【短編小説】『歓喜の歌』

 ――それを初めて見たとき、まだ幼稚園児だった若葉サトルの心に、火がともった。
 無音を切り裂くピアノの振動。
 老いさらばえたピアニストがステージのうえで、熱気を振り撒き躍動していた。
 鍵(けん)のうえを、十指二足が軽快に踊るさまはいかにも若々しく、そこに老人など、始めから居ないかのようだ。

「――!!」
 興奮のあまりサトルが立ち上がると、演奏が止まった。

 周囲のどよめきにも、母親の、真っ赤な顔で嗜めてくる声も、老人のねめつけた視線にもお構いなしに、サトルはまくしたてる。

「ーーー!! !!! ーーー!」

 老人には、この子供が何を言っているのかは分からなかった。
 しかしただ一つ、これだけは理解した。

  ――ボクも、やりたい! ボクもなりたい!! と、言いたいらしいことを。

 老人はゴホン、と、わざと大仰に咳払いし、サトルに向かって立ち上がる。

 ――この老人が、いまから何を言うのか。
 周囲の関心が、否応なしに、この老人と子供に集まる。
 ――やはり説教のひとつでも、するのだろうか。
 ――可哀そうではあるが、それは当然のことだろうな。
 ――ああ、お母さんあんなにハラハラして。今にも頭下げかねないわね……。

 そんな下馬評など知らぬ気に、2人の視線がぶつかった。

「……やりたいようにやってみろぃ、ボウズ!」

 ステージに上がってからずっとしかめっ面だった老人が、ここに来て始めて、ニヤリと笑った。
 何事もなかったかのように着席し、演奏を再開させる。

 周囲の観客からすればとんだ肩透かしではあったが、やがて納得したように笑みを浮かべ、老人の演奏に聴き入るようになる。

 さっきよりも一層つよく、激しく、楽しげに弾かれた音の暴力に、観客全員が、快く屈してしまったのだ。

 サトルもそれらをビリビリと感じながら、自分もああなるべく、かつてないほど真剣に、目を輝かせていた。

 ※

 それから、サトルの行動は早かった。

 母親に駄々をこね、楽譜と、ロールピアノを用意してもらった。
 父親は、知己の音楽教師にお金を渡し、家庭教師として雇うことにした。
 母親は正直いい顔をしなかったが、父子の行動を悪し様に断じることは、サトルのことを考えるとあまりにも酷すぎた。
 原因は自分にもあるだろうと、母親はあえて、口を出さなかった。

 ――しかし母親の懸念どおり、サトルは一向に、ピアノが上達しなかった。

 サトルは寝食を忘れるほど一所懸命だったし、父親も諦めずに知己にお金を渡し続けたが、最初に根をあげたのは、他ならぬ知己の音楽教師であった。

「……本当に言いたくはなかったが、これはもうお手上げだ。
 そもそも無意味だって、お前にも分かっていただろう?
 これ以上、無責任な希望を掲げてお前からお金をとるわけにはいかない。
 サトルくんには、別の道を勧めてあげてほしい。
 ……分かってくれ、悪く思うな」

 去っていく知己の後ろ姿を、父親は決して責めなかった。
 むしろ肝胆照してくれたあの男の誠実さを、好ましく思ったほどだった。

 父母は知己の勧めどおり、サトルに別の道を示そうとした。
 サッカー観戦に行ったり、キャッチボールをしてみたり、博物館に行ったりと、色々な所へ赴いた。

 しかし、サトルはピアノの演奏以外に関心を示すことはなかった。
 まるで執着しているようにも思え、母親はぞっとした。

 心を鬼にしてピアノから剥がそうとしたら大声で暴れる始末。
 次第に両親は疲れ果て、何も言わなくなった。

 ※

 小学校にあがり、サトルは毎日、放課後の音楽室に籠るようになった。
 自分が蒔いた種とはいえ、そこはかとない居づらさを感じていたのだ。

 しかし、相も変わらず、サトルのピアノは上達しない。

 彼の名誉のためにいうなら実は、リズムも、発せられる音階も、かなり精密であった。
 だがやはり、どこか、違う。
 誰かの心に響くまでには、至らない。
 過去に教授した、父親の知己の言葉を借りるならば、“調教の不可能なMIDIシーケンサー”。
 精密ではあるが、それ以上でも以下でもない。
 それが、サトルの演奏のすべてだった。

「おい、ホーイチ! まーた弾いてんのかよ!」

 ガキ大将のリュウノスケが、サッカーボールを蹴とばしてきた。
 ボールが脳を揺らしながら、サトルを椅子から転げ落とす。

「始まったよ。リュウノスケくんの、ホーイチいじめ」

「”みみなしホーイチ”に、なに言ったって無駄だってー!」

「♪へたっぴ ♪へたっぴ ♪ホーイッチくん! 耳にお経でも書き忘れちゃったんですかぁー?」

 リュウノスケの取り巻きたちが、口々に囃し立てる。

「それ! ♪へたっぴ ♪へたっぴ♪ ホーイッチくん!」

「♪へたっぴ ♪へたっぴ ♪ホーイッチくん!!」

「♪へたっぴ ♪へたっぴ ♪ホーイッチくん!!!」

 心無い氷の塊を全身に喰らいながらも、サトルは震える手足で、鍵盤に噛り付こうとする。

「てめぇ、まだ――」

「もうやめて!!」

 リュウノスケがなおも牙を剥こうとしたのを見て、赤いワンピースの女の子が叫んだ。

「……なーにキレてんだよ、サチコちゃん」

 リュウノスケは動じない。サッカーボールを拾い上げて地面に置き、サチコの頭上に照準を合わせた。
 しかし、サチコはサチコで物怖じしない。
 赤いワンピースよりもさらに顔を紅くしながら、リュウノスケのもとへとズンズン近づき――。

「いだっ!?」

 ――思考する隙すらも与えぬ、と言わんばかりに、リュウノスケの足を、サッカーボールごと踏んづけた。

「……私、ここに歌をうたいにきたの」

 邪魔だから帰ってくれない? にっこりと笑うサチコに気圧され、悪ガキどもは、そそくさと退散した。

 サトルはとうとう、泣き出してしまった。

 ピアノが上手くいっていない自覚はあった。
 両親に理解されず、
 周りからはバカにされ、
 ピアノをやめることもできぬまま、
 ただ、時間ばかりをムダにして。
 挙句の果てに、見ず知らずの女の子に助けられてしまった。

 サトルの自尊心はもうグチャグチャで、生まれて初めて、ピアノを捨てて逃げ出そうと思ったほどだ。

 ふと、サトルの目元を、柔らかい何かが拭う。
 そのハンカチには、シナモンロールのシルエットがあしらわれていた。

「ずっと、聴いていたんだから。
 毎日まいにち、暗くなるまで、ずっと、弾いてたでしょ?
 ずっと、見ていたんだから」

 サトルには、女の子の言っていることが分からなかった。
 だけど、自分が労われているような気がして、今度は嬉し涙にうめいた。

「よしよし。
 ……でもね、そんな調べじゃダメなの。
 あんなのじゃなくて。
 もっと心地よくて、喜びに満ちてなきゃいけないのよ!」

 見ててね、と、サチコはサトルにウインクをしてみせる。

「……♪フロイデ シェーネル ゲッテルフンケン トォーテルアウス イリュージウム……」

 指揮者のような手振りで、元気いっぱいに全身を動かすサチコ。
 4小節歌い上げたところで、ピアノのほうを指さす。

 ……”弾け”っていう、ことなのかな……?
 サトルは恐る恐る、白鍵に指を乗せた。

 サチコは満足げに頷く。

「それじゃ、もう一回いくね?
 ……♪フロイデ シェーネル ゲッテルフンケン――」

 サチコの動きに合わせて、弾き始める。

 ……不思議な感覚だった。
 いつも通り弾いているだけなのに、今は妙に、楽しいのだ。

 彼女の手ぶり、口の動き、コロコロと変わる表情につられるように、指先が動く。
 サチコが、伝わったんだ、と嬉しそうな顔をするたびに、サトルの心が跳ねた。
 それはまるで、幼いころ、初めて老人の演奏を目にした時のようだった。

 互いが互いの喜びに呼応し続け、音色はおおきくなり、やがてひとつになる。
 音楽室中に響き渡ると、2人の心がじんわりと温かくなった。
 
 音のない世界で生きてきた少年は、ここに来て始めて『歓喜の歌』が、溢れんばかりの笑顔と涙でできていたことを知る。

<了>

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?