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なぜ限界ADHD商社マンになったのか②~少年期編

こんにちは。限界ADHD商社マンJです。
記事を開いていただき、ありがとうございます。

前回に引き続き、なぜ限界ADHD商社マンになったのか、の少年期編です。単なる経験の棚卸しの要素を多分に含みますので、流し読み程度でご覧いただけると幸いです。

①~11歳:不安定な愛着によるトラブルの数々
小学校5年生くらいまで、色々なトラブルにより周囲を困らせていた。溢れる承認欲求と劣等感の強さから感情や行動のコントロールが全くできない、注意欠陥の兆候が見られる、等大変な少年だった。適切に周囲から矯正されなければ100%成人犯罪者ルートだったので、私は母親のことを毒親とか口が裂けても言えないし、寧ろよくこんなトラブルメーカーを育ててくれたなと感謝しかない。これで母親がマトモでなかったら、、、と想像すると恐ろしい。

この頃引き起こしたトラブルの例を挙げる。

- スイミングスクールの帰りのバスで、1学年下の子を数発叩いてみる(怒りに任せてとかではなく、単にふざけて)→当該児童の保護者が自宅突撃、母親を土下座謝罪させ、当然死ぬほど怒られる。涙ながら就寝するベッドで、自分には存在価値が無いのだ、と確信する。同時に、この時期のこういう精神的歪みって、後々ヤバい影響ありそうだなぁと、子供ながらに感じる。

- ものを盗む。万引きを繰り返す。トレカとかミカンとか。動機は今となってはハッキリ思い出せないのだが、とにかく衝動的に刺激を欲していた、存在価値を感じたかった、のだと思う。余談だが、窃盗癖というのは愛着障害の症例として割と頻出する。これを後に知ったとき、なるほど!こりゃあ最悪だ!となってしまった。

- 癇癪を起こす。小5、クラスで雪合戦。自分に構ってもらえなかったことに腹を立て、爆泣きしながら担任に雪玉を投げまくる。担任(新規採用1年目)曰く「俺はお前のことがわからない

- いじめを受ける。といってもドギツいものではなく、悪口とか無視とか仲間はずれとかいう次元。多分ドンクサイからとか、単にデカいからとかいう理由だったと思うが記憶が曖昧。しかし、小学4年時の担任からは宿題をしてこない不良として嫌われていたので(純粋に悪意を向けられていたと思う)、自分がいじめたことにされ、結論を聞いた母にも叱られる。そして要領が良くトラブルを引き起こさない兄と自分を比べ、自己肯定感は死を迎える

-常に生傷が絶えない。低いブロック塀を飛び越えようとして膝を強打し、大きめの風穴(?)が膝小僧に開く。溢れ出る鮮血。結果10針くらい縫う。体育の授業中、移動中のサッカーゴールの下敷きになり軽傷くらいのことは日常茶飯事

②~12歳:若干安定
この頃になってくると精神的に割と落ち着いてきた。単なる精神的成長もあるし、習い事で受けていたいじめが、所属クラブを変えて無くなった結果、競技への楽しみを見出し、真剣に取り組めるようになったのも大きかった。

まとめ:
ぶっちゃけ”片親の子は問題ありがち”という見方は、経験を見てもわかる通り偏見ではない(実証)。私が幸運だったのは、トラブルが発生する都度、教え諭し、矯正してくれた周囲(親・地域社会)のおかげだと思う。今となっては振り返るのも怖い少年期だが、とにかく必死に生きていたことは間違いない。今、少年期の自分にかけてあげられる言葉があるとすれば、「大丈夫、君はよく生きてるし、ちゃんと愛されているよ…」ということくらいだろうか。

…最後までご拝読頂きありがとうございました☺
次回は青年期の話です。

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