごい津波の力です」

記録された映像は「38分」。

変わり果てた町を呆然とした表情で見つめる人。

建物の屋上に逃れた人。

家を押し流され悲鳴をあげる人。

映像は、翌日には全国に向け放送された。

さらにその1年後には、トクさんが撮影した映像をもとに、そこに映っていた人々のその後を記録したNHKスペシャル『38分間~巨大津波 いのちの記録~』が放送された。

最後まで復興を見届けたい

震災後、釜石支局には通信員に加え職員の記者が配属されるようになった。トクさんは転勤してくる若い記者とともに被災地の取材をするようになる。

私も釜石赴任後の取材はほとんどがトクさんとの二人三脚。沖縄から異動してきたばかりで、右も左もわからない私のどんな頼みもトクさんはいやな顔ひとつせずに聞いてくれた。

取材先にも信頼されていて、多くの人を紹介してくれた。

トクさんは、缶コーヒーとたばこをこよなく愛し、目を細めてほほえむ姿が印象的だ。

一方で口数はあまり多い方ではなかった。ふだんどんなことを考えて暮らしているのか、一度だけ聞いたことがあった。

「震災のあと、どんな思いで釜石に身を置き続けているんですか」

たばこの煙を深く吐いて、言った。

「そうだなぁ。あの津波を撮ってしまったからなぁ。最後まで復興を見届けないとなぁ」

私はそれ以上、聞くことができなかった。自分にはわからない特別な思いがあるのだと思った。

なぜ、そんなことを聞いたのか。

実はその頃、私は記者としてどう震災に向き合えばよいかわからず行き詰まっていた。

私は震災当時の状況も知らないし、これまでの復興の歩みも知らない。

そんな自分が、大変な経験をした人たちに、たとえ取材とはいえ「震災のときの話を聞かせてほしい」とお願いするのは、触れて欲しくない過去をほじくり返そうとしているように思われてしまうのではないか、と思うこともあった。

悩みを打ち明けた時、トクさんは言った。

「難しいこと考えずに、君が見たもの感じたものをそのまま伝えればいいんじゃないか」

明るく笑い飛ばしてくれた。

別れ

去年10月、トクさんは「胃のあたりが痛む」といって病院へ。

がんと診断され、治療のため実家のある大分で療養することになった。

釜石を離れることになった日、トクさんを見送りたいという取材先の人が、釜石駅に集まった。

「必ず、釜石に戻ってきます」

そう力強く言い、トクさんは集まった人々の手を握った。

「トクさんが帰ってきてくれるまでは私が釜石を守ろう」、私は強く思った。

しかし、1週間ほどして届いたのは“危篤”の知らせ。がんが治療できないほどまで進行していたため、大分では静養するしかなかったという。目の前が真っ暗になった。

気づけば、私は釜石市内で美容院を営む片桐浩一さんの元に向かっていた。

片桐さんは、トクさんとは以前からの知り合い。震災の津波で妻と当時おなかの中にいた生まれて来るはずだった子どもを亡くし、その悲しみは今も癒えることはないという。

私はトクさんとともにそんな片桐さんの心の支えになっている歌を紹介するという企画を提案。

その取材が終わり、トクさんが最初に体調不良を訴える数日前、片桐さんは街でばったり会ったトクさんと2人きりで1時間以上話し込む機会があったという。

片桐浩一さん

片桐浩一さん
その時間がすごくいい時間で。特別なことを話したわけでもないんだけど、俺は、この人とずっと、おじいちゃんになっても一緒に酒飲んで仲良くしているんだろうなって思ったんだよね。

危篤の知らせを聞き、片桐さんは肩を落として言った。

片桐浩一さん
俺がずっと一緒にいたいと思った人はどうしてみんな、俺の前からいなくなっちゃうんだろう。何か、とんでもない奇跡でも起きねえかな。

トクさんは大分に戻ってから、みるみるうちに弱っていった。

もともと“痩せの大食い”だったトクさん。

私の知るトクさんは、ラーメン大盛りにチャーハンをさらに追加し、おいしそうに平らげる姿だった。

しかし、実家に戻ったトクさんは、家族が食事をする様子を「おいしそうだなあ」と目を細めて眺めながらも、母親や妹が作ったおかゆにはほとんど手を付けなかったという。
 
その後、受け入れてくれる病院を数日かけて探し、ようやく入院できたときには、座っていることすらままならなかった。

主治医には「こんなに弱り切って、よく釜石からここまで帰って来ることができましたね」と驚かれたそうだ。

まずは体力の回復を待ってから、抗がん剤治療などを進めていく方針となったものの、トクさんはどんどん衰弱していった。
 
妹の河野有樹さんは、その様子をこう振り返る。

河野有樹さん
兄は痛みを訴えることはなかったのですが、体をもぞもぞと左右に動かし
て、苦しそうにしていました。本当はとても痛かったんだと思います。

11月10日、昼。有樹さんが仕事を抜けて病室に訪れると、トクさんは、うつらうつらしながらも有樹さんに気づき、「おう。いつ来たん?」とほほえんだ。

しかし、それからだんだんと意識が混濁していった。

有樹さんはずっとトクさんの手を握っていたが、脈がどんどん弱くなり、呼吸も浅くなっていった。

そして、18時25分。トクさんの呼吸が止まった。

あっという間の別れだった。53歳だった。

河野有樹さん
父も同じ病気で亡くなったので、これから兄も1年くらい、闘病生活が続くんだろうと覚悟していたのですが、あまりに早すぎる別れで、整理が付きませんでした。「いまのが最後の呼吸です」と医師に言われたとき、「嘘でしょ」という感じで。未だに「いや、兄はまだ釜石で仕事しているんじゃないか」と思ってしまう自分がいます。

どうしても知りたい

ショックのあまり、私は何をする気も起きなかった。

仕事は続けていたが、いつも一緒にいるのが当たり前で、いつも支えてくれたトクさんはもういない。そのことを受け入れることができなかった。

「もっといろいろな話を聞いておけばよかった」
「もっと一緒に仕事をしたかった」

トクさんの知り合いや取材先などに亡くなったことを伝えるたびに涙がこみ上げてきた。

これまで何を考え、どんな思いで被災地・釜石の取材を続けていたのか。

トクさんが取材に関わったNHKスペシャル『38分間~巨大津波 いのちの記録~』。

そこでトクさんが取材した人たちに会いに行ってみた。

『38分間』で生まれたつながり

最初に会うことができたのは吉田幾子さん。吉田さんは、夫の茂さんをあの日の津波で亡くしていた。

吉田幾子さん

トクさんが撮影した38分間の映像の中には、高台ではなく港に向かって歩く茂さんの姿が映っていた。

有志の防災係をしていた茂さんは、誰に言われたからでもなく、みずから水門を閉めに向かい津波に襲われたという。幾子さんは当時の思いを振り返りながら話してくれた。

吉田幾子さん
夫は正義感の強い人でした。なぜ逃げずに水門を閉めに行ったのかと思うこともあります。けども、夫の最後の姿を撮ってくれたトクさんには感謝しかないです。

トクさんは震災10年となった2年前も再び吉田さんを取材した。夫の最後の姿を孫に伝えたいと願っていた吉田さんの思いを知り、トクさんは吉田さんが『38分間』の映像を孫と一緒に見る姿を取材している。吉田さんはトクさんとは取材以外でも交流があったと話してくれた。

吉田幾子さん
忙しい人なはずなのに、私が頼んだことを必ずやってくれて、頼んだものを私の家の玄関に入れてくれました。そうすると私もお礼に缶ビールを買って、支局の入口に置いていたんです。本当に、あんな優しい人はいなかったです。惜しい人を亡くした…。

さらにもう1人、加藤榮さんに会うことができた。

釜石市内で夫と老舗の金物屋を営んでいた加藤さんは、津波で夫の鉄三郎さんを亡くした。鉄三郎さんは榮さんと障害のある息子を先に高台に逃し、自分は店のシャッターを閉める作業をしている間に津波に襲われたと見られている。

加藤榮さん

加藤榮さん
震災から数年間の間は、夫が亡くなったという実感が全くありませんでした。考えることを避けてきたというのが正しいかも知れません。(番組の)取材は、夫を思い出し、ちゃんと向き合うという意味で、私にとっても必要な作業だったと思う。

鉄三郎さんが亡くなっていたことがわかったとき、トクさんたちが番組のクルー名で渡した香典袋を、榮さんはいまも大切に持っている。その香典をトクさんの実家にお返ししたいと話してくれた。

加藤榮さん
震災のころは、たくさんマスコミが来ていたものだけど、トクさんはああいう人たちの中では珍しく、余計なことも言わないし控えめでした。いい人だった。まだ若いのに亡くなるなんて。体の調子が悪かったなんてちっとも知らなかった。もっと声をかけてあげればよかった。

罪悪感

トクさんはどんな思いで、取材相手に向き合ってきたのだろうか。

『38分間』の資料の中に、トクさんが番組放送後、NHKの映像取材関係者向けの冊子に書いた取材記を見つけた。そこにはトクさんが胸の内に抱えていた苦悩が書かれていた。

あの日、高台で撮影を始めたトクさん。

津波が来る直前に、近くに居合わせた男性にインタビューをしていた。

そのインタビューの後、男性は母親を助けようと高台から自宅に戻り津波に流されてしまったという。

あとになってそのことを知り、トクさんは罪悪感にさいなまれたという。

瞬間的に自分のせいだと思った、思ってしまった。自分がインタビューなんて聞かなければ、その人は津波の来る前に自宅に帰り、母親を連れてまた避難場所に戻ってこれたんじゃないかと怖くなった。いや、なにもインタビューを拒否する人を無理矢理引き止めて聞いたわけじゃないんだしと言い訳してみるものの、心の中のどこかに後味の悪い澱のようなものが残る。無視しようと思えば出来るんだけど、ふとした拍子に思い出して、なんとなく重くなる。何より重かったのは、釜石に住み続けるかぎり、いつかどこかで亡くなられた方のご家族や友人に、偶然出会ってしまうかもしれないことでした。そのとき、おまえのせいだとなじられたらどうしよう?そんなことをモンモンと考えながら、私は震災後の夏から秋を過ごしました。

取材記より

『38分間』でトクさんとともに取材した当時のディレクター、石田望さんに当時のトクさんの様子を聞いた。

石田望さん
当時トクさんは相当悩んでいた。その男性の遺族とやりとりをする中でも、なんと声をかけていいのか、非常に迷っているような感じでした。先方は「自分のせいだなんて、そんなこと思うな」と言ってくださっていたんですが、それでも罪悪感から逃れるのは無理だったようです。だからトクさんは、番組のあとも定期的にその人たちの元に通うことはどうしてもつらくて、なかなかできていなかったんじゃないかと思うんです。

トクさんの心に刻み込まれた“罪悪感”。それがトクさんと被災地の人々を結びつけていたのだろうか。

こぼれ落ちてしまうもの

トクさんが亡くなった1か月後。住んでいた部屋を引き払うため家族が釜石を訪れた。一緒に荷物整理などを手伝った時、トクさんが書いたある舞台の脚本を見つけた。大学時代に演劇に心酔し、かつては役者としても舞台に立ち、釜石に住むようになってからも細々と脚本を書いていたという。

その中のひとつに、被災地を題材にしたものがあった。

タイトルは『雨女』。

手書きで原稿用紙56枚分。震災の翌年には演劇仲間によって上演されたという。

中には避難所暮らしをする女性たちのリアルな姿が生き生きと描かれている。

舞台は、避難所で下着などの洗濯物をおおっぴらに干せないという女性たちが、洗濯物を干しに来る場所。誰かが洗濯物を干し始めると必ず雨が降ることから、誰が“雨女”なのか、ただただ言い争いを続けていく。

コミカルに進んでいく物語のところどころに、震災によって変わってしまった日常が何気なく織り込まれていた。

例えば、登場人物の女性たちの「自分は雨女じゃない」と主張する台詞。

「あたしが何日、全壊した自宅の後片づけに通ったと思ってんの?そのうちたった三日くらい雨が降ったからって何?」

その後、女性たちは口論の末、自分こそが“雨女”かもしれないと言い出していく。

「旦那がいまだに行方不明ってだけじゃ不幸が足りない?それとも、不幸な女には雨がよく似合うってか?」

津波が来る直前に生徒を家に帰してしまった女性教師。津波が来たときは雪が雨に変わっていたと話し、こう続ける。

「私、なんであの子とお母さんを帰しちゃったんだろう。三十分、いいえあと十五分、学校にとどまっていたらって…。雨をみるたび考える。それでも、私は雨女」

震災が人々の心や暮らしに大きな影を残した現実を表したこの脚本を読んで、私はトクさんが何を思って釜石を見つめてきたのか少しばかりわかったような気がした。

多くの犠牲者が出て未曾有の大災害と言われた東日本大震災を伝えていく。

それが“報道”の役割だとしても、それだけでは、どうしてもこぼれ落ちてしまうものがある。

それこそがトクさんが脚本の中で描いた、そこで生きている一人ひとりの気持ちであり、“日常”の姿だったのではないだろうか。

多くの人が、震災で大事な人や生まれ育った家を失った。

それでも、生き残った人たちには必ず、明日は来る。

常に悲嘆に暮れているわけでもなく、笑ったり泣いたり怒ったり、くだらないことでけんかしたりしながら、ただただその日を生きている…。

震災によって生まれた“罪悪感”を抱えながらもトクさんは、被災地を特別な場所として捉えるのではなく、そこで生きている人たちのありのままの姿を見つめ伝えていこうとしていたのではないだろうか。

「難しいこと考えずに、君が見たもの感じたものをそのまま伝えればいいんじゃないか」

 あの時のように、トクさんが語りかけているような気がした。

誠実に仕事をする

『38分間』の取材記をトクさんはこう締めくくっている。

「誰に許されて、あるいは何の権利があって、私はこの人の悲しみや苦しみを晒しものにするのだろう?」というような思いは、多かれ少なかれ被災地にいるかぎり、どこに行ってもついて来ました。どうやら、その思いというか罪悪感みたいなものは、大げさに言えば報道というものが本質的に抱えこんでいるもののようです。
(中略)
いま思うのは、せめて誠実に仕事をしようと、当たり前と言えば当たり前のことです。テレビというものが、どうやら残酷な面を持っていることも事実だし、そのことについて思い悩むことがこれからもあるのでしょう。しかし、私は撮りはじめてしまった。今さら降りたりするのは、今まで撮らせてもらった人に申し訳ないとも思います。それが仕事というなら、せめて全うしろと言われているような気もします。釜石を撮ったんだったら、最後まで見てけと。今は、そう思ってます。

取材記より

迷いを抱えながらもトクさんは、小さな何気ない日常を記録に残していこうと取材を積み重ねた。

先入観のない、素直な目線で、人々が生きている証を記録すること。

トクさんは私に大切なことを教えてくれた。

そして「次はおまえに託した」。

そう、トクさんに言われているような気がしてならない。

盛岡放送局釜石支局・村田理帆記者

村田記者はこんな取材をしてきた

徳田さんが取材に関わった番組はこちら

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