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アシタカ(vol.2)

たたり神を辿る

 祟りのしるしを残されたアシタカは、「くもりなきまなこで見定めるために西へと旅立った。
 イノシシの足跡を追って西へいく。その途上で、争いの場に遭遇する。年寄りや女が、刀や矢を持った男に襲われているのを放っておけず矢を放とうとする。そこで不思議なことが起こる。しるしを受けた右手が、そのしるしに支配されたようにうごめくのである。そして放った矢は、相手の手をもぎ取ったり、首を落としたりする。
そのことにアシタカは気が付き始める。
 アシタカの怒りが高まり、相手を攻撃しようとすると抑制が効かないのである。それは、よくわかる。これで怒りが収まるという悟りのない私には、単に技術的なアンガーマネージメントでは収まらないのではないか思っている。
だからこそ、物語の中でも知らず知らずのうちに怒りをもって矢を放ち次々と怒り、呪い、たたりを集めていってしまうのだろう。それが、ひいさまが言っていた「走り走るうちに 呪いを集め…」ということではないだろうか。
理不尽な出来事にどう立ち向かうのか。アシタカはどう行動していくか、その過程を見定めていこう。
 その場面で出会ったジコ坊と話をして、情報を手に入れる。この段階で、ジコ坊が敵か味方かはわからない。胡散臭そうなので、信頼はできそうにない。
ただ、ジコ坊の語る言葉には、少し興味を持ってしまう。
「人界は、恨みを飲んだ亡者でひしめいている。」
「肝心なことは、死に食われんことだ。」
ずる賢いのか、「これも師匠のうけうりじゃがな」と付け加える。
分かっているのかもしれない。それでも現世を生きるということにおいて、ジコ坊は、現実の中で執着から自由になることなく『生きて』いるのだろう。だから『死に食われんことじゃ』というのではないか。
むしろ、死ぬことが必要だと思うのだが‥‥。

 少しそれてしまった。
 それから、山の斜面で牛に荷を乗せた一団が、白い大きな山犬に襲われる。何人かの人間や何頭かの牛が谷に落ちる。
荷を乗せて運んでいたのは、たたら場のエボシの一団である。襲ってきたのは、もののけと言われている山犬の親子。大きな母犬”モロ”は、エボシの石火矢にあたり、谷に転落する。
 その谷でモロを介抱していたサンをアシタカは、初めて見る。
これが、サンとの出会いである。出会うべくして出会ったという設定なのだろう。
 アシタカは、そこで痛手を受けていた牛飼いの二人を助ける。その場面から、こだまが出てくる。タタラバに送るため、しし神の森を抜けていくことにする。
こだまは、道案内。
そして、しし神の森で木々の間に光るしし神とであう。
 そこを抜けて、タタラバにいく。そこで、エボシという存在とであう。
エボシになぜここに来たのかを話す。エボシは、自分の秘密を見せようと自分の庭に連れて行く。話を聞いているうちにたたり神のしるしが、うごめきだす。
エボシは、その場面でもけしかけるような口調である。
 それが、やや寂しい。弱い人を助けて生きるということは、虚勢をはって、何かを潰して生きないと人を助けられないということだろうか。
すくなくとも、エボシはそういう人として描かれているように思う。
エボシの良さを語るものは、いくつか描かれている。そこは、きちんエボシの考えや思いが溢れている。
 母親のモロを傷つけられた山犬の兄弟たちが、タタラバを襲いに来る。
サンは柵を越えて、たたら場に入って来る。森を破壊するエボシを討ち取るためである。
エボシは、山犬に夫を殺された女を立てて挑む。
アシタカは、やめるように一人奮闘する。サンは呼びかけにも帰ろうとせず取り囲まれる。そして、ひこうとしないエボシの方にも怒りがわいたのか、アシタカの右腕からたたり神の妖気のようなものが出てくる。
 誰を傷つけるでもなく、サンを肩に担ぎエボシを気絶させると門に向かって歩みだす。そのアシタカに向かって、石火矢が暴発する。その鉄のつぶては、アシタカのわき腹を貫通する。血を流しながらアシタカは、十人いないと開かないという門を押し開け、迎えに来た山犬と共に出てゆく。
 エボシであったとしても、サンであったとしてもそれぞれに湧いても当然だと思える怒りを想像することはできる。
怒りが、次々と雪だるま式に大きくなっていく。
アシタカは、たたり神のしるしをもらった右手が妖気を出していたのに、人を攻撃しなかった。ここに何かのヒントが、もしくは(おこがましいが)宮崎監督の想いがあるのではないだろうか。
この場面は、私には、最終場面への布石であるように受け止めた。
サンに対してもタタラバの人たち(エボシも含めて)に対してもアシタカの無償の愛が芽生え始めているのではないだろうか。



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