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エピソード①

昨日、久しぶりに発達障害の自助会に参加をした。

昨日は仕事のお話をする機会があったので、今日はそれについてお話しする。
今、例えば
「私、オープンかクローズのどっちで行こうか迷ってます💦」
と言う人の道標になれれば嬉しく思います

さて、話を戻す。

これまで
・介護職
(1年3ヶ月:この途中にADHDと診断)
・病院での事務職
(約7年:ADHDをオープンにして就職@以下オープン)
・ものづくりの職業訓練校に入校
(1年;CADや金属加工の勉強をしてものづくり企業への就職を目指す)
・ものづくり企業でのお仕事(約2年半:オープン)
と経験してきた。

私は、現在ものづくり企業で、事務仕事をさせていただいている。
介護職や、病院での事務職の時は、いつも周りに指摘をされたりしていた。
今の仕事場では、指摘をされることなくお仕事をさせていただいている。

昨日の自助会で
「これまで、指摘されてばかりだった山本くんが、今の職場で指摘されることなく、仕事ができる様になったのには、何かきっかけがあったん?」
と聞かれた。

私は、
「自分の能力では、正社員で働くことが難しいと気付かされ、無理のない範囲で働く事ができているからかもしれません。」
と答えた。

当時を振り返ってみる。
私の心の中には、
「正社員になって生活を安定させたい。」
と言う強いこだわりがあった。

社会制度上、障害年金や生活保護などがあり、それらを利用することによって、身体的、精神的な安定が出来たかもしれないにも関わらずだ。

特に、病院での事務職としての勤務中にその思いはより一層強くなっていった。
少しでも、正社員として働ける可能性があるならと、私はものづくりの技術をつけるために、1年間ものづくりの職業訓練に通学する決断をする。

なぜものづくりなのか?
私の特性上、コツコツと集中して作業をすることは向いていた。
例えば、パソコンでの入力をしたり、スーパーでの商品を品出しをすることは、難なくできていたことから、工場で体を動かしながら、コツコツできる職場なら自分でも正社員として務まるという「甘い考え」の元、私は方向転換を決断した。
(しかし、この時点では「自分にはどう言うやりにくさがあり、周りにどうやって助けてもらうか」と言う根本的な問題は何一つ、解決できていなかった。)

私は、職業訓練校に入校して、それまで以上に気合を入れて、訓練に挑んでいた。
卒業生は、溶接や板金加工、そして部品の設計図を作るといった仕事についている。
希望に胸を躍らせて、訓練も一生懸命取り組んでいた時、私は教官から呼び出された。

教官
「山本くんは、よく同じ失敗をしたり、わからないからって何回も同じ質問をしてるよな?職場に出たら一回で仕事を覚えて、それを自分のモノにしていかないと、周りから笑われたり、ボロクソに言われて、最終的には辞めないといけなくなるぞ?」

心当たりは、沢山あった。
「介護職の時も、いつの間にか信用がなくなっていたこともあったし、病院での事務職の時に怒られていたのも、何回も同じ質問したり、失敗が積み重なったからかも・・・。」
「ひょっとして、自分が社会でつまづいていた原因ってこれが積み重なって行ったことじゃ無いんかな?」
「周りからしたら、何回も同じ説明をして「こいつに何言っても無駄だから」っていう思いになってたのかもしれないな?」

同時に、こういう思いにもなった。
「今回自分なりに、かなり気合入れて訓練に臨んでいたけど、それでも同じような事を言われたって事は、自分には『人並みに仕事を覚える事は難しい』って事なのかもしれないな。。。」と。

そして、私は正社員という働き方を諦め、自分のハンデをオープンした働き方にシフトし、障害年金を申請する決断をした。

主治医とは正直うまく行ってなかったが、自分の現状や症状を行政機関の方々の協力もあり伝える事ができた事で、主治医にも診断書を書いていただく事ができた上に、「いつでも困ったら相談にきなさい」と仰っていただけた。

その甲斐もあり、障害年金の申請も通って、気持ちに余裕ができた。
それが、今の職場でもいい方向に出て、体の力を抜いて働く事が出来ている事につながっているのかなと思っている。

あの時、「甘い考え」もと、ものづくりの職業訓練に行く決断をした事で、教官に出会って、半強制的に自分の特性を理解して、需要する機会を頂けた事は、自分にとってとても大きな出来事だった😅
(もちろん葛藤はたくさんあったけど笑)

最後に、昨日の自助会で頂いた言葉で締める。
「欲しいものって追わなかったら、そのうち何かの拍子に手に入るようになっているから、焦らずに行こ^^」

皆さんの人生も、写真の桜みたいに素敵になることを願っています^^







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