息子達に伝えたかったこと―長崎原爆の記録2―羽田恵美
この記事は、下記を読んでからお読みください。
(こちらの記事は2番目の記事(2/3話目)です。)
https://note.com/nice_sedum848/n/n9a88905ce261
後頭部、後首のところを首がちぎれるかと思はれる程、大きくぽっかり穴をあけた娘が戸板にうつぶせになって運ばれてきた。
十五、六才位だったか、気丈な娘で泣ききもせず、ヨイショヨイショと自分でかけ声をかけて痛みに挑戦している様であった。
傷口はグシャグシャで、ガラスの破片や、土や砂を取り除くのに時間がかかった。 縫合も出来ないので、ガーゼを入れて当分つけかえに来る事になった。
家は前の山の向こう側で、歩いて三十分はかかるのだろうが、親がつきそって毎日戸板で通ってきた。
三日目も、四日目になってもまだ傷の奥から砂などが出て父をてこずらせた。
ピンセットで探ると娘は、そんなに髪を引っぱるなとわめいた。
自分の傷が自分で分からぬ娘は、そこにまだ髪の毛が生えていると思っているのだろう。
それでもヨイショヨイショと懸命にこらえる様子に、父も感心だともらしていた。
若さの力が助けてか、傷口は次第に快方に向かったが、そのうち今度は髪の毛が抜け始めてきた。
脱毛、発疹、黒い下痢便、大した傷もないのにこんな症状で次々と死んで行く患者をかかえて、父は首をかしげ、残念がり、ピーター線だとかガンマー線だとかいって、何か、分からない何かがあるのだとつぶやいた。
永い父の臨床体験にも未だかつてないことで、どうにも手の下し様がなかったのである。
だが、強い生命力というか、 娘の髪は一たん全部抜け落ちて丸坊主になったが、不思議に命はとりとめて快復し、後日道の尾の駅で元気に歩いている姿を見かけたこともあった。
その時はたしか、まだ生え揃わぬ頭に、丸い毛糸の帽子をかぶっていた。(S49.2.19)
*
負傷者の手当てにてんてこ明け暮れている最中に、国民服にゲートルを巻いた数人の男性(佐世保医師会の人達ときいたように思う)が巡回視察に立ち寄って、しばらく父と立ち話をし、何やら薬を置いてくれていったようだった。
今思えばそれは放射線に対するものではなかったろうか。
(H20・8・10追記)
**
たしか住吉の先の方から来ていたと思うが、十一、二才の女の子。
ひたいから眉にかけてざっくり切れていた。
二つに分かれた眉を引き寄せて幾針縫った。
女の子に顔の傷は気の毒だったが、割合順調になおって抜糸もすみ、親も喜んで、足を縛った生きた鶏をお礼の印にと置いて行った。
その気持ちが嬉しくて、皆で喜び合ったのが記憶に残った。
若い婦人だったが、これは顔面めちゃめちゃで鼻柱もめり込み、ひどいの一語につきたが、父も苦心して何とか顔の形をとりもどして縫い合わせた。
あれだけの傷にしては割合うまくいった方だと、父は自分で満足していた。
女性としては気の毒な事であるが、もとの顔を望むのはあの時の状態では無理な話で、命の助かっただけが奇跡に近いと思った。
後日里帰りした折、当時の想い出話が出た。
あの人どうしているかしらと云ったら義姉が、近所にいるらしいけど、ときどき道で会っても知らん顔をしてるのよと、会釈一つせぬことをはがゆげに云った。
もしかしたら、あの顔に命をつなぎとめてくれたことを、本人は怒っているのかもしれないと秘かに考えてみた。
(S49.2.20)
***
二日目だったか、三日目だったか、とにかく大分時がたってから、鶏小屋の裏にたおれている男の人をみつけ出して縁に運び上げた。
やけどで顔も身体もまっ黒、言葉もよく分からない。
とぎれとぎれの話し様でどうやら朝鮮の人らしいと判断した。
やけどの手当てをしようにも、もうどうにもならぬ程ひどくて、火ぶくれが化膿してベロベロと皮がむけた。
耳の穴や皮ふの下から、大きなうじ虫がビョコリピョコリと出できた。
これが生きた人間かと思われる程であった。
それでも食事を口に入れてやると、感謝して礼をのべていることは分かった。
何日か世話をしたが、そのうち担架でどこかに運ばれて行った。
可哀そうだがあのやけどではとても駄目だろうと父は云った。
私達はときどきその人を思い出しては話題にした。
(S49.2.20)
***
真夏の暑い盛りだったので、手当のおくれた傷口はほとんど化膿して、やけどのただれた臭いと共に、あたり一面異様な悪臭をただよはせた。
おかげで町内の炊き出しで持ってきてくれた真っ白なおむすびが、どうにものどを通らなかった。
当時大豆や南瓜の雑炊ばかりで過ごしていた我々にとってそれは、いつ又お目にかかれるかしれない尊い宝物であった。
もろぶたに並べられた沢山の銀めしの珠を前にして残念で残念で、義姉達と顔をみあわせてため息をついた。
学徒動員でかりだされてきていた五高の(七高だったかもしれない) 学生が、数人の仲間に助けられて、連れてこられた。
傷は背中だったと思う。
さほど重傷というわけではなかったが、行先もないのでお願いしますと頼んで座敷に寝かせ、がんばれよと励まして、仲間たちは何處かに行ってしまった。
親元を離れて、他郷の地でこの御難に会った若者に同情して、私達は何かとめんどうをみた。
数日寝たままの彼は、容態もあまりはかばかしくなく、やがて例の黒い下痢が始まった。
やっぱり・・・と暗い思いで言葉も出なかった。
呼吸困難がきて、枕元にかけつけた父は、遠のいて行く若者の魂に「おいっ しっかりしろ」と強い語気でよびかけ人工呼吸も試みたが、若い蕾は声もなく散ってしまった。
何ともやりきれない気持ちであった。
(S49.2.21)
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