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Ⅰー17. 空爆で民衆の戦意を挫くことはできない:ハノイ市カムティエン通り

ベトナム戦争のオーラル・ヒストリー(17)
★2010年12月24日~30日:ハノイ市

0.はじめに

ベトナム戦争末期の1972年12月26日の夜、米軍は北ベトナムの首都ハノイ中心部の密集住宅街であったカムティエン(Khâm Thiên)通りをB52により絨毯爆撃した。 この一晩の「空からの無差別大量殺戮」によって600人近くが死傷し、1700戸余りの家屋が全壊もしくは一部損壊した。この爆撃はパリ和平交渉が大詰めを迎えていたタイミングでおこなわれたが、北ベトナムはこの爆撃にひるむことなく、翌73年1月に和平協定調印に到り、ベトナムからの米軍撤退へと道を切り開いた。

本稿では、ベトナムの銃後民衆が当時どのような反応を示したかの証言を集めるとともに、この爆撃から約40年が経過した調査時、彼らがどのような記憶を持ち続けたいたのかを探る。日本では太平洋戦争中の大阪大空襲や東京大空襲の空襲被災者に対して、日本国政府は「戦争被害受忍論」を盾に補償や援護を拒んできた。こういった受忍論に対して、カムティエン通りの被災者たちはどのような態度をとっているのかも本稿では明らかにしたい。

1.ハノイ市カムティエン通りでの聞き取り調査


カムティエン通りはハノイ市中心部のハノイ駅近くから西に延びている短い通りで、ハノイ市で最も密集した住宅街の一つである。私は、2010年12月26日~30日の5日間、同通りのカムティン記念碑(見出し画像)の傍にある小さな記念館において、住民16人に聞き取り調査をおこなった。インタビュイーは地元のドンダー区カムティン坊の人民委員会に紹介していただいた。

16人のうち、12月26日夜の空襲時にどこにいたのかで区分すると次のようになる。空襲の現場にいた被災者は5人、自衛民兵として応戦が4人、職場あるいは出張中が3人、疎開先2人、兵士として出征中2人。

被災した場所(水色部分)(記念館展示資料)

2.北爆と「空のディエンビエンフー」


ベトナム戦争中、アメリカは空軍と海軍による北ベトナムへの攻撃(北爆)をおこなった。ベトナムではこれを「破壊戦争(chiến tranh phá hoại)」と呼んでいる(第一次が1965年2月7日~1968年11月1日。ローリングサンダー作戦は1965年3月2日~1968年10月31日まで。第二次が1972年4月6日~1973年1月15日)。

(1)第一次「破壊戦争」

スエン(男、1931年生まれ、労働者)も証言している通り、米軍機が初めてハノイを爆撃したのは1966年6月29日だった。翌月の7月17日、ホー・チ・ミン主席は北ベトナム国民に向けて有名な呼びかけをおこなっている。「戦争は5年、10年、20年、もしくはもっと長く続くかも知れない。ハノイ、ハイフォンと幾つかの都市や工場は破壊されるかも知れない。しかしベトナム人民は決して恐れない。独立と自由ほど尊いものはない」。

ハノイ市民はハノイ防衛防空師団の第361師団(1961年5月19日設立)を中心に抵抗した。テト攻勢後の1968年3月31日以降、和平交渉へ向けて、北爆は北緯20度以南にされることになり、さらに同年11月1日、ジョンソン米大統領は北爆の全面停止を宣言し、第一次「破壊戦争」は終了した。

(2)第二次「破壊戦争」

第二次「破壊戦争」は、ラインバッカーⅠ作戦(1972年4月6日~10月22日)をもって始まった。和平交渉を有利に進めるため、アメリカが北ベトナムに圧力をかけようとしておこなった作戦であった。ハノイへの爆撃は4月16日から。北ベトナムの二大都市であるハノイとハイフォンへの爆撃を主とするラインバッカーⅡ作戦(1972年12月18日~29日)は大詰めにきていた和平交渉の最後の圧力を狙いとしていた。この12日間の爆撃(クリスマス爆撃)に対する戦いは、成功裏に終え和平協定を導いたものとしてベトナムでは「空のディエンビエンフー」ともいわれている。12日間で米軍機は4万トン以上の爆弾をハノイ市に投下し、50万㎡の家屋を破壊し、3000人近くを死傷させた。

米軍側の北爆のシンボル的存在であったB52は、1965年6月18日に初めてベトナム戦争に登場し、南ベトナムのサイゴン西北にあるベンカット地方を爆撃し、1968年4月11日にはクアンビン省において初めて北爆をおこなった。ラインバッカーⅡ作戦の12日間でB52は663次出撃し、12月26日が105次でピークであった。

クリスマス爆撃によるハノイ市の被災の最も象徴的な出来事がカムティエン通りへのB52の絨毯爆撃である。それはカムティエン通りを隔てて南側だけをきれいに「限定爆撃」したものであった。爆撃の翌年、死亡者を悼んでカムティエン記念碑が建てられた。また、爆撃によって母親を喪った幼い姉妹を描いた映画「ハノイの少女(Em bé Hà Nội)」(1974年)(https://www.youtube.com/watch?v=vFuEYCGV5ZY)が制作され、同映画は1975年のモスクワ国際映画賞の特別賞を受賞した。

1972年12月26日夜の爆撃による被害は、カムティエン記念碑の脇にある記念館内の展示資料によれば、次の通りである。死者287人(老人40人、子ども56人、成人女性94人、成人男性97人)、負傷者290人(老人26人、子ども31人、成人女性104人、成人男性129人)で、親を喪った子どもは178人(両親66人、片親112人)、全壊した家屋が534戸、一部損壊した家屋が1200戸。

亡くなられた犠牲者の写真(記念館の展示より)

3.1972年頃のハノイにおける暮らし:疎開、配給、労働


(1)疎開

北爆の脅威の下、ハノイ市当局はいち早く1965年に疎開委員会を設立し、市民の疎開計画に着手した。1965年にハノイ市区部の人口は56万5732人で、30万人以上が疎開する計画であった(子ども23万人、老人3万人、学生4万人、商売人2万人)。1972年のクリスマス爆撃当時のハノイ市区部の人口は65万人で、そのうち55万人が疎開していた。

今回の聞き取り調査でインタビューした16人中、13人が家族の老人や子どもを疎開させていた。疎開していなかった3人の世帯は、老人や子どものいない世帯であった。家族の疎開方法には、職場単位、学校単位、個人的に親戚・知人を頼ってなどがあった。アン(男、1936年生まれ、労働者)のところは職場単位の疎開だった。ロイ(女、1931年生まれ、労働者)のところは子どもの学校単位での疎開であった。トア(女、1947年生まれ、労働者)の家族は実家のあるハノイ市ドンアイン県に疎開した。

工場や学校自体も疎開した。スエン(男、1931年生まれ、労働者)の勤める第一薬品企業はハノイ工場が主力であったが、他の幾つかの工場を疎開させた。トア(女、1947年生まれ、労働者)のサオヴァン・ゴム工場は3か所に分散して疎開した。工場は自転車のタイヤを生産していて需要が高かったので、僅かな従業員だけが疎開し、多くの人はハノイ市内に残って生産に従事した。約3000人の労働者がおり、大多数は復員兵だった。青年突進隊(đội thanh niên xung kích)(青年突撃隊とは異なる)が工場に常駐し、生産と戦闘に参加した。

アン(男、1936年生まれ、労働者)のチャン・フン・ダオ機械工場はハノイ市西部のカウザイに疎開し、操業を続けた。工場の周囲には防空壕が張り巡らされていた。操業中に空襲があった時には、生産現場のすぐ傍の個人防空壕に避難した。フン(女、1938年生まれ、労働者)の勤務するナムディン紡績工場は、1965年にランソンとフーリーに疎開し、若干の従業員をハノイの「3月8日」紡績工場に派遣した。ナムディンの紡績工場はかつてフランス製の機械を使用していたが、「3月8日」紡績工場は中国製で、中国人の専門家が駐在していた。

ラム(男、1949年生まれ、労働者)のトンニャット自転車工場も大部分が疎開した。ドゥック(女、1955年生まれ、労働者)は縫製工場の労働者で、工場はハノイ市西部のザンヴォーに疎開していた。ヴオン(男、1937年、大学教員)が教鞭をとっていた第一農業大学はランソンに疎開した。フック(男、1945年生まれ、研究員)の勤務していた交通科学研究所は一部だけが疎開した。

人々は疎開先とハノイとを頻繁に行き来した。ヴォン(女、1948年生まれ、専門学校教員)はハノイ職業訓練補習学校の教員だったが、家族と子どもを郊外に疎開させ、自分自身は午前中は職場に行き、午後は疎開先に通った。人々は空襲を避けるために家族を疎開させたが、不運にも、偶々12月26日の夜に疎開先から帰宅していて被災したアン(男、1936年生まれ、労働者)ドゥック(女、1955年生まれ、労働者)の家族のようなケースもあった。

(2)配給

この時期、労働者・幹部・職員などの都市住民は配給を受けていた。スエン(男、1931年生まれ、労働者)によれば、労働者・幹部・職員と都市の人だけに配給制度があり、疎開先の農民は対象外であった。疎開していた人たちは配給を受け取るために、時々、ハノイに戻っていた。実家のあるドンアイン県に疎開したトア(女、1947年生まれ、労働者)の家族は、毎週、食糧の調達のために自宅に戻った。配給キップをためて月末に食料を買った。配給は何を買うにも長蛇の列だった。ヴオン(男、1937年生まれ、大学教員)の高齢の父親も疎開しているべきであったが、年末に配給キップを受け取るためにとどまっていた。そのため被災してしまった。

インタビューした人たちの多くは、職位による配給・給料の格差と配給の乏しさを強調した。サオヴァン・ゴム工場の労働者であるトア(女、1947年生まれ)によれば、食糧の配給は職位により異なり、月に13.5キロ、19キロ、21キロと区別され、肉は幹部が2キロ、労働者は1.5キロ以下であった。布は幹部が5m、人民は4mで、女性には追加があった。労働者の多くは工場の集合アパートに住み、独身の場合は4人1部屋だった。

スエン(男、1931年生まれ、労働者)の給料は64ドンで、食事はトウモロコシ、キャッサバ、イモが多く、ご飯は少なかった。食糧は月に約13キロ配給され、そのうち米は30%のみだった。アン(男、1936年生まれ、労働者)の退職時の月給は70ドン余りで、配給は月に食糧が21キロ、肉は1.2キロ、砂糖は0.5キロ、布は1年に5mだった。フン(女、1938年生まれ、労働者)によれば、労働組合の専従職員の給料は63ドンで、食糧は13.5キロ、砂糖は0.5キロだった。食事はご飯が少なく、混ぜご飯を食べた。その頃はよくこう言ったものだという。「平和ならお粥でも幸せだ」。

(3)戦時下の雰囲気:精神的高揚と規律

トア(女、1947年生まれ、労働者)のゴム工場は、当時、自転車のタイヤ生産が非常に重要だったので、懸命に生産に励み、昼間に空襲があった時には夜間に生産して補った。日曜・祭日も南部同胞のために操業した。労働者は休日なしで連続して120日間働いた時期があり、見返りを求めることなく、すべてを犠牲にしたという。

フン(女、1938年生まれ、労働者)は元々カムティエン通りの生まれであるが、1956年からナムディンの紡績工場の労働者になった。1965年にハノイの「3月8日」紡績工場が完成したのに伴い、ハノイに戻ってきた。59~60年に上海で研修を受けた。66年に第一子を出産したが、2か月後には仕事に戻った。当時、「血を分けた南部のために2人分働く」運動(1964年3月発動)があり、工場は休日・正月返上で操業した。彼女によれば、戦争中はみな精神が高揚していたという。

フンの工場は、労働者が軍隊に入隊する時や南部出征の時は慰問し、困難があれば援助した。最も重視したのが、南部に出征している夫がいる世帯と戦死者(「烈士」)の世帯の慰問である。彼女の工場には30人以上の「烈士」の妻がいた。彼女らは住宅支給の第一優先対象だった。次が南部出征兵士がいる世帯で、その次が兵士の世帯。

当時は社会の治安もよく、規律もとれていた。疎開先から帰る時、汽車やバスに乗り遅れて、市場(いちば)で野宿することもあったが、襲われたり物を取られたりされたことはなかったという。現在(調査時の2010年)、暮らし向きは随分よくなったが、道徳はとても劣化したとフンは嘆く。戦争中、人々はとても慈しみあい庇護しあい、規律があって法令を尊重しており、爆撃直後でも物を盗む人は誰もいなかったという。トア(女、1947年生まれ、労働者)も、当時、男女関係は厳格で、不倫者は処分されたという。南部出征兵士だったチン(男、1951年生まれ)は、昔の戦闘のことを考えると今でも恐ろしくなるが、現在のような競争社会でなく情愛深く暮らしていた戦争当時を懐かしく思うこともあると述懐する。

亡くなられた犠牲者の写真(記念館の展示より)

4.クリスマス爆撃の被害


ヴオン(男、1937年生まれ、大学教員)によれば、ハノイには空襲警報システムがあり、敵機が30キロ、15キロ、10キロ接近したとの拡声器による知らせがあると人々は防空壕へ避難した。彼の家には個人用の防空壕があり、直径80センチ、深さ約1m、蓋の厚さ3センチの2つのタコツボがあった。カムティエン通りには集団防空壕もあった。しかし空襲警報がなければ、映画館も上映し、飲食店も開いており、普通の生活が営まれていた。

ホア(女、1945年生まれ、労働者)は1972年12月26日の夜、3回目の空襲警報を22時に聞いた。22時半すぎに爆発音があり、あまりに近かったので、耳が遠くなり、地面の揺れだけを感じた。気が付いた時には集団防空壕に閉じ込められていた。ドゥック(女、1955年生まれ、労働者)は、22時半すぎに拡声器が敵機接近中をけたたましく放送していて、なかなか寝付けなかった。突然、激しい爆発音が聞こえたので家を飛び出し、玄関先の防空壕に逃げた。何度も爆発音がしたかと思うと気を失った。

密集した住宅街であったカムティエン通りは爆撃により多数の家屋が破壊され、多くの人が亡くなった。大量の爆弾の投下により、死体の損傷はひどかった。インタビュイーのうち、爆撃の現場で被災したのは、ホン(男、1925年生まれ、労働者)、ヴオン(男、1937年生まれ、大学教員)、アン(男、1936年生まれ、労働者)、ホア(女、1945年生まれ、労働者)、ドゥック(女、1955年生まれ、労働者)の5人であった。そのうちアン以外は生き埋めになった。ホンは骨折して頭皮が裂傷し、自衛民兵に救助された。ホアが再び気づいた時には防空壕に閉じ込められていた。救助されたものの服はボロボロで、放心状態でものを言うことができず、セントポール病院に運ばれた。爆撃で気を失っていたドゥックは、朝4時半頃、ようやく気が付いた時には防空壕の中に座っていた。周囲は土で埋まっていた。長い間、座っていたが、隙間を探して叫び、救出してもらった。

爆撃の現場にいなかった人も、家族・親族の様子が心配で翌日にはカムティエン通りの被災現場に駆けつけた。ハノイ郊外に駐屯していたスアン(女、1949年生まれ、兵士)の弟は死体が見つからず、腕だけが見つかった。義母の死体は顔がぐちゃぐちゃになっていた。自宅の敷地は巨大な井戸のようになった。スエン(男、1931年生まれ、労働者)が目撃したのは、到る所瓦礫の山で、集団防空壕に爆弾が命中して多数の人が死亡していた情景だった。市場にも爆弾が命中し、商品が散乱していた。死体が多数爆風で吹き飛ばされ、木の枝にも引っかかっていた。

ミン(男、1957年生まれ、職業不詳)や兵士たちは瓦礫を掘り起こして、死体の捜索をした。悪臭がひどかった。死体が多すぎて棺桶が足りなかった。トア(女、1947年生まれ、労働者)も空襲の後始末に参加した。死体はバラバラで、頭部だけのもの、腸が木の枝にぶら下がっていたり、肉片が電信柱や樹木にへばりついていたりした。負傷者は牛車、シクロなどで運んだ。腕や胴体だけの人もいた。地面を掘ればシャベルに肉片がへばりついた。骨だけ、頭だけの人が掘り出された。彼女は吐き気を催し、1年後まで肉を食べる気がおこらなかった。集団防空壕では沢山の人が亡くなっていて、兵士たちは手袋をして死体の肉片をつまんで袋に入れて運んだ。

ラム(男、1949年生まれ、労働者)が自宅のあった場所に戻ると家は崩れて跡形もなく、一面が荒野のようになっていた。死体置き場には死体が薪のように並べられていた。悪臭が漂い、薬品を撒かなければ堪えられなかった。どこが誰の家の跡か分からず、自宅の位置を正確に決めることができなかった。どの死体もぐちゃぐちゃで、キム(男、1945年生まれ、労働者)は身内の顔も判別できなかった。ホア(女、1945年生まれ、労働者)の夫と義妹夫婦の死体は掘り起こされた。義弟の死体は遠くに吹き飛ばされて他の場所で見つかり、携帯していた学生証によって身元が判明した。義妹の夫の死体は足がなく、義妹のそれはバラバラだった。夫は片腕と顔の半分がつぶれてなくなっていた。

インタビュイーの一人、ホアさん

身内の死体がいまだに見つからない人もいる。ラム(男、1949年生まれ、労働者)の家は爆弾が命中し、父親の死体は見つからず、母親の死体も肉片だけで(正確には誰のものか分からず)、服の破片を拾って棺に入れ埋葬した。棺桶はなんとか確保したが、覆う布のない棺桶だった。ホア(女、1945年生まれ、労働者)は、一緒に集団防空壕に避難した義母の死体の行方がいまだに不明である。霊能者(ngoại cảm)に頼んで調べたが分からなかった。ドゥック(女、1955年生まれ、労働者)は爆撃で兄夫婦、姉夫婦と母親を亡くし、母親の遺体はどこに運ばれたか、いまだに不明である。

後遺症が残った人もいる。チン(男、1951年、兵士)はカンボジアで戦闘中にカムティエン通りの空襲の知らせを聞いたが、家族が死亡したことは1975年に除隊になってはじめて知った。両親の遺体は空襲後1か月経過して見つかり、青年突撃隊に行っていた妹と彼以外の家族の全員が死亡していたので、赤十字が代わって葬式をし、ヴァンディエン墓地に埋葬した。妹は青年突撃隊から帰ってきて家族が亡くなったと聞き、あまりのショックで精神を病み、3年間精神病院に入院することになった。ラム(男、1949年生まれ、労働者)の幼い娘は6時間生き埋めになり、そのため精神的後遺症が残り、今も両親の介護を受けながら同居している。

5.自衛民兵の戦闘


クリスマス爆撃における北ベトナム側の代表的表象は、一方でカムティエン通りの悲惨な爆撃被害であり、他方ではハノイ防衛防空師団、とりわけ花形は米軍機を迎撃するミサイル部隊とMig-21戦闘機の勇姿であった。クリスマス爆撃30周年の2002年に制作された映画「ハノイ 12昼夜(Hà Nội 12 ngày đêm)」https://www.youtube.com/watch?v=QrjjUgEumMc  ではミサイル部隊を中心にハノイ防衛防空師団の奮戦ぶりが描かれている。本稿では従来あまり触れられてこなかった自衛民兵の戦闘の記憶について述べたい。

アン(男、1936年、労働者)は最初に北ベトナムで軍事義務法が適用となった世代で1958年に徴兵された。北部ではまだ戦争がなかった64年に除隊したので、直接の戦闘経験はなかった。当時、北部最大の国営工場であったチャン・フン・ダオ機械工場の労働者となり、工場の自衛中隊の戦士となった。またハイバーチュン区の機動中隊の中隊長となり、救援活動に参加した。

スエン(男、1931年生まれ、労働者)は第一薬品企業の職場の自衛民兵で、高射砲射撃班の班長だった。高射砲は3階建ての工場の屋根に設置され、ドンダー区の地方軍から弾の供給を受けた。同工場の射撃班は1972年に成立し、3つの射撃班があった。女性が動員されることもあった。米軍機1機撃墜すると牛肉が褒美にでた。彼によれば、自衛民兵での働きには国家からの手当の支払いはなかった。

ラム(男、1949年生まれ、労働者)はトンニャット自転車工場の自衛民兵でタインスアン地区の100mmの高射砲陣地に詰めていた(1970~72年)。「祖国の為に決死」の覚悟をもって、軍隊のように24時間臨戦態勢をとっていたので、帰宅できるのはごく稀であった。首都司令部により訓練を受け、1か月で作戦技術を修得した。彼の隊はF8を1機撃墜したことがあり、勲章を与えられた。撃墜した翌日、褒美に牛肉がふるまわれた。カムティエン通り爆撃後、電気がなく暗く寒いなかで爆撃が続き、こわくて眠れなかったという。1973年にパリ和平協定が調印された後、隊は解散し、通常の仕事に戻った。

女性として工場の自衛民兵に参加したのはトア(女、1947年生まれ、労働者)フン(女、1938年生まれ、労働者)である。トアは、サオヴァン・ゴム工場の自衛民兵で、青年団の青年突進隊に参加していた。フンは、工場の自衛民兵に参加していたが、幼い子どもがいたので、普段は免除されていた。工場の屋根の上には14.5mm銃が設置され、青年突進隊の女性たちは日夜臨戦態勢をとっていた。12月27日、工場が爆撃を受け、工場長と2人の女性自衛民兵が犠牲になった。

カムティエン通り(2010年12月29日)

6.復興へ向けて


インタビューした16人のうち、自宅が全壊した人は13人いた。全壊をまぬがれたのは3人だけであったが、そのうち2人の家は屋根が吹き飛ばされていた。爆撃で家屋が破壊されたことによって住まいの確保が喫緊の課題となった。被災者の対応は、さまざまな支援を受けて元の場所に直ちに仮家屋を建てた人(スアン、スエン、ミン、ロイ、チン、ドゥック)、疎開先に身を寄せた人(ヴオン、アン、キム、ラム)、政府が斡旋した住宅(ハノイ市郊外の仮設住宅)に移った人(ホア)などに分かれた。しかし仮設住宅に移った人は多くなかった。いずれの人もカムティエン通りに自宅を再建するまでに長期間の大変な労苦に堪えなければならなかった。

(1)国や地方からの復興支援

北ベトナム政府が被災者に対して具体的にどのような支援をしたのかについては人によって証言内容がまちまちでその中身を確定しにくいが、国の支援が僅かしかなかったという認識についてはインタビューした人たちの間では驚くほど共通していた。

ヴオン(男、1937年生まれ、大学教員)によれば、爆撃後、国は家屋が倒壊した世帯に200ドンと食器・油紙を補助した。アン(男、1936年生まれ、労働者)は地元の行政委員会(現在の人民委員会)から30ドンの支援金と布団、蚊帳、茣蓙、食器などを支給されたという。ヴォン(女、1948年生まれ、専門学校教員)も地元の行政委員会が蚊帳を支給してくれたと述べる。フン(女、1938年生まれ、労働者)キム(男、1945年生まれ、労働者)は、国が棺桶を自動車で運んできて、死体が入れられた棺桶を自動車で郊外に搬送してくれたと指摘する。フック(男、1945年生まれ、研究員)によれば、当時の地方政権は十分に援助できるだけの余裕がなく、家を失った人に行政は仮設住宅を用意し、布団などの生活用品を若干支給しただけだった。

(2)職場からの支援

勤務する職場からの支援もあった。ヴォン(女、1948年生まれ、専門学校教員)の職場は食器を支給してくれた。「烈士」の家族ということで区の青年団が軍隊のサッカーチームを支援に送ってくれた時、職場も人を派遣し、講堂を寝泊りに使わせてくれた。姉ら3人は国家公務員なので職場が葬式を出し、ヴァンディエン墓地に埋葬した。フン(女、1938年生まれ、労働者)の工場では、死亡者には見舞金と棺を覆う布を支給した。

(3)親族・隣近所からの支援

国や職場の支援が僅かしかなかったのに対し、より頼りになったのは親族・隣近所の扶助や自力更生であった。トア(女、1947年生まれ、労働者)は、カムティエン通りの自衛民兵と被災者自らが戦災を克服したのであって、軍隊によってではないと述べ、在地の自衛民兵と青年突進隊と人民が復興の主要な力だったと指摘する。ラム(男、1945年生まれ、労働者)も、行政や職場の援助は少しだけで油紙を支給してくれた程度で、爆撃直後は自衛民兵の隊が支給してくれた衣服や布団でまかない、国の援助は非常に少なく、民による自力復興が主だったと強調した。

敵アメリカへの恨みを刻む像

7.対米感情と補償


聞き取り調査でインタビューした16人がアメリカについてまず語ったのは、住宅街であったカムティエン通りを米軍が絨毯爆撃したことに対する非難と怨嗟の声であった。「アメリカは残虐で病院や住宅地まで爆撃して、多くの人を死亡させた。戦争とはいえ、悪辣すぎる。彼らはいまだにそうだ」とスエン(男、1931年生まれ、労働者)は非難する。「爆撃されてアメリカへの恨みの心はいっそう強まった。当時、アメリカは軍事地区だけ攻撃するといっていたが、カムティエン通りはそうではない。その後、ハノイ駅を攻撃するためだと言い訳したが、それも違う。目的は、ベトナム政府に圧力をかけるために、民を殺戮すること。それでますます恨みが強くなり、我々は必死で戦った」とキム(男、1945年生まれ、労働者)は恨みにより抗戦意志が掻き立てられたという。

戦争の記憶は国際関係の変化によって大きく影響されるし、その逆もまた真である。爆撃当時強かった爆撃への恨みは40年を経て、次第に変化してきている。スアン(女、1949年生まれ、兵士)は言う。アメリカ人が友好親善のために訪越しても私の恨みは強かった。しかし強かった恨みも時の経過とともに鎮まり、米越関係に配慮した考え方をとるようになったと。ヴオン(男、1937年生まれ、大学教員)はこう主張する。現在のカムティエン記念碑は死者に祈りを捧げるものであって、恨みを表現するものではない。「過去を閉じて、未来に向かい」、ベトナム人民は平和を希求する。しかしこのように「過去を閉じる」ことは過去をまったく忘却することではない、と。

クリスマス爆撃後、約40年経過したが(調査時)、この被災に対してアメリカはベトナム側に補償していない。インタビューした人たちの中では、「戦争受忍論」をよしとせず、アメリカ政府に対しベトナム政府を経ないで直接被災世帯に補償を望む声が強かった。

スエン(男、1931年生まれ、労働者)ホン(男、1925年生まれ、労働者)は、アメリカは責任をとって被害を補償しなければならないとし、戦争で破壊されたところを再建してほしいと強く要望している。さらに国家間の賠償ばかりでなく、被災世帯ごとに直接の補償をアメリカに求めているのが、ロイ(女、1931年生まれ、労働者)ヴォン(女、1948年生まれ、専門学校教員)キム(男、1945年生まれ、労働者)である。ヴォンはこう述べる。以前、アメリカが補償するという話があったが、結局何もなかった。アメリカは2・3年後に直接補償しようとしたが、ベトナム政府が同意しなかった。それは人民にとっては損失であり、アメリカが被災した各世帯に直接補償することを希望する、と。さらにホア(女、1945年生まれ、労働者)は、戦争補償が今になってもなされていないほか、戦闘等で死亡した「烈士」と民間人の戦争被災者とで追悼や補償に差別があることを問題視している。

歴史遺跡に公認されたカムティエン記念台

おわりに


軍事史研究家・前田哲男は、空からの殺戮につきまとう「目撃の不在」と「感触の消滅」を指摘しているが(前田哲男『戦略爆撃の思想』上、現代教養文庫、1997年。19ページ)、このような「戦略爆撃」の「感覚のなさ」に拮抗して、被爆者の空襲の記憶、それも具体的で感覚的な記憶を紡いで対置させることはまったく意味がないことではなかろう。第二次世界大戦における欧州戦線のベルリンやハンブルグに対する絨毯爆撃、東京大空襲をはじめとするB29による日本の焦土化作戦、そしてベトナム戦争における「北爆」と「南爆」といった一連の「戦略爆撃」が、それらを指揮した米空軍参謀総長カーチス・ルメイ大将によって繋げられるとするならば、それらの被爆の記憶を繋げて対置し、空からの殺戮につきまとう「目撃の不在」と「感触の消滅」を補完する努力をしてしかるべきだと考える。本稿はささやかながら、その一環である。

前田哲男は「戦略爆撃の三原則」の一つに「敵国民の戦意を挫折させる」を挙げているが、[前田 1997 上:293]、本稿で紹介したインタビューに見られるように、クリスマス爆撃、ひいては北爆においてそれは明らかに失敗し、結局、北ベトナムの人々を屈服させることはできず、むしろ戦意を掻き立てる結果に終わったことを特筆しておきたい。

また荒井信一は、「北爆」と「南爆」の性質の違いについて言及し、「北爆を戦略爆撃の系譜において説明することはできなくはないが、南爆の場合には、むしろ植民地支配のときの「懲罰作戦」の系譜を受け継いだように思われる」(荒井信一『空爆の歴史 ー終わらない大量虐殺』岩波新書、2008年。208~209ページ)と興味深い指摘をしているが、この点は今後の検討課題としたい。ただ、本稿で取り上げたクリスマス爆撃などのように北ベトナム側の宣伝によって歴史に刻まれた「北爆」による被災がある一方で、たとえば、同じ1972年の夏に南ベトナム政権下のビンフオック省アンロック市において、「南爆」によってカムティエン通りのクリスマス爆撃よりはるかに多い約3000人が亡くなっていることが歴史に埋もれている点は留意しておきた。ちなみにクリストファー・ゴーシャによれば、ベトナム戦争中の米軍による投下爆弾の量は、半分は南ベトナム(南爆)で、次いでラオス、北ベトナム(北爆)、カンボジアの順だという(Christopher Goscha, VIETNAM A New History, BASIC BOOKS, New York, 2016.  p. 327)。

本稿でインタビューした人たちは主に戦闘に関わる軍人や青年突撃隊隊員等ではなく、戦争被災者である。ベトナムの公刊の戦史や戦争回想記などでは、戦闘者の勇猛果敢な戦闘体験と比べると戦争被災者の悲惨な体験について言及されることは少なく、言及されたとしても、アメリカや南ベトナム政権の悪逆非道ぶりを浮き彫りにして戦意を掻き立てることを目的とすることが多かった。そのような「恨みを刻む」記念碑(怨恨碑)が実際、戦争中に爆撃被災地や虐殺現場で多数建立されており、カムティエン記念碑もその一例である。

その後、戦争被災者の被災そのものに向かい合って悲しみを共有し、復興の労苦をいたわり、平和を祈念するといったスタイルの記念碑や回想記集がつくられるようになったがベトナムには比較的少なく、一般の戦争被災者の声を十分に汲み上げてきているとは言い難い。

そこにはオフィシャルな戦争の記憶と一般の戦争被災者の記憶の乖離が存在する。オフィシャルな追悼や補償において、戦闘等で死亡した「烈士」と民間人の戦争被災者の扱いに差別があることを問題視している上述のホア(女、1945年生まれ、労働者)の発言はそのことを示していると考えられる。その乖離は、カムティエン通りのクリスマス爆撃被災者においては、爆撃被災からの復興の主力となったのは、国家ではなく、親族・隣近所の支援や自己努力であったとの認識や、クリスマス爆撃の補償をめぐるベトナム政府への不信感などによって拡大されている。彼らの「爆撃の記憶」において脱国家化的な面が窺えるというのはあながち的外れではないように思われる。


★本稿については、以下の拙稿を参照していただければ幸いです。
拙稿「1972年クリスマス爆撃の記憶 ーベトナム・ハノイ市カムティエン通りの被災者への聞き取り調査」『東京外国語大学論集』第86号、2013年。
repository.tufs.ac.jp/bitstream/10108/73474/2/acs086013_ful.pdf











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