神戸の映像はまだか!阪神・淡路大震災 空白の時間帯に現場で起きていたこと
「ご覧いただいている映像は、地震が起きたときの神戸放送局の放送部の様子です」
画面全体が激しく揺れている。机も椅子も棚も波打つようにスライドしていく。
「大きな揺れが繰り返し襲っているようです。いろいろなものが棚から落ちたり机から落ちたりしています」
放送局の泊まり当番で仮眠中の記者に向かって本棚が倒れてくる。
記者が間一髪に飛び起きると、次の瞬間、周りが真っ暗になる。停電だ。
直後、記者は電話へと飛びついた。
1995年1月17日午前7時に放送された、朝の全国ニュース「おはよう日本」。
震度7を観測した阪神・淡路大震災の揺れのすさまじさが初めてテレビで全国に伝えられた瞬間だった。
地震発生からすでに1時間あまりが経っていた。あの日、いったい現場で何が起きていたのだろうか。
錯綜する情報 混乱する現場
午前5時46分。阪神・淡路大震災が発生。
NHK大阪放送局がテレビとラジオで放送を開始したのは、地震の発生から2分40秒後のことだった。
まだ震源地や震度などの情報がない状態で放送はスタートした。
震度情報が入ってきたが、テレビの画面には「神戸の震度」が表示されていない。
「画面には表示されていませんが、震度6が神戸です」
(※その後の気象庁の観測で震度7に)
大阪放送局のアナウンサーが落ちついて各地の震度を伝えていく、すると今度は余震が襲ってくる。
その後も何度も何度も余震が繰り返される。
放送を出しているのは大阪放送局。大阪の震度は4だった。
大阪放送局4階の報道フロアーで、記者たちが地震に気付き取材に飛び出していく映像が繰り返し放送される。
しかし、揺れがひどかった神戸の情報が入ってこない。
神戸は大丈夫なのか。
神戸の初報はアナウンサーの電話リポート
地震発生から18分たった、午前6時4分。
神戸の状況についての電話リポートの準備が整い、アナウンサーが呼びかけた。
「震度6を記録した神戸ですが。呼びかけます。神戸どうぞ」
電話の相手は、休暇で神戸の実家にたまたま帰省していたアナウンサーの住田功一だった。住田は当時、おはよう日本でニュースを担当していて、冷静に現地の現状を伝えていく。
「神戸の灘区の実家にいたのですけれども、いきなりガタガタガタガタと下から突き上げるような揺れがおきまして、窓ガラスなどがカタカタと揺れました。およそ40秒以上揺れが続いたと思います」
「一斉に家族が飛び起きまして、2分おきくらいに余震が来ております」
地震の影響で、住田の実家の固定電話は通じなかった。住田は隣の家の電話を借りて、電話リポートを行った。
「地震と同時に停電になったんですね、現場は真っ暗で、懐中電灯で明かりをとっているような状況です。近所の人と大丈夫ですかと声を掛け合って、棚から落ちたものを片付けている状況です」
「大きな本棚でとても1人では動かせそうにない。両手を広げたような幅ですが、それが30センチほど前に動いてしまった。そういう状況です」
マニュアルに沿って伝えたけれど・・・
当時のマニュアルでは、現場リポートの場合、アナウンサーは自分がその場で確認できたことを伝えることになっていた。
住田の語り口は冷静で、状況を淡々と伝えていた。
しかし、後に振り返って住田はこの時の電話リポートを反省している。
「マニュアルに沿って、自分が確認できることだけを伝えたことによって、視聴者に実際より被害が小さいという印象を植え付けてしまったのではないか。自分の周りはこのくらいの被害だが、よりもっと被害が大きい場所があるかもしれないというニュアンスを含めるべきだったのではないか」
住田は今でも悔やんでいるという。
神戸放送局も被災していた
住田の電話リポートの後、テレビには大阪市内のコンビニで、棚からものが落ちている様子などが伝えられる。
しかし、放送開始から1時間余り、神戸の被害の映像は全く放送されていなかった。
そんな中、神戸から必死に映像を届けようとしていたのが、神戸放送局で映像編集を担当していた西坂克也だった。
西坂は、震災発生時、放送局から4キロほど離れた自宅マンションにいた。
5階の部屋の窓から放り出されるくらいの激しい揺れに見舞われ、テレビが端から端まで5メートルくらい飛んでいった。
これはまずい。なんとか放送局に駆けつけなければ。
西坂は靴ひもも結ばずに外に飛び出ると、同じマンションに住んでいた同僚4人とともにヒッチハイクするなどして、神戸放送局に駆けつけた。
到着したのは午前6時15分。
地震の影響で、局舎の外壁のあちこちにひびが入り、窓ガラスはほとんど割れていた。
建物の中に入っても、棚や機材などが散乱していて足の踏み場もない状態だった。
それでも映像を送らねば
西坂がまず確認に向かったのは、「スキップバックレコーダー」だった。
地震の揺れの瞬間の映像を自動的に記録するための装置で、地震が起きると自動で録画を始め、メモリーに蓄積された10秒前からの動画が収録される。
この2年前、1993年の北海道釧路沖地震をきっかけに開発されたこの装置。
神戸放送局には配備されたばかりだった。
きちんと収録されているのか。
西坂が映像を確認すると、スキップバックレコーダーには、神戸を襲った激しい揺れの様子が、しっかり記録されていた。
衝撃的な映像だった。恐怖を感じた。この映像自体がまさに神戸の惨状を伝えている。
神戸はこんな状況なんだ。こんなにすごい揺れで、これはただじゃすまない。
一分一秒でも早くこの地震の惨状をテレビで伝えなければ。
映像を送るためには、スキップバックレコーダーのテープを放送用のテープにダビングしなければならない。
しかし、地震の影響でケーブルはちぎれていて、ダビング用の機材がうまく動かない。
西坂は使えそうな代わりのケーブルをかき集めて、なんとか簡易的なダビングシステムを組みなおしたのは、午前6時40分ごろ。
通常は音声のケーブルもつないで、映像と音声を同時に大阪放送局に送ることになっていたが、西坂は、音声を後回しにする決断をした。一刻も早くこの映像を送ることを優先したかった。
そして午前7時から全国ニュースが開始。
午前7時1分。
西坂が送った激しく揺れる神戸放送局内の映像がテレビで流れる。
阪神・淡路大震災の揺れがどれほど激しかったか、衝撃が伝わった瞬間だった。
渋滞の中 ヘリポートへ
スキップバックレコーダーの映像がテレビで流れていたちょうどその頃。
カメラマンの片山辰雄はヘリコプターに乗るため、大阪放送局から兵庫県伊丹市のヘリポートへ向かっていた。
高速道路は使えなくなっているという話もあったので、一般道で向かったがひどい渋滞でなかなか進まない。もどかしい。
午前7時50分。
通常の3倍近い時間をかけてヘリポートに到着した。
「震源地の淡路島へ向かおう」
局内からは神戸方面に向かってくれとだけ指示が出ていたが、被害が大きいのは震源地だろうと片山は考えた。
午前8時5分。発災から2時間余りたってようやくヘリが離陸した。
飛び立ってすぐに、片山は想像を絶する光景を目の当たりにすることになる。
ヘリから見えた壮絶な光景
当時、片山は入局して13年目。ヘリ取材も経験豊富だった。
大阪放送局では、普段からカメラマンがヘリでのリポートを担当していた。
ただ、これまでのヘリのリポートは、事前に取材し、用意した原稿を読み上げるスタイル。
しかし、今回は違った。
ヘリが飛び立った瞬間、見えてきたのは被災現場そのものだった。すぐに生中継をするように無線で指示が飛んでくる。
「生(中継)?生って言っているんですか?もう来ますよ」
離陸して10分も経たない午前8時14分。
片山のヘリからのリポートの生中継が始まった。
「回していきます。今から撮ります。現場阪神高速の上空だと思われます。周りに火災の煙が出ています」
最初の中継は、西宮市の高速道路上空からだった。
「高速道路の真ん中で、何か煙が出ています。道路2車線が下にずり落ちているようです。上空からでは何が燃えているか分かりません」
黒い煙に向かって、片山はカメラをズームアップしていく。
カメラが捉えたのは衝撃的な光景だった。
「煙の影からバスが見えてきています。前輪が落ちた橋げたの前へ、せり出しています」
高速道路の橋桁が落ちて、バスの前輪が宙に浮いた状況になっていた。ヘリはさらに神戸方面に向けて進んでいく。
午前8時24分。神戸市東灘区の上空にきたときのことだった。
それまで冷静だった片山の口調が、早口になる。
「これ収録して下さい。阪神高速がひっくり返っています」
「ちょうど、橋桁自体が、上り車線下り車線、ともに北側に倒れてしまった。そういう状況になっています。500メートル以上あるのではないでしょうか」
これまでの災害とはスケールが全く違うことが全国に伝わった瞬間だった。
詳しいことは分からない被災現場。でも自分に言えること、うそにならないことだけ伝えよう。そう片山は決めていた。
機内にある手のひらほどの小さなモニターに映る画面を見ながら、見えたものを順番に言葉にしていくだけで精一杯だった。
午前10時45分。
ヘリは長田区上空、大正筋商店街の近くを飛んでいた。大規模な火災が起きていた。
「神戸市長田区の上空です。煙がひどいのであまり見通しがききません。上空を飛んでおりましても、少しきなくさいにおいがしてきます」
「ちょうど画面の中央、火災が起きています。商店街かな、これ右下商店街ですよね」
一瞬、言葉を失うが、再び片山はリポートを続ける。
「商店街が火災を起こしています。商店街のアーケードが火災に遭っております。大変広い範囲で火災になっております」
当時はまだ携帯電話やインターネットも普及していない時代。日中は固定電話やファックスもつながりにくく、神戸で何が起きているのか、ほとんど分からない状況だった。
片山を乗せたヘリは給油を繰り返し、1月17日だけで5回フライト。取材時間は8時間以上に及び、被害を伝え続けた。
テレビで放送できないジレンマ
片山が上空から被災状況を撮影し続けていた頃、地上では・・・
最初に神戸の状況を電話でリポートしたアナウンサーの住田が、阪神高速道路の倒壊現場へと向かっていた。
ラジオから阪神高速道路が倒壊したという情報を聞いて、誰かが現場に向かわなければいけないと自分で判断した。
しかし地震によってひどい渋滞が起きていた。
現場に到着したのは午前11時頃。
自宅からは普段なら30分もかからない道のりだが、取材とヒッチハイクをしながら到着まで3時間もかかっていた。
住田は中継に備え、取材を始める。
取材ノートに被災状況をびっしりと書きなぐっていく。
トラック20台。乗用車2台が落下
3人の死亡
はしの支柱が山側にかたむいてとうかい
一刻も早く伝えなければ。
しかし、携帯電話はない。放送を出すためには、中継車と合流する必要があるが、交通事情がさらに悪化し、まだ現場に到着していない。
しかし、救助もほとんど来ていない、交通整理も行われていない。
こんなに大きな出来事が起きているのに、取材しても何も伝えられない。
住田は写真を撮り、被災状況をノートに書き続けながらもどかしい気持ちを抱えていた。
住田が中継車と合流し、現場からリポートできたのは、地震発生から10時間以上経過した午後4時を大きく回ってからのことだった。
「阪神高速道路が倒壊しています。支柱がここから見る限り16本倒れています。ちょうど右側、つまり山の手側に高速道路が倒れています。柱を見てください。コンクリートが弾けて支柱がなぎ倒されています」
あの日、情報伝達手段も交通手段も大きな被害を受ける中、現場ではそれぞれが自分の判断で動き、そしてもどかしい思いを抱えていた。
あれから28年
あれから28年。当時の教訓は今に受け継がれている。
カメラマンの片山が伝えたヘリで見えたものをそのまま生中継するスタイルは、阪神・淡路大震災から始まった。カメラマンの緊急対応のリポート訓練も行われるようになった。
片山は航空デスクなどを務め、次のカメラマンへと航空取材技術を引き継いだ。当時を振り返りこう話す。
「映像を見た人は、被害の状況を見ることでそれぞれ自分にできることを考えて救助に向かったと思う。映像で伝えるという事は非常に重要。だからこそ、思い込みを持たずに、起きていることを正確に、ちゃんと見つめる」
スキップバックレコーダーの映像を送った西坂は、今も編集の仕事を続けている。今でも当時の映像を見ると、地震が起きたときの記憶が鮮明によみがえるという。
「まさにあの時に起こったとんでもない揺れというのは、当時地震を経験した人間しか分からないものかもしれません。揺れの恐ろしさをストレートに伝えるこの映像を今後も伝えていかなければいけないし、より多くの人たちに見ていただいて、大きな地震はこんなに怖いということを身にしみて感じてほしい。そしてそれを防災につなげてほしいと思います」
アナウンサーの住田は「ラジオ深夜便」のアンカーとして今もNHKでの仕事を続けている。震災を知らない若い人たちにはこう伝えたいという。
「たくさんの手記や、体験している人がいるので、とにかく何が起きたかっていう事を謙虚にたくさん集めて知ってほしい。特に自分の働いている場所、学んでいる場所、住んでいる場所で何があったのか。謙虚に向き合って、知ってほしいと思います」
災害報道についての取材noteは他にも
話を聞いた人
坂本聡 神戸放送局 アナウンサー
2020年入局
「必ずまた大きな災害は起こる。そんな時にも今起きていることをきっちり受け止め、伝え、分析する、謙虚に情報に向き合うことを忘れてはならない」とアドバイスを頂きました。まだ経験の浅い私は、正直不安も覚えますが、災害が起きて最前線に立つ可能性は誰にでもあります。これからもいつか来る時のために準備し、謙虚に情報に向き合っていきます。
的場紫雲英 大阪放送局 カメラマン
2022年入局
私も研修を経て航空取材を行っていますが、事実を簡潔に言葉にして伝えるというのは想像以上に難しいと感じます。局内との交信、位置関係の把握、撮影、リポートなど考えることがいくつもあります。実際にあの光景を目の当たりにしたらどう対応できるだろうか考えます。何もできなくなるのではなく、映像の力を信じ、正確に伝えきるんだという使命感を持って、冷静に撮影したいです。そのためにも、ふだんから意識して訓練を重ね、日々取り組んでいこうと思います。
蓑輪幸彦 大阪放送局 映像編集
2010年入局
阪神・淡路大震災の時に私は小学校1年生で当時テレビで西坂さんが送った映像を見た記憶が強烈に残っています。「混乱した状況で次々と映像が入ってくる中、被害の状況を十分に伝えきることができたのかいまでも後悔が残っている」という西坂さんのことばが印象的でした。いまも私たちはニュースの中で当時の映像を使って、人々の証言や思いを何度も伝え続けていますが、その意味は将来の災害の被害を少しでも減らすためにあるのだということを改めて認識しました。