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Ⅰー12. 戦意を高揚させたクアンガイ省での虐殺

ベトナム戦争のオーラル・ヒストリー(12)
★2008年12月19日~30日(ハノイ市、クアンガイ省、ホーチミン市)

クアンガイ省

クアンガイ省はベトナム中南部に属し、ベトナム戦争期には旧南ベトナムの領域だった。同省は解放勢力側の軍区としては第5軍区に属し、ベトナム戦争の激戦地の一つであり、かの悪名高いソンミ村の虐殺(1968年)が起きたところである。またベトナム戦争中にクアンガイ省内のジャングルにあった診療所に勤務し戦死した若き女性医師ダン・トゥイ・チャムが残した遺著『トゥイーの日記』(邦訳は高橋和泉訳、経済界、2008年)は、ベトナムにおいて2005年にベストセラーになった。現在、クアンガイ省南部のドゥックフォー県に彼女の記念館がつくられている。

クアンガイ省での聞き取り調査

2008年12月19日、日本を発ち、ハノイへ。21日朝6時発の飛行機でダナン市へ。ダナン市から車で移動し、12時頃、クアンガイ省クアンガイ市に到着。市内のホテルに投宿。
翌22日朝、省人民委員会の人と会食。その後、12キロ離れたソンミ村の虐殺博物館を見学。入場者の記帳で異なる意見があったのに興味をひかれる。博物館では虐殺だけではなく、近年の経済発展についても着目されている感じ。虐殺事件発生当時、この村を支配していたのは誰かが不問に付されているのが気になった。

聞き取り調査は、2008年12月23日から同月27日まで、クアンガイ省クアンガイ市と同省ドゥックフォー県で実施した。退役軍人は13人(男11人、女2人。大佐5人、上佐1人、中佐2人、少佐2人、准尉1人、上士1人、不明1人)で、そのうち11人はクアンガイ市にあるクアンガイ省退役軍人会事務所で実施し、2人は同省ドゥックフォー県の退役軍人会事務所でおこなった。あと青年突撃隊の元隊員5人にも、クアンガイ市にあるクアンガイ省元青年突撃隊隊員会の事務所においてグループ・インタビューをおこなった。インタビュイーはいずれも出身地がクアンガイ省であり、現在は同省に在住している。

(1)ジュネーブ協定(1954年)から米軍の本格的介入まで

抗仏戦争の末期、クアンガイには比較的広大な解放区があり、解放勢力側の軍隊の編成も着手されており、1954年にはディエンビエンフーの戦いに呼応して中部高原でのフランス軍との戦闘が展開されていた。

ジュネーブ協定後、インタビュイーのなかで6人が北部に「集結」している。父親が革命幹部で家族ごと「集結」したティン(男、1941年生まれ、大佐)以外はみな所属部隊ごと「集結」した。ティンは北部において南部出身生徒対象の学校で学び、18歳で7年生を終えた。ティンより少し下の年代の南部出身者は中国で勉学したという。ティンによれば、当時、南部からの部隊は4個師団あったという(第305、308、324、330師団)。北部では1958年に軍事義務法が制定されたが、南部出身者は猶予されたので、ティンは59年に志願して入隊した。

北部に「集結」した人の多くは、南部の武力解放を方針としたベトナム労働党15号決議(59年1月)以後から60年代前半までに南部の戦場に戻った。ルアット(男、1925年生まれ、大佐)の部隊は党・国家の方針で南部に戻ることになったが、拒否する人は卑怯者だと思われ、誰も拒否する人はいなかったという。

1950年代後半の時期は、解放勢力側が概して地下活動に潜行していた時期であるが、チャム(男、1934年生まれ、大佐)の証言に見られるように、15号決議以前にクアンガイでは武装蜂起への胎動が生じていた。

ルアットは、クアンガイの武装勢力強化の起点は、省の最初の中隊である第339中隊ができてからで(59年3月)、これがチャーボン(Trà Bồng)蜂起(1959年8月)の条件を整えた、と指摘する。ルアットの部隊は61年9月にターマー(Tà Ma)とザーヴック(Giá Vực)において敵の保安大隊を殲滅し、これがクアンガイ省と第5軍区においてベトナム戦争期に主力軍が出現した最初であった。61年に第5軍区が正式に成立した。

「戦略村」(1961~63年)そして「新生村」(1965~68年)といったサイゴン政権による農村統制策に対して、村のゲリラたちは悪玉襲撃などのテロリズムと村人への扇動によって抵抗した。ホンレ(女、1951年生まれ、准尉)は、戦争中は自宅にいても、革命側に加わっても、どちらにも死の危険があり、それなら自分は名誉となる方を選んだだけだと述べている。

(2)米軍の本格的介入からベトナム戦争終結まで

1965年3月にアメリカ海兵隊がダナンに上陸し米軍の本格的介入が始まったが、ほどなくしてクアンガイの戦場にも米軍が登場してきた。5月には米軍がチューライ基地にやってきた。米軍との大規模な戦闘であるヴァントゥオンの戦い(65年8月18・19日)で、ヒエップ(男、1940年生まれ、中佐)は県隊の偵察隊として第3師団・第52旅団の道案内をしたが、彼によれば、この戦いの頃は、第5軍区の主力軍はまだ少なく、北部からもそれほど兵員が投入されていなかったという。

カイ(男、1937年生まれ、大佐)は、米軍のB52が第5軍区に初めて飛来したのは65年8月1日だと述べている。バー(男、1948年生まれ、少佐)によれば、クアンガイ省隊は「小団」「中団」といっても実際はそれだけの兵員はいず、彼の大隊は看護師等を入れても50人規模だったので、米軍や韓国軍に対しては主にゲリラ戦術を用い、集中攻撃は必要な時だけに限ったという。

米軍の本格的介入はクアンガイの人たちに血盟を促すなど強度の緊張と空爆等の危険をもたらし、あらたな戦闘方法を模索させた。米軍の爆撃は、ホンレの言にみられるように、ベトナム人の戦闘意識を挫くことにはならず、むしろ「南爆」による死の危険は彼らを解放勢力側に追いやることにもなった。

ルアットによれば、テト攻勢に向けてクアンガイでは各地で大規模なデモが発生し、テト攻勢の一斉蜂起は人民動員の最高潮であったが、テト攻勢では省都を長く占拠し人民蜂起によって地方政権樹立をすることはできなかった。テト攻勢後、当時ルアットは省隊の指揮官であったが、敵の包囲・掃討はきわめて厳しく、死者が多数出て、深刻な危機で一番苦しい時だったという。

バーは、テト攻勢ではクアンガイ市攻撃に従事した。クアンガイ市攻撃には省隊と第5軍区の第52旅団があたり、後に第3師団・第7小団が補充された。テト攻勢後、革命基礎は破れ、革命基地の幹部・戦士は不足し、米・塩もなく、とても苦しい時期だったとバーは述べた。

ヒエップ(男、1940年生まれ、中佐)の話では、テト攻勢後、第3師団・第7小団はクアンガイの地方軍になったが、兵士の殆どは北部の人だった。テト攻勢後の「平定」の時期、省隊には北部からの兵士が多くなったとバーも述べている。テト攻勢後、クアンガイの解放勢力における北部からの人員・兵器・物資の比重は一段と高まったと推測される。

パリ協定(1973年1月)後、米軍が撤退した73年末・74年初でも傀儡軍は依然強暴ではあったが、すでにその頃は敗勢に陥っていたとルアットは言う。クアンガイ省は74年末にはドゥオックフォー県の山間部に若干の敵軍が残っているだけになった。1975年3月24日にクアンガイ市を解放した。

(3)少数民族との関係

ルアットによれば、1949年にクアンガイ省のソンハー、バトーの両県で大規模な山岳少数民族(主にフレ族)の蜂起が発生し、キン族が多数殺傷された。1年後にフランスがその蜂起を支援し、ベトミン軍との激しい戦闘が展開され、51年末・52年初にやっと鎮圧したという。これは第5軍区地域における抗仏戦争勝利への分岐点であったとルアットは評価する。鎮圧後、少数民族との関係の認識が改められるようになり、従来、山岳少数民族に対して " mọi " という蔑称が使われていたが " thượng (上)" と言われるようになった。この認識転換がなければ、第5軍区の抗戦と中部高原との関係は困難になったであろうとルアットは指摘する。

(4)戦争でゆがめられた兵士の結婚生活
ルアットは1954年の北部「集結」以前に結婚していたが、北部にいる間に南部に残った妻は他の男性と結婚してしまったので、南部に戻ってきてから67年に再婚した。タン(男、1936年生まれ、大佐)もジャングルの基地にいる間に妻が他の男性と結婚してしまったので、ベトナム戦争終結後の75年に再婚した。

チャング(男、1940年生まれ、中佐)は64年に結婚したものの、実際の結婚生活をおくることができるようになったのは、77年になってからであった。チャム(男、1934年生まれ、大佐)は56年に婚約したが、相手方が共産主義者と関わることを恐れて婚約を破棄したという。73年に他の女性と結婚したが、その時には40歳近くになっていた。ミン(男、1935年、少佐)は「集結」した北部で63年に結婚することになっていたが、南部に戻るために取りやめた。結婚したのは73年だった。

ドゥー(女、1946年、青年突撃隊)は24歳になった69年に北部出身の恋人が戦死した。戦後の77年、32歳の時、彼女は結婚しないで養子をとることを決意した。

(5)北部での勉学

学校教育を十分に受けられる機会がなく低学歴者の多かった南部の解放戦士たちにとって、軍隊は巨大な教育機関でもあった。士官に昇進する人は学歴不足を軍隊の補習学校で補った。3年生までしか通学できなかったルアットの「部隊に入ってようやく学ぶことができた」という発言は印象的であった。戦士たちは、高級幹部昇進のため、あるいは戦功の褒賞として、時には北部で勉学する機会が与えられた。インタビュイーのうち、北部への「集結」者以外でベトナム戦争中に北部で勉学した経験者が3人いる(チャング、チャム、ドゥー)。

青年突撃隊のドゥーは、68年に「競争戦士」の表彰を受け、十分な学校教育を受けていない人のための補習教育を北部で受ける機会を与えられた。70年末に徒歩で3か月と20日間をかけて北部に行き、フンイエン省とフート省の学校で学んだ。72年は爆撃が激しかったので、バックザン省に疎開した。1年で2学年分の補習をし、10年生まで進級した。75年4月に南部に戻った。

戦功の褒賞として北部での勉学の機会が与えられたと考えられるが、党員資格の付与も同様であった。ティン(男、1941年生まれ、大佐)は65年に入党しているが、家が「地主」成分だったので入党が遅れた。出征して戦功をあげなければ、入党できなかっただろうと述べた。

(6)枯葉剤の体験

ディエム(女、1952年生まれ、上士)は、戦場にいた頃、枯葉剤で木が枯れ果てていたので、枯葉剤を浴びた影響が子孫に出ないか心配している。ティー(男、1935年生まれ、青年突撃隊)は、チャーボンで任務に就いていた時、枯葉剤を散布された。ビニールを被って、泉の水は飲まないようにした。木々は葉がすっかり枯れ落ちてしまったという。戦後、隊員のなかには奇形児を産んだ人が何人もいるという。ティーは、アメリカ人被害者はアメリカ政府により補償されているのに、ベトナム人被害者が補償されていないのは矛盾だと批判した。ドゥーは、68年に爆撃と特に枯葉剤の散布が激しくて、隊員たちは洞窟で生活したが、枯葉剤の霧で濡れてしまい煮炊きができなかった記憶を語った。

(7)ベトナム戦争の勝因について

このことについて注目されるのは、インタビュイーの何人かから、人民の庇護・支援や人民への依拠、および戦闘する人民の心性が強調されていることである。人民の戦争への動員が非常に低コストですんだことについては以前も言及したことがあるが、基層レベルでの人民動員の実態(人民の人力、資源、感情等の調達)は従来の党史、戦史(軍事史)、国際関係史(外交史)などでは十分には解明されていない。

(8)クアンガイ省での聞き取り調査の特徴

①韓国軍との戦闘の記憶
タン(男、1936年生まれ、大佐)は、66年末・67年初にクアンガイ省北部のビンフオック社、ビンホア社で韓国軍と戦い、1個大隊125人を1人残さず全滅させたことがあった。チャング(男、1940年生まれ、中佐)もビンホア社で韓国軍と戦ったことがあった。ビンホア社には韓国軍の猛虎旅団が駐屯していた。韓国軍との戦いでは犠牲が多かったという。ヒエップ(男、1940年生まれ、中佐)も、韓国軍は一番殲滅しにくかったという。

ミン(男、1935年生まれ、少佐)は敵兵工作で捕虜の尋問による情報収集をしていたが、最も収集が困難だったのは韓国兵だったという。バー(男、1948年生まれ、少佐)によれば、韓国軍はクアンガイ省北部に多く駐屯していたので、第5軍区は「南朝鮮の傭兵を努めて競争して殲滅する」運動を発動し、そのために第48小団と第83小団を配置し、後に第2師団から補充したという。韓国の傭兵は凶悪で、会えば老若男女を問わず発砲してきたという。第48小団と第83小団は韓国軍の殲滅を血盟したという。

②虐殺の記憶
クアンガイにおける虐殺事件として米軍によるソンミ村の虐殺(1968年3月16日)が有名であるが、同じ時期、クアンガイでは他にも虐殺事件が多数発生しており、当地の人々の記憶に刻み込まれている。ルアットによれば、テト攻勢後に敵はきわめて激しい掃討作戦を展開したが、それがうまくいかなかった反応としてソンミ(Sơn Mỹ)、ビンチャウ(Bình Châu)、ティンソン(Tịnh Sơn)、カインザン(Khánh Dân)、トゥオンレー(Tường Lễ)などで虐殺事件が多発した。

タンは、ソンミの虐殺(筆者注:504人が殺害される)とビンホアの虐殺(見出し画像のビンホア社にある怨恨碑に刻まれているデータによれば、1966年12月3・5・6日発生。430人が殺害される)によって、敵はわれわれの戦意を挫こうとしたが、そうはならなかったという。タンが指揮をとっていた第48小団では、ソンミの虐殺事件の後、旗に血書して恨みを搔き立てた。

リー(女、1952年生まれ、青年突撃隊)は、韓国軍はソンティン(Sơn Tịnh)東地区の最初の虐殺者であり、ビンソン県最初の虐殺事件であるビンホア社の虐殺も韓国軍によるものだと指摘。リーは同胞を殺害した敵を恨む心によって革命側につき、部隊の会合の度に「同胞の血が流れれば流れるほど、革命に努力しなければならない」と督励されたという。彼女は、愛国心、勇敢な心、恨む心があって戦勝することができ、今日の生活があるのであり、恨みを忘れるべきではないとした。

一方、フイン(男、1948年生まれ、青年突撃隊)は、恨みを鎮め、過去のことは掻き立てることはしないで、忘却しない程度にとどめるべきだと述べた。ここで注目すべきは、有名なソンミ村の虐殺が起きる以前に近隣地区でそれに匹敵するほどの大規模な韓国軍による虐殺がすでにおこなわれていたこと、虐殺はベトナム人の戦意を挫いたのではなく逆に虐殺への恨みが戦意を高揚させたことである。

相棒のダイ氏によれば、ソンミ虐殺事件は地元以外のベトナム人にはあまり知られていないし、ベトナム人にとってそれほど大きな意味をもっていないという。米兵に殺された人は他にも沢山いるし、特筆すべき事件ではないが、対外的なプロパガンダとしては重要だったろうという。

③クアンガイ陸軍中学校の日本人教官

クアンガイ陸軍中学校は、現在クアンガイ市にある学校跡の碑文によると、1946年6月から11月までの6か月間開校されたベトミン軍の学校で、グエン・ソン(Nguyễn Sơn)が校長を務め、約500人の軍事幹部の軍事幹部を養成した。この学校には残留日本兵がいたことが知られている。

ケー(男、1920年生まれ、上佐)はこの学校の生徒であった。彼はクアンガイ省モドゥック県出身で、県の革命組織から斡旋されて入学した。彼によれば、学校では軍事教練は受けたが武器はあまりなく、素手での訓練が主だった。生徒は4個大隊に分けられ、日本人が大隊長兼教官で、さらにそれぞれに日本人の教官補佐がつき、合計8人の日本人教官がいた。4人の教官はベトナム語が話せなかった。日本人教官はみなベトナム名を名乗っていたので日本名は知らない。タム(Tâm)教官が最も有名で剣舞が上手だった。全員とてもいい人たちで、ケー所属の大隊のチュオン(Trưởng)教官はベトナム人女性と結婚したとのことである。閉校後、ケーは郷里に戻り、第6軍区の部隊に入った。その後の日本人教官の消息は聞いていない。

この学校については、加茂徳治『クァンガイ陸軍士官学校 ーベトナムの戦士を育み共に闘った9年間』(暁印書館、2008年)を参照のこと。

聞き取り調査の報告は以上です。
12月23日午後にクアンガイ陸軍中学校跡を訪問。25日午後、クアンガイ博物館を見学。26日、ドゥックフォー県に行く途中、モドゥック県にある元北ベトナム首相のファム・ヴァン・ドンの生家およびその博物館を参観。ファム・ヴァン・ドンの生家は、この数年後に訪れたファンラン市にある元南ベトナム大統領グエン・ヴァン・ティエウの生家よりも大きく立派だった。

26日10時半頃、ドゥックフォー県の退役軍人会事務所に到着。2人にインタビューした後、同県の祖国戦線の納会の昼食会におよばれした。退役軍人会の数人と一緒にダン・トゥイ・チャム記念館を訪問。その後、夜まで彼らと飲み続けた。

28日朝、ホテルを車で出発。小一時間してビンソン県ビンホア社の怨恨碑のところに。午後、ダナン空港からホーチミン市に移動。29日午後、トゥードゥック(Thủ Đức)にある上座仏教・原始仏教派に属する宝光寺(chùa Bửu Quang)を参観。翌30日、帰国。

◆今回の聞き取り調査については以下の拙稿を参照していただければ幸いです。「ベトナム中部クアンガイ省におけるベトナム戦争の記憶」『東京外大 東南アジア学』第16巻、2011年、57~73ページ。







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