見出し画像

Ⅰー10. ディエンビエン省の退役軍人たち(前編)移住してきた有名写真の被写体人物

ベトナム戦争のオ-ラル・ヒストリー(10)前編
★2007年12月18日~29日(ソンラ省、ディエンビエン省)

今回は、抗仏戦争(第一次インドシナ戦争)の最終的決戦地ディエンビエンフーで有名なディエンビエン省を訪れた。
2007年12月18日、ハノイ市着。
12月20日午前6時半、ハイヤーでハノイ市内のホテルを出発。9時すぎ、ホアビン省ホアビン市を通過。10時に前回の調査地ムオンケンを過ぎる。12時頃、モックチャウ(Mộc Châu)に着き、昼食。モックチャウは牛乳で有名だが、バオカップ(国家丸抱え)時代、北ベトナム最大の農場があり、お茶の栽培や牛の飼育などがおこなわれた。

コーノイの青年突撃隊烈士慰霊碑
国道6号線と国道37号線の結節点にコーノイ(Cò Nòi)の三叉路がある。ここに青年突撃隊烈士慰霊碑がある。ディエンビエンフーの戦いの際、のべ1万8千人の青年突撃隊隊員が動員されて補給ルートの確保がなされたが、交通の要衝であったここにも約1000人の隊員が配置された。1954年3月13日からの仏軍の激しい空爆により100人余りが亡くなっている。前にも述べたことがあるが、この頃の青年突撃隊は男性のみで、女性隊員はまだいなかった。「民工」には女性も含まれていた。

午後3時頃、ソンラー省ソンラー市に到着。その足でソンラー監獄の跡(現在はソンラー博物館)を見学。ソンラー市内のホテルに投宿。

ターイ族兵士の「英雄」カー・ヴァン・クムの実家
翌12月21日、ソンラー市郊外のカー・ヴァン・クム(Cà Văn Khùm)の実家へ行く。クムはターイ族の兵士で、1969年にラオスで戦死している。「英雄」としての彼の生涯が絵本の小冊子になっており、私も偶々、それを読んでいたので訪問したかったのだ。実家は元の場所に残っていたが、絵本に描かれた田園の中の高床式の家ではなく、街中のみすぼらしい改造家屋になっていた。長兄(80歳)が存命でお会いすることができた。
今回の調査ではターイ族の村に伺うことができたが、概して、ターイ族の高床式の家の方が、前回の調査地だったムオン族のそれよりも大きくて立派だった。

12時頃、トゥアンザオ(Tuấn Giáo)に到着し、昼食。トゥアンザオとムオンアン(Mường Ảng)は麻薬取引の中心地とされる所だ。ファーディン峠(Đèo Pha Đin)は国内最長らしい(約32キロ)。眺めは最高だった。

ディエンビエン市到着
午後3時40分、ディエンビエン省ディエンビエン市に到着。早速、同省の人民委員会と退役軍人会に挨拶に伺う。
ディエンビエン市内の「労働組合」ホテルに投宿。夕方、同ホテルで結婚式披露宴が催されようとしていた。まさにその瞬間に停電になった。その晩はずっと停電。あのカップルの新たな旅たちはあいにくなものとなってしまったが、今頃どうしているだろうか。
ハノイからディエンビエンまでのハイヤー代として運転手に300ドル支払った。

ディエンビエンフーの戦いの関連史跡・記念碑
12月22日、ディエンビエン博物館を見学し、それからディエンビエン墓地を訪れる。この墓地は2004年に建設され、戦死者の名前が出身地別に刻まれている。タインホア省出身者が最も多い。中国出身者も1人いた。その後、ディエンビエンフーの戦いの最激戦地A1の丘に。午後は、ディエンビエンフー戦勝記念台に行く。ディエンビエンの街を見下ろす素晴らしいロケーションにあり、記念像も巨大であるが、手抜き工事のせいで記念像には明らかな欠陥がある。工事責任者は捕えられたというが、欠陥はそのままだ。

12月23日午前、ディエンビエンフーの戦いで仏軍カストリ将軍の指揮所だった壕とフランス人兵士墓地(1994年造営)を訪れる。管見の限りでは、ベトナム国内にはまだ米軍兵士の墓地はない。

写真「クアンチ古城での微笑み」の被写体が辿った人生
その後、バイクタクシーでバンフー城とホアン・コン・チャット(黄公質、1706ー1769年)を祀る社へ。バイクタクシーの運転手が、1972年の春季大攻勢の時に撮られた有名な写真「クアンチ古城での微笑み」(ドアン・コン・ティン撮影)(https://upload.wikimedia.org/wikipedia/vi/d/de/N%E1%BB%A5_c%C6%B0%E1%BB%9Di_chi%E1%BA%BFn_th%E1%BA%AFng%2C_th%C3%A0nh_c%E1%BB%95_Qu%E1%BA%A3ng_Tr%E1%BB%8B.jpg
の若き兵士レ・スアン・チン氏(見出し画像の人物右)が今は当地に暮らしているというので訪ねてみることにした。長いこと、この写真の人物は戦死したと思われていた。チン氏(1954年生まれ)はタイビン省出身。戦後、復員したタイビンでは食っていけなくなり、1985年に当地の新経済区に移住してきた。しかしその後も困窮した生活が続いた。近年になって、写真の人物の特定化と生存が確認された。当のチン氏が貧しい生活をしているというのをタクシー会社マイリンの社長が聞いて、新居を建てて寄贈し、月に100ドルの支援金を出しているのだという。

ディエンビエンでの聞き取り調査:キン族の移住者たち
今回のディエンビエンでの聞き取り調査では、ベトナムの総人口のおよそ9割を占める主要民族キン族が7人、地元の少数民族のターイ族7人の合計14人にインタビューした。それぞれの自宅に伺ってインタビューした。この前編では、キン族への聞き取り調査についてご報告する。

キン族7人のうち2人は抗仏戦争世代の男性でバイイ(1933年生まれ)とクイ(1934年生まれ)でタインホア省、ゲアン省の出身である。バイは身長が低かったため軍隊の身体検査に合格できず、1952年に青年突撃隊に入った。ディエンビエンフー作戦が始まると補充兵となり、ディエンビエンフーの戦いに参加した。クイは1952年に軍隊に入り、53年10月に北部ラオスに行き、翌月にベトナムの戻り、ディエンビエンフーの戦いに参加した。戦勝後、二人の部隊は北ベトナム各地での土地改革工作に参加した。バイイはその後、ディエンビエンに戻り、「匪賊」の討伐に従事した。57年末から58年、二人はディエンビエンに戻り、軍隊が運営する農場の農業労働者となった。60年には軍隊が経営から離れ国営農場となった。バイイはベトナム戦争中は北部ラオス戦線に出征した。1972年、農場は国営からさらに省に移管されたが、経営は苦しかった。ドイモイ以後、請負制に変わった。

ティン(男、1950年生まれ)は、タイビン省出身で1963年に家族が当地の新経済区に移住してきた。1968年に入隊し、北部ラオスに出征した。70年に負傷し、ゲアン省で治療した後、再びラオスの戦場に向かった。73年のビエンチャン協定後にベトナムに戻り、南部の戦場に出征した。戦後の76年には中越国境地方のギアロ、ラオカイに駐屯。83年にディエンビエン省隊に異動。91年、少佐で退役。92年~95年は生活があまりに苦しかったので、佐官の軍人だったのにもかかわらず夫婦で砂金採取をしていたという。1990年代半ばまで、ベトナムの一般の人々の生活はまだ苦しかった。

トゥアン(男、1951年生まれ)、ヒュウ(男、1952年生まれ)、トゥー(女、1960年生まれ)はそれぞれソンラー省、ナムディン省、ハノイ市ソックソン県出身の移住者。トゥーは両親が当地の新経済区で知り合い結婚したのだという。彼女はベトナム戦争世代の軍隊経験者ではなく、1978年の総動員で入隊した中越戦争世代。彼女の家はディエンビエンフーの戦いの激戦地A1の丘のすぐ近くにあり、家を建てる時に多くの遺骨が出てきた。慰霊のため、彼女の家の2階には祖先の祭壇と仏様の祭壇の部屋がつくられている。

トゥアン(男、1951年生まれ)のラオス駐屯経験
彼は1968年に軍隊に入り、西北軍区の第428小団に配属され、1971年からラオスに駐屯した。西北軍区には2つの直属小団があり、その志願部隊の第6小団と第4小団でラオスの支援をおこなった。軍区の第335中団は、乾季にはラオスで戦闘し、雨季には帰国した。第4小団は兵士不足だったので、第428小団から兵を補充した時、トゥアンも第4小団に異動した。トゥアンの部隊はナムバック川以南の地域に駐屯し、ラオス傀儡軍やタイ国軍と戦った。米軍機T28による爆撃もあった。ラオスでの戦闘はベトナム南部でのゲリラ戦に似ていたという。ヴァン・パオ軍はより手ごわかった。トゥアンの部隊はジャングルの中に駐屯し、絶えず移動した。1973年のラオス和平協定で「志願軍」は帰国したが、トゥアンの部隊はベトナム戦争終結後の1976年3月まで残った。ただし軍隊のかたちではなく、農場の従事者というかたちで。つまり、ラオス和平協定後、北ベトナム軍はすべての軍隊がラオスから撤退したのではなく、一部は残されていたのである。

辺境史としてのディエンビエンの歴史
18世紀後半、ハノイの王朝に対抗して割拠したホアン・コン・チャット、第一次インドシナ戦争を締めくくるディエンビエンフーの戦い、国営農場の設置と新経済区による入植・開発(3つのターイがあるといわれる:黒ターイ、白ターイ、ターイビン。つまりディエンビエンには先住のターイ族の黒ターイ族、白ターイ族とターイビン省からの移住者が多いということ。ベトナム戦争後の南北統一後は新経済区は主に南部につくられていく)、ベトナム戦争後の辺境防衛、ドイモイによる変化などが、見学やインタビューから窺うことができた。

次回の後編では当地のターイ族の人たちへのインタビュー結果をお伝えする。










この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?