「幼稚園の地下シェルター」新人国際記者の私がウクライナで見た戦禍の国、日常のリアル
去年12月、国際部の提案会議に2本の取材提案を出した。
「ウクライナの兵士たちの心のケアの課題を探る」という提案と、もうひとつは私の前任地、福島県の子どもたちと、ウクライナの子どもたちとの手紙を通じた交流を取材するという内容だった。
取材提案を出したのはこれが初めて。
福島県から東京の国際部に異動して4か月あまり、国際情勢を3交代で24時間モニタリングする仕事にも慣れてきたが、海外の現場に行かずに情報だけで原稿を出し続けることに、何か違和感も抱くようになっていた。
だから現場に行って取材したい。
…という熱意がデスクたちに伝わったかどうか、提案は採用されて、初めてウクライナへ取材に行くことになった。
家族や友人はそれは心配した。首都や各都市にロシアのミサイル攻撃が相次ぐ場所に行くなんて、特に親にしてみれば気が気ではなかっただろう。
準備を進める間も、現場を取材したいという気持ちと、戦時下の国へ行く不安とがせめぎ合っていた。
ウクライナに滞在中は毎日取材ノートを書いて、そのとき感じた喜怒哀楽や疑問を記録した。この1か月に起きたこと、抱いた感情は、私のこれからの取材人生にも何か大きな意味を持つと思ったから。
■2月23日 ウクライナ入国
2月21日に出国して、計16時間ほどのフライトでポーランドに到着。そこから陸路で約11時間。
軍事侵攻開始から1年となる日の前日、2月23日に、私も含めた3人の取材クルーはウクライナに入った。
■2月24日 平穏なキーウ市内でミサイル警報は”日常”に
さっそくキーウ市内で、「軍事侵攻から1年」の街の様子を取材。ただ想像していたより街は平穏で、レストランや商店は通常営業していて、多くの人はふだん通りの生活を送っているように見えた。
ふだん通りではないのは、街のいたるところに軍服を着た人たちがいて、防空警報が頻繁に鳴り響くこと。
私たちには緊張が走る防空警報のサイレンも、キーウの市民たちはこの1年ですっかり慣れてしまった人が多いようで、慌てて避難する姿は見られなかった。
サイレンの音は1種類だが警報の中身には、「本当に危険が迫っている」ものから「一応念のため」のものまで、さまざまなようだ。
ウクライナではメッセージアプリの「テレグラム」の活用が進んでいて、政府による公式発表から、個人や民間団体が独自の情報源で発信するチャンネルまであって、市民はそれぞれチャンネルを選んで情報収集していた。
例えば警報が出ると、どのエリアが危険か、ミサイル攻撃なのか無人機による攻撃なのかなど、最新の情報が次々に流れてくる。不気味な音で警報が出たことを教えてくれるアプリもある。
警報が出るたびに市民たちは、落ち着いた様子で自分のスマートフォンで情報を確認してから行動していた。
市民の中には「通常と変わらない生活をすることが、ロシアに対する最大の抵抗だ」と話す人もいた。
軍事侵攻から1年がたち、ウクライナの人々はそれぞれの日常生活と折り合いを付けながら過ごしている。これが戦禍の国のリアルな日常。
戦闘の最前線ははるか東で、NHKの安全基準は厳格だから、海外取材の経験の浅い私が前線近くの取材に行くなんて可能性は、かなり低い。というかほぼない。
日常を取り戻したように見えるキーウやその周辺で、戦争の現実を伝えることができるのか。そんな不安のほうが大きくなっていった。
でも私はまだ何もわかっていなかった。
■3月4日 虐殺の町 ブチャでの取材
キーウを拠点に取材をして1週間、この日はキーウから30キロほど離れた街、ブチャに入った。
ここで1年前に起きた多くの市民に対する虐殺は世界に衝撃を与えたが、人々は今もそこに暮らして生活を立て直そうとしている。
街では、家の修理や建て直しの工事があちこちで進められていた。
虐殺の犠牲者を悼む住民たちの集会で、ビクトリアさんという女性と出会った。
ボランティアで街の防衛に当たっていたおいをロシア軍に殺された。
それから3週間後、外に食料を取りに行った夫もロシア軍に殺された。
ビクトリアさんの言葉に胸がえぐられるようで、こんなことは初めてだったけど、インタビュー中なのに涙が止まらなくて、質問の続きができなくなってしまった。
戦争のむごさや理不尽さ、こんなにつらい思いをしたうえに、ふたつ年下の弟が激戦地のバフムトで戦っていて、また誰かを失うのではないかという恐怖を抱えていた。
戦争が続くかぎり、大切な人の命が奪われる瞬間は何度でも訪れる。そのたびに、たとえ自分自身は無事であっても心の大切な部分が死んでいくような感覚を味わい続けなければならない。
こんなことを尋ねてしまった。
「今、ロシア人にどのような感情を抱いていますか?彼らを許せる日が来ると思いますか?」
彼女は黙り込んだまま5秒、10秒…。
瞬きもせずうつむき加減で何か言葉を探そうとしている。私が質問したことを後悔して「答えなくてもいいです」と言おうとした矢先に、彼女が話し始めた。
「憎しみ以上」という感情を抱えながら、彼女はこれからどう生きていくのだろうか。普通に笑ったり穏やかな気持ちで暮らしたりできる日は来るのだろうか。
ブチャの住民には、生き残ったことに罪悪感を持つ人もいた。
「自分は友人を救うためにもっと何かできたのではないか」と浴びるように酒を飲み、のたうち回りたい苦しみから逃れようとしていた人もいた。
戦争が終われば、こうした人々にも少しは平穏が訪れるのだろうか。1年たってもまだ続く戦争は、私の想像を絶する苦しみを人々に与え続けていた。
■3月4日 戦禍の結婚パーティー
ブチャでの取材から戻った夜、私たちの滞在するホテルで、20代の若いカップルの結婚パーティーが開かれていた。
様子を見に行った私たちに「よかったら一緒にお祝いしましょう」と声をかけてくれて、パーティーに飛び込みで参加させてもらった。
ダンスをしたり、肉料理やワイン、それにケーキなどの美味しい食事を楽しんだり。みんなが笑って、会場は温かいお祝いムードに包まれていた。
聞くと新郎新婦はともに医師で、新郎は戦場で傷ついた人々の治療に当たることもあるという。
「休暇はほんの数日しかないんです。息子はすぐに病院にとんぼ返りです」
新郎の父親は、私たちに酒や料理を勧めながら誇らしげに、少しさみしそうな顔で息子のことを語っていた。
人生で一番幸せな瞬間にも戦争が影を落としていた。
■3月9日 近くにミサイルが!
私たちも防空警報に慣れてきたころ、朝早く、「ドーン!」という大きな音が外で聞こえた。キーウにミサイル攻撃だ。
住宅地で車が炎上して、けが人も出ているという。防空警報が解除されて安全が確認されてから、私たちは現場へ向かった。
爆発が起きた場所はホテルから車で10分ほどの、高層アパートやオフィスビルに囲まれた駐車場の一角だった。
ミサイルの直撃だったのか、迎撃されたミサイルが落下して爆発したのか、はっきりしたことは現場ではわからなかったが、爆発する場所が少しずれていたら、人が住んでいるアパートに直撃していたかもしれない。
軍事目標でも何でもないこんな場所にミサイルが落ちるなら、私たちのホテルに落ちなかったのは偶然でしかないだろう。
自分の人生があの「ドーン!」の一瞬で終わっていたかもしれない。平穏な日常を襲った、戦争のリアル。
■3月10日 突然人生を奪われた少女
キーウ近郊のイルピンで、福島の子どもたちからの手紙を受け取った生徒を取材しているなかで、15歳のネオニリアさんという少女に会った。
日本の高校2年生にあたる彼女は聡明で優しく、私の質問に得意の英語でハキハキと答えてくれた。
私の目には、充実した学校生活を送るステキな女子にしか見えない。
でも彼女はもともとクリミアで暮らしていて、2014年にクリミアがロシアに一方的に併合されたあと、家族で約900キロ離れたイルピンに避難してきたという。
そのイルピンも、去年2月にロシア軍が首都陥落を目指して侵入し激戦地となり、こんどはウクライナ中部に避難することになった。
彼女がスマホで見せてくれた写真には、家の中に飛んできた不発弾が写っていた。
「これがもし爆発していたら…」と振り返る彼女の表情には、さっきまでの快活さはない。
「9年前と同じようにまた住まいを、生活を、友達を奪われてたまるものか。できることなら私は逃げたくなかった」
1週間以上も外を出歩けないほど、気持ちが落ち込んだこともあったそうだ。愛らしさに怒りや悔しさが混ざった表情が、理不尽に生活や人生を奪われたつらさを物語っていた。
■3月17日 お遊戯は愛国の歌
この日の取材で訪ねた幼稚園では、天使のように可愛い子どもたちが、音楽に合わせてお遊戯をしていた。
でも流れていた音楽はウクライナの民族意識と抵抗を鼓舞する「赤いカリーナは草原に」という歌で、こんな歌詞だ。
赤い実をつける「カリーナ」という植物と、大国に侵略され続けてきたウクライナの人々の歴史とを重ねあわせた歌詞。
100年以上前から抵抗軍の兵士などの間で歌われ、今、ロシアの侵攻以降に再び盛んに流されるようになっていた。
ウクライナの人々にはとても大切な歌だということはわかる、でも幼いこの子たちまで国を守る、民族の自立を守る意識を背負わなければならないのか。
幼稚園の地下には核攻撃にも耐えられるというシェルターがあった。
空襲時にはここに避難するため、子どもたちがこのシェルターを怖がらないように普段から一定時間、この場所で過ごす訓練も行われていた。
3歳から4歳の子どもたちが、手すりをつかみながら階段を降りてシェルターに向かう。シェルターの中でこの日は30分ほど、先生と一緒に歌を歌ったり、踊ったりしていた。
子どもたちは特に緊張したり怖がったりするでもなく無邪気に遊んでいて、その様子に胸が締めつけられた。
先生たちどうしでも子どもの安全をどう守るかについて、話し合いを続けているという。
防空警報のサイレンの音を毎日聞いている子どもたちに、1日も早く警報やシェルターと無縁の生活を送れるようになってほしいと、私には願うことしかできない。
■3月21日 カメラマンは負傷した元兵士
ある急ぎの事態に対応するために、急遽、取材を手伝ってくれる地元のカメラマンを探した。
駆けつけてくれたのは取材班のスタッフの古い友人のアンドリーさん。現場での判断が的確で、慌ただしい取材の中でも常に冷静沈着な彼は、最近まで戦場にいた元兵士だ。
アンドリーさんはルハンシク州やドネツク州の前線でドローンの操縦などをしていたが、戦闘で肩を骨折して現場を離れていた。
ロシア軍の砲撃が16時間にもわたって続いたという戦場を生き延びて戻ったが、今も夜は熟睡できず、物音に敏感になっているという。
激戦地で命をかけて戦う兵士たちがいる一方で、街なかには平穏に暮らす人たちがいる。アンドリーさんはそのギャップに苦しみ、ふとした時に怒りもこみ上げるようになったという。
そうした人は、きっとたくさんいるのだろう。
■3月24日 戦争で負った心の傷に向き合う
私が提案した「心のケア」の取材で、この日、兵士やその家族たちへの心理カウンセリング施設を訪ねた。
所長の女性は、夫を戦場で亡くしていた。カウンセラーの女性は元兵士で、除隊後にキリスト教の修道院に入り、戦場で心に深い傷を負った人たちの苦しみを和らげる仕事にあたっているという。
2人とも、戦場から戻ってきた人の力になることが、自分たちを癒やすことにもつながっていると感じているようだった。
この日は戦闘の激しい東部のバフムトから戻った男性が相談に訪れていた。
一緒に戦っていた友人が銃撃戦の中で自分をかばって戦死したことがフラッシュバックして、毎日のように眠れなかったり、気分が落ち込んだりするという。カメラマンのアンドリーさんのように。
銃撃を受けた生々しい傷痕も、体に残っていた。それでも彼はまた戦場へ戻るつもりでいると話していた。
死と隣り合わせの戦場のストレスとはどれほどのものなのか。今、心が壊れかけているのに、また戦場に戻ったらどうなるのか。カウンセラーと話す男性の様子からは、戦場で戦う姿は想像できない。背中を丸め、不安そうにぽつぽつと身の上を語る、ごく普通の中年男性だ。
「もう戦場になんていかずに自分の心と体を労ってほしい」
私はそう胸の中で願った。
ここでは相談に来る人も、相談を受ける人も、皆、戦争で心に傷を負っている。戦争と関係ない人生を送る人は一人もいない。
こうして兵士やその家族がカウンセリングを受けられる施設はまだまだ少ないという。戦争で心を病む人はこれからもっと増えていくだろう。そしてこれから何年もの間、多くの人をさいなみ続けるのだろう。
多くの人の願いは「平和より勝利」
取材期間も終わりに近づいたが、この1か月余りに出会ったウクライナの人々から、「一刻も早い平和を」と言う声はほとんど聞かれなかった。
多くの人が犠牲になっている。
だから取材では平和を望む声が市民から聞けるだろうと思っていた。とにかく戦争が早く終わること、平和が来ることを祈っているはずだと。
それに日本の視聴者には「戦争を続けるべし」という声より、平和を願う声の方が理解されやすいのではという思いもあった。
でもそんな日本のメディアの型にはまった考えなど関係なく、ブチャで出会ったビクトリアさんもそうだったし、どんなにつらい目に遭った人でも、「平和より勝利だ」と訴えた。
停戦? 和平?
たとえ一時的にロシア軍が撤退して停戦が実現したとしても、ウクライナの人たちは安全だと感じない。もうこれ以上ロシアが侵攻してくる恐怖におびえながら暮らしたくないという思いのほうが強いだろう。
ましてやロシア軍がウクライナ領土の一部を占領したままの和平なんてあり得ないという。ロシアとの断絶はウクライナの人々の心に決定的に刻み込まれ、それは戦争が1年を超えて長期化するなかで深まる一方となっている。
「平和より勝利を」「平和より勝利を」「平和より勝利を」
これほど苦しみ続けているのに、一般の市民まで戦い続けることを望んでいる。私には到底理解しきれない感覚のように思えた。これが戦争なのか。
■3月30日 帰国
できるだけ多くの市民の声を聞いて、ニュースで伝え続けてきた1か月余り。日本に戻ってからも、出会ったひとりひとりの顔や言葉が鮮やかに浮かんでくる。
イルピンで出会った15歳のネオニリアさんは歌と踊りが大好きで、いつか国外で勉強したいと話していた。
日本からの支援物資が保管されている倉庫の取材で会った兵士は、「明日から東部の激戦地に行く。すべて上手くいく、大丈夫だよ」と言って軍服のエンブレムをはがして、私に手渡した。
出会ったすべての人が幸せに平穏に生きてくれたらと願う自分に、ウクライナで多くの人に尋ねてきた問いが跳ね返ってくる。
私が願っているのは一刻も早い平和の訪れなのか、それともウクライナの多くの人が言っていたように、勝利するまで戦い続けることなのか。
自分が何気なく市民に聞いてきた質問を自分自身に投げかけたとき、それがいかに重い問いだったのかを、今更ながら気づかされる。
勝利するまで戦うということは、さらに多くの人が傷つき死んでいく事態を覚悟すること。
大国に囲まれたウクライナの人々が侵略と戦ってきた歴史は長い。今のロシアとの戦いも、ウクライナにとっては去年ではなく、9年前のクリミア併合の時から始まっている。
この長い戦いに決着をつけて、ウクライナの主権と独立を揺るぎないものにする。それができるのは今しかないという思いが、社会に充満していた。
私が出会った人々が命を失うと想像することは耐えられない。でも戦いを止めるわけにはいかないという気持ちも、現地の取材をした今はわかる気がする。異なる思いが今も私の中でぐるぐると渦巻いている。
平和な日本に生きていると、この戦争がどこか現実味のない出来事にも感じてしまう。
「ウクライナ疲れ」という言葉を耳にすることもある。
でもウクライナでは確かに戦争が行われていて、そこには戦渦を生きる人々の生活があった。
軍事侵攻から1年あまりがたつ今、メディアの伝え方や役割はより問われていると思う。
取材ノートに書かれたこの1か月あまりの経験とそこで抱いた感情が、私にとってこれからも続くウクライナ情勢取材の原点となることは間違いない。
髙須絵梨 国際部記者
髙須記者はこんな取材をしています