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Ⅰー14. ターイグエン省での中国軍駐留の記憶および中越戦争十年説

ベトナム戦争のオーラル・ヒストリー(14)
★2009年12月23日~12月30日(ハノイ市、ターイグエン省)

(1)ターイグエン省


今回の調査地はハノイ市の北隣になるターイグエン省である。省都ターイグエン市(人口約19万人、2009年)はハノイ市から約80キロの距離にあり、中国国境までは約200キロと比較的近い。ターイグエン省の北西部の山間部にあるディンホア(Định Hóa)県には、抗仏戦争期の1947年からベトナム民主共和国が疎開したATK(安全区)があり、ここが抗仏戦争を指揮する中枢となった(見出し写真はその時の政府庁舎跡)。

1956年から75年までターイグエンはベトバク(越北)自治区の1省に属し、ターイグエン市がこの自治区の首府となり、ベトバク地方さらには北部山間部地方全域の中心地となった(自治区は1975年に廃止)。そのため大学・高等専門学校が数多く開校され、その数はハノイ市、ホーチミン市に次いで全国で3番目である(調査時)。また、1959年に国内初の鉄鋼コンビナートが建設され、工業都市としても重要な位置を占めている。

ターイグエン省は人口が約112万人(2009年)で、キン族が約73%を占め、次いでタイー(Tay)族が約11%、ヌン族約6%、サンジウ族約4%、サンチャイ族約3%などとなっている。ATKが置かれていたディンホア県だけで見てみると、タイー族は41.1%を占めている。

(2)ターイグエンでの聞き取り調査


2009年12月23日に渡越した。翌24日朝6時半にハノイ市内のホテルを車で出発し、9時前にターイグエン市に到着。ターイグエン省・社会労働傷病兵局に出向き、早速、聞き取り調査を始めた(28日まで)。今回は同局ビル内の会議室をお借りして、この会議室において同省退役軍人会から紹介していただいた人にインタビューした。合計で22人(全員が男性)。退役軍人が18人(大佐10人、中佐3人、少佐2人、上尉1人、准尉1人、中士1人。なお階級は最終的階級)、元青年突撃隊隊員4人(そのうち2人は軍隊から移籍)。

軍隊では士官以上は原則的に共産党員であり、今回のインタビュイーはザン(1949年生まれ、中士。足掛け4年間の捕虜経験あり)を除き、党員である。タン(1944年生まれ、大佐)は少数民族のタイー族であるが、それ以外の人はキン族である。また今回のインタビュイーの中には、1954年ジュネーブ協定後に南から「集結」した人は含まれていない。

(3)抗仏戦争(1946~54年)と「匪賊」の記憶


今回のインタビュイーのうち、抗仏戦争に参加した人は4人いる。

ドゥオン(1930年生まれ、大佐)は、1948年に兵士となったが、軍隊は兵器も物資も非常に不足していた。50年以降、社会主義諸国の支援が得られるようになった。54年のディエンビエンフー作戦の時は、作戦ルートの確保・防衛のため、「匪賊」を討伐した。ディエンビエンフーの勝利後、首都ハノイ解放に向かったが、ラオカイでチャウ・クアン・ロー(Châu Quán Lồ)などの蜂起が、さらにハザンでメオ族王ヴオン・チー・シン(Vương Chí Sỉnh)の蜂起が発生し、それらの「匪賊」討伐に56年までかかった。

ラウ(1933年生まれ、少佐)は1946年に軍隊に入った。53年4月、人民軍隊最初の高射砲部隊に配属された。新しい兵種を学ぶために、ラウは中国に渡り、南寧で3か月訓練を受けた。訓練用の砲車はソ連製であった。中国軍は食事など面倒をよくみてくれた。53年8月に帰国。当時、6個高射砲小団があった。砲車は偽装され、列車で中越国境を越えた。ラウの高射砲部隊はディエンビエンフーの戦いに56昼夜参加し、敵機15機を撃墜した。

キー(1935年生まれ、大佐)は1953年に入隊。ディエンビエンフーの戦いに参加した後、キーの部隊はフート省に戻る途中、ソンタイ地方の「保皇」を称する王党派と激戦を交え、彼の小隊は3人しか生存者はいなかった。

ゴアン(1936年生まれ、大佐)は、1954年、兵士への志願を募る通達が回ってきたが、手を挙げるものがいなかったので、彼が志願した。兄・姉にかわって出征し、ディエンビエンフー作戦の後方支援に従事した。

以上4人の語りから、出征にあたって家族の反対などがあり、兵士の動員が必ずしもスムーズにいっていなかったことや、この段階の軍隊は志願制で、形成過程にあり、50年から社会主義諸国の援助が入るようになって、状況が好転したことが窺える(軍事義務制度による第1期生は59年からで、ダイ(1940年生まれ、大佐)がそうである)。またディエンビエンフーの勝利後でも、北ベトナムの国内にはまだ反体制的な「匪賊」が跋扈しており、それらの「匪賊」の討伐に忙殺されていたことが判明した。

(4)ソ連留学と「修正主義」批判の影響


1960年代に入って、中国はソ連の「修正主義」を批判するようになった。北ベトナムでも、63・64年に「反修正主義」のキャンペーンが繰り広げられ、テト攻勢の前年(67年)に「修正主義者」への取り締まりが強化され、軍人を含め多数の人が処分された。その間、ソ連への留学は控えられていた。

今回のインタビュイーのうち、ソ連に留学した人が2人いる(ゴアン、タン)。
ゴアン(1936年生まれ、大佐)は、1960年にハノイから中国経由で列車を乗り継いでソ連に留学した。ソ連留学の目的は機甲部隊士官として戦車の技術・戦術を修得することであった。彼の留学中に、フルシチョフの個人崇拝と「修正主義」が激しくなり、ベトナムの自主性を保持するため、また南ベトナムの情勢も風雲急を告げていたこともあり、1年前倒しで64年8月に帰国した。

ドゥオン(1930年生まれ、大佐)は、小団の政治員をしていた1962年に、ソ連に留学する予定であった。しかし「修正主義」の事件が起き、党は軍事技術幹部については引き続きソ連留学させたが、政治幹部は国内の政治学院入学に切り替えたため、ドゥオンのソ連留学は中止になったという。

(5)ベトナム戦争における南の戦場の記憶

①北から南への出征
今回のインタビュイーのうち、ベトナム戦争の戦闘に参加した18人は全員、南の戦場に行っている。南への出征時期をみてみると、最も早いのが1965年(2人)で、あと66年(3人)、67年(2人)、68年(5人)、69年(2人)、70年(1人)、71年(1人)、72年(2人)となっており、60年代前半以前に南に出征した人はいない。これは、北から南への兵員の投入が、60年代半ばまでは南出身の「集結」者が中心で、北出身者の投入は主に60年代半ば以降であったという、これまでの調査結果と符合する。

ゴアン(1936年生まれ、大佐)の戦車部隊は1969年に南に入ったが、クアンビン省(北部)のホー村からキャタピラでホーチミン・ルートを下った。ヴァイ村では初めて北の戦車部隊が姿を現したので、敵は不意をつかれて反撃できなかったという。それで南ラオス、クアンチ、中部高原のダックトー・タンカインの戦いでは、敵も対戦車兵器を用意するようになったという。
バン・ティエン・ズン著『サイゴン解放作戦秘録』(世界政治資料編集部訳、新日本出版社、1976年。322ページ)によれば、1972年にはアンロック(現在のビンフオック省)まで戦車を持ち込めるようになった。

クイット(1950年生まれ、中佐)は1969年にハティン省から徒歩でホーチミン・ルートを南下し、6か月かけてタイニン省に到着した。途中でマラリアにより死亡した人も多かった。クイットによれば、この時期、南の司令部は北の兵士をメコン・デルタの戦場に投入することを要求していたという。

学徒動員されたのはトゥオン(1950年生まれ、大佐)タン(1944年生まれ。大佐。タイー族。ソ連留学)である。トゥオンは体育大学在学中の69年に動員され、彼の学科の100人以上の学生が一斉に入隊した。彼が最初に配属された小団は殆ど大学生・高等専門学校生だった。タンは71年に地質鉱山大学生の時に入隊し、中部高原のコントゥムの戦場で戦った。

ホン(1953年生まれ、大佐)は出征したのが71年8月であるが、彼自身は北の訓練部隊に勤務していたため、南の戦場に出征していない。彼によれば、当時、兵士を動員しなければならないため、兵士の募集が1年に何度もあり、4・5回に及ぶこともあったという。トゥオンやタンのように学徒動員もされたことを考えあわすと、69年以降、北での徴兵状況はかなり逼迫していたのではないかと推測される。。

②テト攻勢(1968年)とその直後
南ベトナムの東南部においても中部においても、テト攻勢直後、解放勢力側はかなり追い詰められ、北やラオス、カンボジアに一時避難するケースが多かった。

このような情勢は、トゥオン(1950年生まれ、大佐)によれば、彼が駐屯していた中部クアンナム省では1972年から変化した。71年以前、解放勢力側は人民の解放を主な任務とし、土地の解放までは考えていなかった。72年4月から任務が少し変わり、解放区の拡大が目標とされ、クアンナム省西部から敵を駆逐することになった。72年8月までにはその目標は達成された。この変化の背景には、勢力圏を拡大してパリ和平交渉を有利に進めたいという思惑があった。また補給状況の改善もあった。72年からラオス経由で米・弾薬が自動車で輸送できるようになった。それ以前は、人民の協力を得て、兵士が平服に偽装して、米はクアンナム省平野部から、物資もダナン市近辺から現地調達せざるをえなかった。トゥオンによれば、72年頃まで彼の部隊には正規の軍服がなく、ゲリラみたいな恰好をしていたという。

③パリ和平交渉とクアンチの戦い(1972年3月~6月)
パリ和平交渉も終盤に入ると、交渉を有利に進めるために、戦場での駆け引きも活発になった。その代表的な戦いが南ベトナム最北端のクアンチの戦い(春季大攻勢、イースター攻勢)である。この戦いは解放勢力側も犠牲があまりに大きかったことで、戦後も議論の的となった戦いである。

ドゥオン(1930年生まれ、大佐)の属していた第308師団はベトナム人民軍隊最初の主力歩兵師団で、主要任務は北の防衛であったが、68年から南の戦闘に参加し、ケサンの戦い(68年)、南ラオスの戦い(71年)、クアンチの戦い(72年)に参戦した。ドゥオンはクアンチ城の攻防81日間を経験した。この戦いはパリ会談におけるレ・ドゥック・ト政治局員の交渉に影響が大きいとして、政治的配慮のために激しい戦いになったとドゥオンは指摘する。

この戦いでは、一時、解放勢力側がクアンチ市を占拠・解放したが、サイゴン政府軍・米軍もB52などによる空爆と艦砲射撃などにより必死の反撃をし、クアンチ市を奪回した。この激戦で、ドゥオンの小団約500人余りは、撤退時には生存者はわずか48人のみであった。クアンチの戦いでは、副中隊長以下ほとんどは北から来た学徒兵の新兵で、応急処置的に兵士の補充がなされた。そのため犠牲も多かった。

④1975年春の大攻勢、サイゴン陥落
ホーチミン作戦(75年4月26日~30日)によりサイゴンは陥落し、ベトナム戦争は終結した。今回のインタビュイーの多くもホーチミン作戦に参加しており、その記憶は日時まで鮮明である。サイゴンが陥落したといっても、戦火は完全に止んだわけではなかった。サイゴン政府の残党、中部高原の少数民族の反体制組織FULRO(被抑圧諸民族闘争統一戦線)、カンボジアのポル・ポト軍との戦闘が直ちに始まっていた。

キー(1935年生まれ、大佐)の所属する中団は第2軍団の輸送部隊として、4月30日にサイゴンに入り、彼は自動車に乗って独立宮殿に入った。またサイゴン政府軍参謀本部の攻撃にも加わった。

ジエン(1947年生まれ、上尉)の部隊は75年初に中部高原のザライからバンメトートにいたるルートの防衛にあたっていたが、3月にはバンメトート攻略に加わった。4月28日にサイゴンに向けて行軍を始め、29日5時15分には敵の第25師団のいるドンズー基地への攻撃を開始した。同日、同基地を占拠し、さらにビンズオンの三叉路まで進軍した。そこで独立宮殿突撃部隊の予備軍として待機していた。30日11時30分にズオン・ヴァン・ミン将軍投降の知らせを聞き、みんなで喜び握手した。ドンズー基地に5月16日まで駐屯し、その後バンメトートに戻り、FULROの討伐にあたった。

(6)カンボジアの「聖域」とポル・ポト軍との戦い

今回のインタビュイー達にとって、カンボジアの記憶とは「聖域」と「ベトナム・カンボジア国境戦争」(1977年4月~79年1月)の記憶であった。カンボジアはベトナム戦争中、ロン・ノルによるクーデタが起きた1970年まで、解放勢力にとって、行軍ルート、物資調達地、避難場所の「聖域」としてきわめて重要な役割を果たしていた。

チン(1939年生まれ、中佐)はカンボジア国境の東南部タイニン省でテト攻勢に参加したが、テト攻勢後の敵の平定作戦は激しく、武器の供給も十分ではなかったので、カンボジアに避難した。70年以前はカンボジア領内に逃げ込めば、敵は攻撃できなかった。カンボジア領内には食糧も十分にあり、快適だったという。70年のロン・ノルのクーデタ後、カンボジアにも戦火が広がり、解放勢力はタイニン国境のカンボジア領内6郡に6大隊を置き、チンはその連絡委員長となった。

クイット(1950年生まれ、中佐)によれば、1977年4月、ポル・ポト軍が西南国境全域を攻撃してきて、多くのベトナム人を殺戮したので、彼の所属する第330師団がアンザン省の防衛にあたった。ポル・ポト軍と米軍はまったくタイプが異なり、最初はベトナム軍の被害は大きかった。師団から多数の逃亡者も発生した。78年12月にカンボジアに進攻し、クイットの部隊はポチェントン空港を制圧したが、プノンペンは死の街で犬だけしかいなかった。カンボジアの人々はベトナムを恩人と見なしてくれたという。

77年6月まで中部高原でFULRO討伐にあたっていたチャン(1952年生まれ、大佐)は、翌7月にタイニン省サマットに向かい、翌年までそこでポル・ポト軍と戦った。この時の戦いでは侵入してきたポル・ポト軍を撃退し、時には追撃して10キロほどカンボジア領内に入ることもあった。ポル・ポト軍は残虐で、サマット、ローゴー地方などに越境してきて沢山の人を殺戮した。カンボジア進攻の際には、コンポンチャム、プノンペンを攻略した。攻略は容易だった。しかしプノンペン解放(79年1月7日)後、チャンの中団はポル・ポト軍のゲリラ戦に手を焼き、79年初は激戦となり犠牲も多く、クアンチの戦いに匹敵するほどだった。同年2月16日、タイ国境のタサインを攻撃した後、中越戦争勃発のため、チャンは急遽、中越国境へ向かった。

(7)ベトナム戦争中の中国軍駐留の記憶


ベトナム戦争中、中国から多大の援助が北ベトナムにおこなわれていたことはよく知られている。キー(1935年生まれ、大佐)によれば、中国は主に食品、衣料を援助し、武器弾薬はソ連が多く中国は少なかった。またトラックなどの車両はソ連製と比べ、中国製は劣っていたという。無線技士だったフン(1947年生まれ、准尉)によれば、無線機は中国製、ソ連製、それから戦利品のアメリカ製とあったが、主には中国製だったという。一方、中国軍のベトナム駐留についてベトナム側の資料ではあまり触れられていない。今回のインタビュイーのうち何人かだその点について言及しているので、それを以下で取り上げたい。

ドゥオン(1930年、大佐)は、中国軍がターイグエン省に駐留し、道路建設、防空に従事していたのを覚えているが、当時主にハノイの政治学院に勤務していたので、直接の接触はなかったという。

タイー族のタン(1944年生まれ、大佐)の郷里の村は1979年の中越戦争の時には中国軍の侵略をうけたが、ベトナム戦争中にも中国軍は駐屯していたという。また国道3号線沿いの、ターイグエン市退役軍人会事務所から5~10キロ離れた所にも駐屯していたのを記憶している。彼らは毛沢東の写真と『毛沢東語録』を人々に配った。53~54年、ディエンビエンフーの戦いの時にも大砲を携え駐留していた。タンの村は中国軍の武器の隠し場所だったという。

フン(1947年生まれ、准尉)のターイグエン市内の家は、周囲が中国軍の砲陣地だったので、67年に空爆にあって破壊され、祖父が死亡した。ターイグエン市には鉄鋼コンビナートがあり、米軍の空爆目標となっており、中国軍はその防空に従事していた。

ティー(1947年生まれ、青年突撃隊)は、65~66年の頃のターイグエンの状況を語ってくれた。その頃、中国の友軍が来て、重点地区の防衛にあたっていた。主には砲兵で、防空の任務を帯びていた。道路建設にも携わっていた。ターイグエン地方にはダフック橋以北の到る所に中国軍がいた。当時、ティーの属す青年突撃隊は、中国が管轄していた道路の橋、鉄道の橋の安全を守る任務を負っていた。しかし空爆が激しく、ティーの青年突撃隊と中国軍はその修復に追われた。中国軍は人が多く砲兵は強かったが、戦闘技術はベトナム軍ほどではなかった。中国軍兵士の戦死者も多かった。両国の人間関係は悪くなく、水に溺れかかったベトナム人少年を中国軍兵士が救おうとして犠牲になるなど、友好的な関係が保たれていたという。

ホン(1953年生まれ、大佐)によれば、彼の郷里のターイグエン省ダイトゥー県では、64~67年の段階で、中国軍の部隊もベトナム軍と一緒になって防空戦を戦ったという。

このようにターイグエン省には相当数の中国軍が駐留して、主に防空に携わっており、ベトナム人との関係もそれほど悪くなかったことが窺える。ただし、中越戦争後、中国系住民への警戒が強まったことがドゥオン(1930年生まれ、大佐)の事例から窺える。ドゥオンの妻は華人系であったために、彼は10年間、大佐のままで据え置かれ昇進できなかったという。

(8)中越戦争の記憶

ターイグエン省は中国国境に比較的近いため、インタビュイーの殆どは中越戦争に駆り出され出征していた。

トゥオン(1950年生まれ、大佐)によれば、76~77年に中越国境で問題が発生し、中越国境地方出身者の多くは中越国境に異動するようになり、、彼も77年7月に第1軍区に異動となった。79年2月18日にターイグエンからの出陣命令を受けた。20日夜・21日、バックターイ省(当時はバックカン省とターイグエン省が一つだった)は、ターイグエンのすべての自動車部隊を動員し、トゥオンの第126小団を中越国境のカオバン省に輸送した。彼の小団はティントゥック錫鉱山に駐屯した。21日、中国軍が攻撃してくると、トゥオンの小団は国境から50キロ後退して、陣形を立て直し、グエンビン県にいた中国軍を攻撃した。一昼夜交戦し、敵は沢山の戦死者を出したが、味方の犠牲は少なかった。

3月9日か10日に敵が撤退を始めた。司令部の方針は、敵がふつうに撤退するなら攻撃せず、もし略奪したり人民を捕えたりすれば攻撃するというものであった。
トゥオンは80年まで中越国境に駐屯した。その後83年に再びカオバン省ハークアン県に駐屯する中団の副中団長として赴任した(87年まで)。その間、中国軍との小競り合いや砲撃があり、中国軍がベトナム領内に17~18キロ侵入したこともあった。上からの指令は、中国軍の砲撃してくる大砲が100ミリ以下なら反撃せず、100ミリ以上なら反撃せよ、だった。ベトナム側は国境より2キロ離れた地点に3つの砲陣地を構えていた。88年になってようやく中越国境から主力部隊は撤退した。

ドゥオン(1930年生まれ、大佐)は79年3月に第346師団の政治員としてカオバン省に赴き、84年まで駐屯した。

キー(1935年生まれ、大佐)は、中国軍を攻撃する師団の後方支援副詞団長だった。キーの部隊は敵地に30キロ以上入り、敵軍後方を攻撃したこともあった。キーの師団の小団長は中国領内で戦死したという。キーによれば、中国軍は人海戦術で突入してきるが、火力はたいした威力はなかった。

ゴアン(1936年生まれ、大佐)の第407戦車中団は78年8月から中越国境に配置されたが、彼自身は79・80年と研修中のため、戦闘には参加していない。

カン(1943年生まれ、大佐)は78年11月に第1軍区に戻り、12月にはカオバン省に入った。中国軍は人海戦術で攻めてきたが、ベトナム軍は接近戦で戦い、手りゅう弾を多用したという。カンは83年まで中越国境に張り付いていた。

ジエン(1947年生まれ、上尉)は77年にいったん除隊したが、79年5月に中国軍との戦いに備え、再び動員された(85年まで)。

クイー(1949年生まれ、中佐)は輸送部隊に属していたが、78年5月に北中部のゲアン省から移動し、中越国境戦争の時、当初は第1軍区主力軍の、後に第3軍団の輸送を担当した。ターイグエン市鉄鋼コンビナートの自衛民軍もカオバン省、ランソン省に駆り出された。

チャン(1952年生まれ、大佐)は第3軍団に属し、77年からカンボジアのポル・ポト軍と戦っていたが、79年の2月16日に移動命令が出て、18日には中越国境に向かい、19日にはカオバン省で中国軍と戦っていた。80~82年は政治学院で研修したが、82~87年にはバックカン地方の第392師団に配属された。89年に軍団が解散し、チャンはバックターイ省の省隊に異動した。

ホン(1953年生まれ、大佐)は第1軍区の訓練師団に属していたが、70年代後半に中国との緊張が高まると、訓練師団にもかかわらず彼の師団も77年からライチャウ省フォントーに駐屯した。中国軍が侵攻してくると、直接戦闘に参加した。中越国境戦争に関するホンの感懐は、元々は同志・友人だった者同士の戦いで、中国がベトナム戦争中支援してくれたこともあり、この戦争には触れたくないのが本音で、中越戦争は自衛にためやむを得ずしたものだという。

ルオン(1954年生まれ、大佐)はベトバック地方の防衛を任務とする第246中団に属し、抗米戦争の戦闘経験はなかったが、78年から89年まで中国国境の防衛にあたった。彼にとって最も長く苦しい時期だった。78年に北部在住の華僑達が中国に帰国している時、ベトナム側が国境に障壁や壕をつくっていると、双方が石や爆竹を投げ合い、小競り合いが発生した。79年の中越国境戦争後も84年まで互いに散発的な砲撃があった。89年に平常化の方針が出され、軍隊も戦略を調整し、国境の部隊を削減した。

中越国境戦争は1979年2月17日から3月16日にかけての約1か月間、ベトナム領内での限定的な戦争だったとされているが、以上の証言からすると、ベトナム軍が中国領内に入って反撃したケースもあり、小競り合いの戦闘は84年ぐらいまで続き、中越国境の緊張が緩和したのは88・89年頃であった。上の証言では出てこないが、ハザン省のヴィスエン(Vị Xuyên)戦線などでは84年から89年まで激しい戦闘が続いた。

アジア政経学会2020年度春季大会(ウェブでの書面開催)の分科会1「中越十年戦争(1979ー1989)と現代」で私たちの分科会(小高泰、朱建栄、栗原浩英、石井明、今村宣勝の各氏と私)は中越戦争十年説を提唱した。

拙稿「封印された戦争の記憶 ーベトナムにおける中越戦争の記憶」(越野剛・高山陽子編著『紅い戦争のメモリースケープ ー旧ソ連・東欧・中国・ベトナム』北海道大学出版会、2019年、45~66ページ)で私は中越戦争はベトナムでは「封印された記憶」だとしたが、あまり適切ではなかったかも知れない。というのは、人民軍隊の全面的協力の下で編纂され2016年から発行されている『兵士の記憶』(2022年までに17巻発行)では中越戦争の記憶も扱われているからだ。(Nhiều Tác Giả, Ký Ức Người Lính,  Tập 1~17, Nhà Xuất Bản Thông Tin Và Truyền Thông, 2016~2022 )

(9)青年突撃隊の記憶

今回の聞き取り調査では4人の元青年突撃隊隊員(全員男性)にインタビューできた。

トゥアン(1939年生まれ)は1958年に入隊後、ホアビン社会主義労働青年学校を経て、64年から自動車運転手、その後指導幹部としてタインホア省以北の交通運輸を担当する青年突撃隊に所属した。社会主義労働青年学校の生徒は主に「基本」階級と呼ばれていた貧雇農や労働者の子弟で、1年生・2年生ぐらいの学歴しかない人が多かった。この学校は7年生の課程まで教育を施し、新しい体制の若手幹部養成を目的としていた。

交通運輸部門の人は夜間にライトなしで輸送するなど、大変苦労したが、仕事に誇りをもっていた。青年突撃隊は直接戦闘するわけではないが、爆撃で多くの隊員が死亡した。爆撃が激しい時のスローガンは「敵が破壊しても、われわれは修理して進む」だったが、爆撃が激しい時のスローガンは「敵は破壊しても、われわれは進む」になった。

グエン(1947年生まれ)は65年に入隊し、最初はバックカン省に、その後ホーチミン・ルートに派遣された。隊員には2つの目標があった。1つは青年団員、党員になること。2つは補習学級により学歴を高めることであった。

男性隊員の場合、青年突撃隊から軍隊に移籍する場合もあった。ビン(1942年生まれ)ティー(1947年生まれ)がそうである。

ビンは63年に入隊し、2年間ほどターイグエンとハノイ間の道路建設、荷揚げ、爆撃跡の埋め立て等に従事した。65年に軍隊に移籍し、北中部の第4軍区に赴任した。ビンが所属した青年突撃隊大隊は100人余りで、約8割が女性だった。仕事場から1キロ以上離れた男女別仮設小屋で生活した。食べ物は缶詰の肉魚と乾燥した空心菜と筍で緑野菜が不足していたため、みな唇が脹れていた。マラリアも蔓延し、女性隊員は入隊の翌年には婦人病に罹り、マラリアで髪が抜ける人が多かった。

ビンの大隊では脱走した人はいなかったが、爆撃で22人が亡くなった時、ショックで気が動転してフラフラと彷徨い歩き、そのまま行方不明になった人が何人かいた。ビンによれば、軍隊と青年突撃隊の違いは、第1に軍隊は現場での補習学級を開講していないこと、第2に青年突撃隊は武器や軍事訓練が少なく、自衛のための歩兵銃しか配られていないことである。食糧の支給なども軍隊の方が多かった。ビンは軍隊に移って、待遇がよくなったと感じた。

(10)ベトナム戦争の勝因分析


ルオン(1954年生まれ、大佐)によれば、アメリカに勝てたのは、第1に軍隊から人民、労働者、学生まで国中が一体となってアメリカと戦ったからであり、第2に軍隊の後方支援策が適切であったからである。南に出征した人がいる家で何かがあれば、みんなで面倒をみた。

グエン(1947年生まれ、青年突撃隊)も、アメリカに勝てたのはベトナム人民の犠牲精神、救国事業への捨て身精神があったからだとする。
またダイ(1940年生まれ、大佐)は、軍隊で軍事よりも政治が重んじられたことだとしている。

軍隊に対する人民の支持を挙げたのはドゥオン(1930年生まれ、大佐)トゥオン(1950年生まれ、大佐)である。
ドゥオンは、軍隊は人民がいなければ戦うことはできず、負傷兵・戦死者の搬送も人民が手伝ってくれたという。
トゥオンは、我々が戦場に存在できたのは人民が支援してくれたからであり、とりわけ軍区の主力部隊は食糧・物資を人民に依拠していた。「戦争のベトナム化」の頃、敵は「戦略村」をつくり、人を集めたが、人民は犠牲を払って我々に物資を購入してくれた。我々に現金がなくても、請求書だけで物を売ってくれた。わが軍隊の力の源泉は主には人民が庇護・支援してくれたことだとトゥオンは強調した。

まとめ

以上、北部ターイグエン省の退役軍人などの語りから以下のことがいえる。

①戦争への動員

抗仏戦争期、北ベトナムでの徴兵は志願制で、動員はまだスムーズではなかった。1959年に軍事義務制度が整えられるが(軍事義務法の公布は60年4月)、それは農業集団化、商工業の社会主義改造が進められていた時期と重なる。北出身者が本格的に南での抗米戦争に参戦したのは、バオカップ(国家丸抱え制度)が確立された時期であった。戦争への動員は「基本」階級が中核とされた。軍隊や青年突撃隊では「基本」階級が重んじられ、それによりダイ(1940年生まれ、大佐)やトゥオン(1950年生まれ、大佐)は士官、政治員に優先的に登用された。青年突撃隊は女性を戦争に動員する重要な受け皿となった。

②戦争の記憶の重層性

ターイグエンは抗仏戦争の抵抗拠点であり、中国国境にも比較的近いということもあり、抗仏戦争、中越国境戦争の記憶も強く、またカンボジア国境戦争に従軍した人も多いため、ベトナム戦争だけが突出した戦争の記憶というわけではなかった。「公式的記憶」ではあまり触れられることのない中越国境戦争の記憶が当地の退役軍人では大いに語られているのが特徴的である。

③軍隊の人民への依拠性の強調

ベトナムにおけるベトナム戦争の「公式的記憶」によれば、勝因の第1に挙げられるのは、共産党の優れた指導である。今回の聞き取り調査では、佐官級クラスの退役軍人が多いにもかかわらず、そういった発言はなく、軍隊への人民の支持を強調する現場レベルの記憶と「公式的記憶」がずれていることが注目される。

④南での戦争指導主体

今回の聞き取り調査では多くの人が南の戦場に出征しているが、彼らの話の中に南ベトナム民族解放戦線は一度も登場してこなかった。それほど彼らにとっては南ベトナム民族解放戦線の存在感が希薄であった。南の第5軍区に駐屯していたトゥオン(1950年生まれ、大佐)は、受けた命令・指示はすべて軍区党委から来ていたと明言し、南ベトナム民族解放戦線には一言も触れなかった。このことからも、各軍区においては軍区党委が、南全体では党南部中央局(61年1月~76年7月)が戦争指導主体であったことが裏付けられる。

⑤戦争をめぐる中国との関係

ベトナム戦争中、ターイグエンには相当数の中国軍が駐留して、北ベトナムを支援した。また中国に留学して軍事技術を学んだ人もいた。これらの中国の戦争支援に対して、退役軍人の中には今でも恩義を感じている人がおり、退役軍人がまったくの反中一色というわけではない。歴史の襞は複雑である。1979年に始まった中越国境戦争は、ベトナム領内での約1か月間にわたる「限定戦争」であったとされるが、今回の聞き取り調査の証言から、空間的・時間的にそれをもう少し拡大して再検討する必要があることも明らかになった。


聞き取り調査についての報告は以上になります。
聞き取り調査の合間に、12月26日午後にターイグエン市内の民族文化博物館を見学。12月29日午前、鉄鋼工業区、師範大学、医科大学などを見学した後、抗仏戦争中に民主共和国政府が疎開していたディンホア県のATK(安全区)まで足を延ばし、政府庁舎跡、ファム・ヴァン・ドン執務室跡などを見学。小さな村役場程度の規模であった。丘の上には立派なホー・チ・ミン記念館が建てられ、ホー・チ・ミンが祭り上げられていた。同日、夕方、ハノイ市に戻る。翌30日、帰国。


★今回の聞き取り調査については、以下の拙稿を参照していただければ幸いです。
拙稿「敵が破壊しても、われわれは進む ーベトナム北部ターイグエン省退役軍人達の戦争の記憶ー」『東京外国語大学論集』第83号、2011年。
repository.tufs.ac.jp/bitstream/10108/69470/2/acs083018_ful.pdf












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