ラジオ・ググ

方向転換するので置いておく己語りです!!
すみません!!!!!
なんとなくで残しています
見ないでください..お願いします見ないでください..じゃあなんで残してんだよっていうのはそうなんですがなんとなくで残していますお願いします見ないでください..






私なりに踏みはずしました
やばいことしか言ってない
しかも客観なし

やばい

発信と警鐘と目の前の事柄を紐解くということだけで
生きることができて
正常に戻ることができて
少なくとも最低限やるべきこと(引っ越すとか)ができるくらいの行動力を身につけることができました

客観的な証拠が無い状況下で、
こういう馬鹿みたいなことをやるくらいの
エネルギーというか
他の人の経験に基づいた様々な知見からくるなにかしらの力というか(なにを言ってるんでしょうか)

何より、他の人のエネルギーそのものに触発されたエネルギーというか(なにを言ってるんでしょうか)


自分は多分本当に馬鹿なんだなと思いました


色んなものをみました
周りも
なにより自分を


人は脆いんだなと思いました

迷うんだなと思いました

自分も人なんだなと思いました


過去の私が見たら
2年前の私が見たら
ドン引きしてます

なにより自分に

元来鬼冷めてて
なんか最近思い出したんですけど
そういえば人がどう思うかとか
特に近い人
家族とかに顕著に
なんか冷たかった
幼さ起因ではないなにか
なんというか性向的な冷たさ
最近思い出したんですけど
たしか思春期とかにすごい気づいたというか
小学校高学年くらいの時かな
最も内部がすごい冷たかった
幼さではない冷たさ

で頑張って
というか色んな人と関わって多分
なんか得た

なんか得た
冷たくなくなった
最も内部が
高校とか大学とかそんくらいの時に
なんか得た


なんか得たってやつが
まあふつう人に対してそんなことせんよな
を考えもせず分かる
っていう共通感覚
つまり冷たくないやつ


元来冷たかったから
閾値は広く取れたし
冷たくない感覚に変換する術というか
冷たい感覚をずっと持ってるとしんどいから
しんどいの嫌だから
まあ人って色々だよねこういうこともあるよね自分も大概だし的なので
まあさらっと忘れてまあいいかで笑って流すみたいな

そういうの得たんです
多分
たまに歩いててそこらへんのテントで何人かが椅子並べて和気藹々団欒してる空気と同じ感覚
つまり孤独のグルメみたいな空気



私にそれは大事だったんだなと
なんか得た後の私に



そういう2年前の私からしたらドン引きです


とある日にカラオケで
カラオケのあの壁紙がゲシュタルト崩壊しそうな日に
ああ
おかえり
っていう

幽霊みたいにそこにいる昔の自分
すごく昔のだけど
描写するとそんな感じ
そういう感覚があり

それは別にどうでもいいとして



なんか得た後の自分は
本当は得ない前の自分だって居たし
多分冷たさを持っていた

だからなんか得た後の自分だって
なんらかのシチュエーションで意識すると
なんか状況みて意図とか分かった
だって自分が冷たいから
冷たい思考を持ってたから

でもそこに波風立てるのもしんどいし
だって冷たいから
冷たくない感覚が好きなのに
しんどくないし
あったかいほうがちゃんちゃんで終わるほうがなんか生きやすいし
現に一番それが好きだし


実際に都合よく扱われてたとしても
自分のそのそれを重視していた


そのそれを重視するのをやめてみました
今回ですごい使いました
冷たさに拍車かかりました


元来の私は
別に何も思わないんだろうなって思います

でもなんか得た後の私は
なんか寝込むんだろうなと思います
多分大事な感覚だと思います

他人の筆跡で戻してもらえるのは
だからすごいありがたかった
他の人が記事を書いていてくれてよかった
noteの記事
内容がどのようなものかに関わらず

隣の部屋に誰かが住んでいる
向かいに誰かが住んでいる
生活している
日常を送っている
note記事を見ると
そういうのと同じ感覚になる

なんか得た後の自分の感覚で
見つめられる


そんくらい外しました
元来の感覚ももなんか得た後の感覚も入り交ぜて

出来事じゃなくて
その文言をはじめに目にした時から今までの
自分の推移
思い出すのが難しい

その時なにを思って
なんでそうしたんだっけ
みたいな
私は覚えてません。笑
てか覚えてたら生きてません冗談ですが




人は脆いんだなって思いました

別によくね脆くてっていう
まず爬虫類でも恐竜でもない時点で
だってこの皮膚である時点で(適当)



ただ写そうと思ってたのになんか新しく書きやがった我輩

なんか書きたくて書き始めた気がするけど最終的になにに帰着させたかったのか忘れたンゴね




私は表現することもアウトプットすることもあまり得意ではないんだなと気付きました

でも観ることはどうしようもなく好きなんだなと思いました


向こう側に眩い光の層が蠢いているのが見えて
でもそれは手前の山に阻められていて
微かに山の上からその様相をはかることができて
まるでゴジラが振り向くと紫の光線がビーッと一帯を刺すようなあれのマイルド版というか
曇りの日の雲の重なりが微かな陰影ではかれるのと同じで
そういう微かな光の陰影で光源がひとつではないことがはかれる
私は観たい
登っているのは枯れ木を真っ直ぐ縦に積み上げた一本の線
でも私は観たい
もう少し
もう一本繋げたら見えるかもしれない
まだ全部見えない
でも私は観たい
もう一本繋げる
まだ見えない
まだ観たい
すごく鋭利な枝とかも使った不安定な枝だってそこかしこ使っている
まだ観たい

みたいな

観るというのは高いんだなと知りました

他人をじゃなくて
自分を


他人がそう動くのは他人だから知らないけど
それを観た自分の感覚は
それを見ないと観えない
自分を観るのは一番できない

ことにこんな機会で


どうしても既存の
自分が良いと思っている自分で観ようとしてしまう

自分でも引くほどの自分で観てみた

自分でも引くほどの自分で観てみたけど自分でも引くほど自分で観るので然るべきじゃねってぶっちゃけちょっと思うところがありました

自分でも引くほどの自分

自分でも引くほどの自分ってこんなんなんだ
って思った

実験したら結果が得られました



増やして混ぜる
最近思いました
変わるって増やして混ぜるってことなのかな
なに言ってるんでしょうか
あくまで持論ですが




なんで初っ端の冷たいのくだり書いたのか思い出した

増やしたら混ざっちゃったんだ!っていう

ちょっと前なら混ぜなかったけど
混ぜまいと必死にもがいたけど
なにか‘良い人でありたい’という欲
そこから外れたくない

それは正しかったのかもしれないし間違ってたのかもしれない

でも混ぜてみて混ざっちゃって混ざっちゃったという現在の状況という結果を得てしまい

なんかその結果が分かったということだけは
自分に対する実験の甲斐があったので
なんか別にいっかみたいになりました

あれ?

まじでなに言ってるんだ?


という自分の状態も実験対象なので今後の結果というか自分への観察もきっと続くんだろうなって

それが変わるというか

生きるというかみたいなこと
なんだろうなって

ドヤ顔で去るドヤ顔で去るドヤ顔で去るドヤ顔で去る

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